伊藤野枝年譜 1911年(明治44年)16歳


【3月】
保持研子と母、
荒木郁子の玉名館支店(小石川区高田豊川町→
『「青鞜」の火の娘』p47)に宿泊。
➡『「青鞜」の火の娘』p35

【4月】
●伊藤野枝(16歳)、5年に進級し級長になる。
担任は国語科教師の西原和治。
校内新聞『謙愛タイムス』
(週一回発行)編集長就任。

●4月末
野枝に周船寺高等小学校4年の担当
・谷先生から長い手紙が届く。
5月上旬、谷自殺の報が届く。
➡「背負ひ切れぬ重荷」
『婦人公論』1918年4月号

●辻潤(27歳)、神経衰弱を理由に
精華高等小学校を退職。
西原和治の紹介で上野高等女学校に
英語教師として赴任。
➡「ふもれすく」(『婦人公論』1924年2月号)

バーナード・リーチの夫人が
上野高女の会話の教師をしていた関係から、
バーナード・リーチと知りあう。
バーナード・リーチが桜木町にいた時分、
時々尋ねたり、演奏会に一緒に
行ったりした。(「連環」)

※上野高等女学校、同校教頭・
佐藤政次郎(1876〜1956)と西原和治
(1877・1878〜)と辻の関係
➡『野枝さんをさがして』

※上野高等女学校時代の野枝
➡『自由 それは私自身ー評伝・伊藤野枝』
※野枝と同級生の証言➡
『定本 伊藤野枝全集』(第二巻)の「月報」

●辻と野枝、朝と帰りを共にし
(『東京朝日新聞』一九一六(大正五)年
十一月二十一日号の投書記事)、
辻は野枝の住む叔父の家にも
訪ねたりもしていた。

【5月】
●5/29
らいてう、保持と長江宅を訪れる。
雑誌名の話題になる。

保持案「閨秀文壇」「閨秀文苑」「女流何々」
らいてう案「黒燿」
長江案「ブルー・ストッキング」

鴎外がストッキングに「鞜」という字を
使用していたので「青鞜」にする。

「青鞜」は鴎外の命名というのは誤り。
➡『元始女性は太陽であった』(上)p299

【6月】
●6/1
物集和宅(本郷区千駄木林町9)で
青鞜発起人会を開催。

発起人は以下5人。
らいてう、保持研子(やすもちよしこ)、
中野初子(編集発行人を引き受ける)、
木内錠子(ていこ)、
物集(もずめ)和子。

物集邸に青鞜社の事務所を置く。

5人の発起人により賛助員の依頼をする。
賛助員は長谷川時雨、与謝野晶子、
国木田治子(独歩婦人)、
森しげ女(鴎外夫人)、
小金井君子(鴎外の妹)、田村俊とし子など。

青鞜社社員は発起人を除いて、
野上弥生子、荒木郁子、長沼智恵子など。

雑誌名「ブルー・ストッキング」、
女性の有名人や作家の妻を賛助会員に
というアイデアは長江。
➡『元始女性は太陽であった』(上)p301

●長江、本郷区根津西須賀町に引っ越す。
春夫と同居し「超人社」を名のる。
文壇サロン化する。大杉も訪れる。
➡『知の巨人 評伝 生田長江』p131

【7月】
●1学期末、野枝の心は塞いでいた。
縁談話が進行していたから。
「閉ぢたる心」
(西原和治『新時代の女性』郁分社 1916.9
 ➡『野枝さんをさがして』(p73)

【8月】
●8/7
晶子「そぞろごと」の原稿が青鞜社に届く。
発起人一同、大喜びする。

●8/22
野枝、夏期休暇で帰郷中、末松福太郎
(隣村の周船寺村字飯氏の農家、
末松鹿吉の長男)と仮祝言、
翌日上京。

●東京尾張町に「カフェ・ライオン」開店。

●辻潤、夏に『天才論』の初めの部分を訳す。

●8月下旬
蒸し暑い夜、らいてう、
「元始、女性は太陽であった」を
一気に書く。

【9月】
●9/1
『青鞜』創刊。
9/3の東京朝日新聞に広告。

田村俊子の小説「生き血」掲載。

津田英学塾在学中の神近、『青鞜』創刊号を
三番町の大橋図書館で読む。

●9/2
物集女邸で青鞜社員の研究会開かれる。
田村俊子(日本女子大第一回生。中退)の
個性的な言動に、らいてう呆れる。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』342頁

「だれがいったい責任をもってやっていくの」
などと冷笑的にずけずけいうので
社員たちの初対面の印象は悪かった。
尾竹紅吉によれば、
長沼智恵子を連れて編集部に遊びにきたとき、
話にも加わらず壁にもたれて
煙草をふかしていたという。
➡『明治怪女伝』

●本邦初の「人形の家」(松井須磨子)、
文芸協会の坪内逍遥が
自邸内の演劇研究所で上演。

●野枝、夏休み以降卒業までの間、
従姉の代千代子と佐藤政次郎教頭宅に寄宿。
➡「伊藤野枝年譜」
『定本 伊藤野枝全集』(第四巻)

辻の恋人おきんちゃん
(吉原の酒屋の娘)と遭遇。
➡「惑い」『青鞜』4巻4号

【10月】
●仏英和専攻科在学中の小林哥津、
木内錠子の紹介で
青鞜社の社員になる。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』360頁

【11月】
●島村抱月訳「人形の家」帝国劇場で上演。
ノラ役の松井須磨子が大当たりをとる。
『人形の家』は「青鞜」(1911年創刊)
とともに「新しい女」の象徴となる。
観劇したらいてうは松井須磨子を
「皮相な演技」と評する。

帝劇は女優と椅子席でも話題になる。

●11/21
野枝、末松家に入籍される。

●11/29
紅吉、叔父の家から大阪に帰り、
「私は入社を欲します」と
らいてうに手紙を書く。
➡らいてう「一年間」
(『青鞜』第三巻第二号)

【12月】
●青鞜12月号。
岡本かの子が青鞜社に入社。

仏英和女学校在学中小林哥津が青鞜社に入社。

●年末、野枝「桜雲会」で上演した
「ベニスの商人」でベラリオ博士役をやる。
また、土井晩翠『天地有情』中の
新体詩「馬前の夢」を朗読。

伊藤野枝年譜 索引