伊藤野枝年譜 1912年(明治45年/大正1年)17歳


【1月】
●1/1
『青鞜』2巻1号「附録ノラ」。
「附録」は女性問題の特集記事のこと。

らいてうが大阪にいた紅吉を
社員として認める。
➡堀場清子『青鞜の時代』p83

●1/1
孫文を臨時大総統(臨時大統領)
とする中華民国成立。

●野枝(17歳)、千代子とともに
佐藤政次郎教頭宅(子供2人)に寄宿。
辻の恋人おきんちゃん
(吉原の酒屋の娘)と遭遇。
「惑い」『青鞜』4巻4号

伊藤野枝全集(上)
伊藤野枝17歳のころ
(『伊藤野枝全集〈上〉』学藝書林)

●1/21
青鞜社、在京会員の新年会を開く。
大森海岸森ヶ崎の料亭旅館・富士川。

長沼智恵子が出席。
宮城房子(のち武者小路実篤夫人)も出席。
宮城は藤井夏という
女名の男(投書家)と同伴。

世話人は荒木郁子。
「富士川」は荒木の懇意な店。
➡『元始、(下)』352頁

午前中から始まり、
午前二時ぐらいまで続いた。
『青鞜』二月号「編集室より」に
レポート掲載。
➡『「青鞜」の火の娘』p37

【2月】
●2/12
清朝の皇帝である愛新覚羅溥儀が退位。
袁世凱が中華民国の大総統(大統領)に就任。

●2/19
哥津に連れられて
紅吉がらいてうの書斎を訪れる。
➡『青鞜の時代』p98

【3月】
●青鞜3月号
岡本かの子の歌「我が扉」。

三ヶ島葭子、青鞜社社員になる。

●野絵、卒業間近のころ
同級生を煙に巻き大言壮語。

「私は卒業すれば九州に
帰らなければなりませんから
しばらくあなた方とはお別れですが、
必ず東京へは出て来るでしょう。
そして、私は人並みの生き方を
しませんからいずれ新聞紙上で
お目にかかる事になるでしょう。
そうでなくて、九州に居るようになれば
玄界灘で海賊の女王になって・・・」
 ➡「伊藤野枝年譜」
『定本 伊藤野枝全集』(第四巻)

●3/24
代準介の実父・佐七死去。
準介、急遽、長崎に戻る。

●3/26
野枝、上野高等女学校卒業式。

●3/27
上野公園の竹の台陳列館(美術館)で
故青木繁遺作展覧会
(『美術新報』主催第三回展覧会の
一部として開催)を辻と野枝が見る。
野枝、上野公園で辻に抱擁される。

野枝が遅れたため、夜11時の汽車に変更。
代一家と新橋駅から博多に帰郷。
(キチと千代子※もうひとりの従姉妹も同行?)
「わがまま」『青鞜』1913年12月号

➡『定本 伊藤野枝全集』(第二巻)「書簡 木村荘太宛」

●3/29
大杉&堀保子、大久保百人町三百五十二へ転居。

【4月】
●4/1
『青鞜』二巻四号。
紅吉、太陽と壷の表紙絵を描く。

●巽画会第十二回展覧会に出品した
紅吉の二曲一双の屏風「陶器」が
三等賞銅牌を受ける。
「富本憲吉と一枝の家族の政治学(2)」

●野枝、婚家に嫁いだ
9日目の朝に婚家を出奔。
叔母・坂口モトや大牟田の友人宅を訪ねる。

●4/10
「ノエニゲタ ホゴタノム」という電報が
上野女学校に届く。

●4/12
末松福太郎から
辻へ抗議の手紙がくる

●野枝のことが学校で問題になり、
辻、自ら上野高女を辞職する。

●野枝、上野女学校の恩師、
西原和明に援助を頼む。

●4/13
啄木(1886~1912)、
小石川区久堅町にて肺結核のため死去。

●4/17
青鞜社員、田端の筑波園に集い、
大阪から上京した岩野泡鳴、清子と会う。

同時期、尾竹一枝(4月9日に一家で
大阪から下根岸へ転居)が
らいてうの円窓の部屋を訪れる。
➡『青鞜の時代』p100
➡『元始、女性は太陽であった(下)』358頁

●4/18
荒木郁の小説「手紙」により
『青鞜』2巻4号(小説特集号)発禁。

夜10時ごろ、巡査と私服の二人
が青鞜社の事務所である物集邸を訪れ、
一冊だけ残っていた青鞜を押収。

●4月末、辻、上野高女を辞職。
「出奔」『青鞜』1914年2月号
➡「従姉へ」『青鞜』
➡神近市子「手紙の一つ」『青鞜』2巻4号

●晩春
野枝、平塚らいてう(1886~1971)に
手紙を書き(九州の住所で)、
数日後、本郷区駒込曙町の
らいてう宅を訪ねる。
➡平塚らいてう
「伊藤野枝さんの歩いた道」

〈どこか動物のそれのような特別に真黒な
瞳をもった豊かな、新鮮な感情の波が絶えず
動いている抜け目のない眼は、彼女がいかに
勝ち気な意地張りな娘であるかを見せている
ようにも思われますし、また話しの度ごとに
鼻を動かして、鼻孔をいくらか
ひろげるような特殊な表情や、
大きなしかし薄い唇の動く
あたりに、何かしら残忍な、野性的は
或るものを思わせるものがありました。〉
➡『わたくしの歩いた道』

●与謝野晶子、夫寛を追ってパリへ。
帽子をかぶるためパリで断髪、
晩年までの定番に。

【5月】
●青鞜社事務所を物集邸から
本郷区駒込蓬莱町万年山
(まんねんざん)勝林寺(臨済宗)に移転。
らいてうの懇意のお寺(海禅寺)の
住職の紹介。
前号が発禁になったため。

物集和子は青鞜社を退社。

●5/5
読売新聞社会面が
「新しい女」の連載をスタート。

田村とし子、林千歳、
長沼智恵子、中野初子など。
林千歳は青鞜社社員の女優。
ズーデルマン「故郷」にマグダの妹役で出演。

●5/13
尾竹紅吉の自宅で青鞜同人会。
紅吉の「陶器」三等賞を祝う集まり。
平塚らいてうと尾竹紅吉が抱擁、接吻。
➡『元始女性は太陽であった』(下)p366

●文芸協会がズーデルマンの「故郷」上演。
上演禁止になる。
『青鞜』6月号、
女主人公マグダの生き方について論評する。

●このころ「五色の酒」
「吉原遊興」事件起きる。
➡『元始女性は太陽であった』(下)p372

【6月】
●辻潤、巣鴨区上駒込四一一番地にて、
野枝と同棲(婚姻届けは大正四年七月)、
母光津、妹恒も同居する。
生活のために陸軍参謀本部の
英語関係の書類を翻訳する。

「僕(辻潤)角帯をしめ、野枝さん丸髷に
赤き手絡(てがら)をかけ、
黒襟の衣物を着し、三味線をひき、
怪しげなる唄をうたった……」
➡「ふもれすく」

●『青鞜』2巻6号「附録(特集)マグダ」。
5月に文芸家協会がズウデルマンの
『故郷』を上演、上演禁止になる。

●『太陽』6月臨時増刊号「近時の婦人問題」

●6/28
神田美土代町の青年会館で
「ルソー生誕二百年記念講演会」。
三宅雪嶺が提唱、堺、高島米峰が発起。

長江、講演する。
社会主義者との交遊始まる。
高畠素之、大杉らも参加。
➡『大杉栄研究』p83

【7月】
●7/1
『青鞜』7月号

紅吉「あねさまとうちわ絵の展覧会」

メイゾン鴻ノ巣(日本橋区小網町鎧箸脇)
の広告が入っているが、
紅吉が取ってきた。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』371頁

●7/10
『万朝報』と
7/11(~7/14)『国民新聞』
(「所謂新しい女」)が
「五色の酒」(メイゾン鴻の巣)「吉原登楼」事件を報道。
➡『わたくしの歩いた道』p114
➡『元始、女性は太陽であった(下)』371頁

●7/12
紅吉、高田病院で肺結核の診断を受ける。

7/13、らいてう、紅吉、紅吉の母、
南湖院に日帰りで行く。

7/14、らいてう、紅吉、南湖院に行く。
紅吉、入院。
➡『青鞜の時代』p115

●7/20
「東京朝日新聞」が
明治天皇の病気を報じる号外発行。
「聖上陛下御重体、14日より御臥床あり」

●7/30
午前0時43分、
明治天皇崩御(実際は7/29の22時43分)。

●7月末
野枝、今宿に帰郷。
両親に末松との離縁、除籍を要求。
平塚に手紙を出し帰京の汽車賃の援助を懇願。
平塚、辻潤の家を訪問。

●『中央公論』7月臨時増刊号「婦人問題」

【8月】
●『青鞜』2巻8号
神近市子、
青鞜社の社員に(津田英学塾在籍中)。

神近、7月に「手紙一つ」という
作品をらいてうに送る。
榊○というペンネームを使用。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』398頁

●8/17
らいてう、茅ケ崎へ。
南湖下町の良助という
漁師の家に間借りし、
青鞜一周年記念号を編集。
➡『青鞜の時代』p115

●8/18
東雲堂の西村と奥村が南湖院を訪れる。
➡『青鞜の時代』p117

●8/19
紅吉が奥村に手紙を出す。
➡『青鞜の時代』p116

●8/20ごろ
紅吉の手紙を読んだ奥村、
南湖院にらいてうを訪ねる。
らいてう、青鞜一周年
記念号の表紙絵を頼む。

その2、3日後、絵の図案を持って
奥村、らいてうを訪ねる。
この夜、らいてうと奥村、
一部屋に寝る。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』

●南郷(馬入川が海へそそぐあたりの河口の
地名)の弁天さまの境内で記念写真を撮る。

らいてう、長江夫妻、紅吉、保持、荒木郁子、
尼崎から来た木村政子。
青鞜2巻9号、1周年記念号に
「南郷の朝」掲載。
表紙は奥村の絵。

この写真を撮影した後、
生田夫妻と別れて
一同がらいてうの宿に集まる。
そこで荒木郁子が生田先生の病気に言及。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』

●8/27
らいてう、奥村に
奥村が書いた絵が欲しいとう手紙を書く。
奥村、自画像を届ける。
➡『青鞜の時代』p119

●鈴木文治らが友愛会結成。

【9月】
●『青鞜』2巻9号(1周年記念号)。
神近、実名で小説「手紙の一つ」を書く。

●『新潮』9月号「新しい女」特集。

●9/4
らいてう、帰京。
奥村の自画像を
円窓の部屋の机の脇に飾る。
➡『青鞜の時代』p119

●9/13
明治天皇大喪の礼。
同日夜、乃木希典と妻・静子が自刃。

女子英学塾在学中の神近、青山菊栄を
紹介してくれた元同級生の弔問に行く。

●9/14
紅吉、南湖院から退院。

●9月半ば過ぎ
奥村かららいてうへ
手紙が届く(9/17の日付)。
9/17の日付の同じ文面の手紙は
紅吉にも届く。
➡『青鞜の時代』p135

奥村が書いたとされる「若い燕」の手紙は
新妻莞(後『サンデー毎日』編集長)が
仕組んだ筋書き。

前田夕暮の最新歌集
『陰影』の表紙見返しに
「燕ならばきっとまた、
季節がくれば飛んでくることでしょう」と書き、
城ヶ島に滞在している奥村に小包で送る。
➡『わたくしの歩いた道』p143
➡『元始、女性は太陽であった(下)』

●9月末
野枝、離婚を承諾させる。
平塚からの送金を得て帰京。
➡「従姉へ」青鞜4巻4号

●生活のため翻訳仕事を始めた辻は、
ロンブローゾ『天才論』を6月から
3か月半余りで訳し終わり、
秋頃出版予定の筈が、
佐藤政次郎に紹介された本屋がつぶれ、
その後出版社がなかなか見つからなかった。
(「おもうまま」)

●秋
尾竹紅吉、長江の「超人社」に同居。
紅吉の妹・ふくみに失恋した春夫が
「ためいき」を書く。

●9月
青鞜社社員の上野葉子が佐世保から上京。
らいてうと会う。

【10月】
●10/1
大杉栄(27歳)、荒畑寒村と
第一次『近代思想』創刊
(~1914.9。発禁にならず23冊発行)。
明治社会主義から
大正社会主義への脱皮の第一声。
➡『日録・大杉栄伝』p92

堺利彦「大杉と荒畑」という人物評を書く。
➡黒岩比佐子『パンとペン』p383

発刊資金は大杉の友人、
『実業之世界』の野依(のより)
秀一から金策。
『日録・大杉栄伝』によれば創刊の費用は
大杉の亡き父の軍人遺族
扶助料を抵当にして調達。
➡『大杉栄研究』p100~

近代思想創刊号
第一次『近代思想』創刊号。
左は第二次創刊号

(『大杉栄 伊藤野枝選集 第二巻』
黒色戦線社)

●『青鞜』2巻10号
伊藤野枝の名が社員として初めて載る。
「伊藤野枝 福岡県三池郡二川(ふたかわ)
村濃瀬(ママ)阪(ママ)口方」
二川村大字濃施(のせ)の家は
坂口モトの婚家。
渡瀬(わたぜ)駅前で旅館を営んでいた。
➡「伊藤野枝年譜」
『定本 伊藤野枝全集』(第四巻)

10月から休会になっていた
青鞜研究会を再開。
東雲堂に発売などを任せたから。

火曜と金曜の週二回。
生田長江「モーパッサンの短篇」
阿部次郎「ダンテの神曲」
➡『元始、女性は太陽であった(下)』

●10/17
尾竹竹坡の紹介で
鴬谷の「伊香保」(懐石料理の有名店)で
青鞜1周年記念会。
翌日の万朝報が「新しい女の会」を報じる。

らいてふと神近市子、初対面。
当時、神近『万朝報』の懸賞小説に
応募し「平戸島」が当選する。

らいてう、酔って
便所の草履を履いて座敷まで戻る。

瀬沼夏葉、西崎(生田)花世も出席。
➡『神近市子自伝 わが愛わが闘い』p100
➡『元始、女性は太陽であった(下)』
➡『青鞜の時代』p124

●10/25
東京日日新聞に「新しがる女」6回連載。
(10/25〜10/30)
東京日日新聞に「紅吉より記者へ」上下連載。
(11/1〜11/2)
紅吉が記者に話したことが記事に。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』
➡『青鞜の時代』p137

●10/26
大杉、近代劇協会の旗揚げ公演を観劇。

●10/29
退社の決意をした紅吉、
文祥堂に最後の校正に行く。
➡『青鞜の時代』p136

このころらいてう、小林哥津と
東雲堂の若主人西村陽吉の仲が噂になる。
➡『定本 伊藤野枝全集 第一巻』
「雑感」解題

【11月】
●11/1
『青鞜』2巻11号。
野枝「東の渚」

紅吉の書いた「群集の中に交ってから」
「冷たき魔物」が載る。
彼女の青鞜との訣別宣言。

●野枝、
『青鞜』の編集を手伝うようになる。

➡「雑音」(1912年晩秋から1914年ごろの
『青鞜』が描かれている)

●大杉「本能と創造」『近代思想』1巻2号
野枝、辻の影響で『近代思想』を
創刊号から読んだという。
 ➡「伊藤野枝年譜」
『定本 伊藤野枝全集』(第四巻)

●11/3
友愛会の機関紙『友愛新報』創刊。

●11/17
大杉、文芸協会の
『廿世紀』を有楽座で観劇。

●第二次西園寺内閣が倒れ第三次桂内閣。

●下旬
大杉、荒畑が吉原を冷やかす。

●この月、大杉が野依秀市を誘い飲む。

【12月】
●12/1
青鞜2巻12号
牧野静(伊藤野枝のペンネーム)
「日記より」

この月に青鞜叢書第一編として、
岡本かの子処女歌集
『かろきねたみ』出版。
西村から打診されて青鞜叢書に。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』415

●12/1
『近代思想』第1巻第3号。
大杉「唯一者 マクス・スティルナー論」。

辻潤、この年または翌年に
『唯一者とその所有』を
読み始めるようになった
(「自分だけの世界」)のは、
大杉のこの記事が契機か。

大杉、書評欄で
「早稲田派の批評家の仲で、
僕は相馬御風氏と
本間久雄氏の文章を好んで読む」。

大杉「法律と道徳」

●このころ
野枝、神田区三崎町三丁目一番の
玉名館を訪れ、紅吉と泊まることになり、
荒木、紅吉、野枝の三人が風呂に入る。
➡「雑感(五)」

●12/19
第一回憲政擁護連合大会が開かれる。
護憲運動の始まり。

●12/25
文祥堂で新年号の校正後、
小網町メイゾン鴻の巣
青鞜社忘年会をする。

●12/27
野枝、らいてうからのハガキが来て、
らいてうの書斎に行く。

●この年、大杉、生田長江と知り合う。
➡『日録・大杉栄伝』p

伊藤野枝年譜 索引