伊藤野枝年譜 1913年(大正2年)18歳


【1月】
●1/1
『青鞜』3巻1号。
付録「新しい女、其他婦人問題に就いて」。
平塚らいてう訳のエレン・ケイ「恋愛と結婚」
(『生命線』第一部)翻訳連載開始。
raceを「人種」と訳したが
六月から「種族」に変える。

野枝「新しき女の道」、
堀保子「私は古い女です」
(大杉が代筆)など。

原阿佐緒、青鞜社に入社。
歌「あまき縛め」が載る。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』418頁

●平塚「私は新しい女である」を
『中央公論』(滝田樗陰編集長)新年号に掲載。
The Japan Times 1/11に
英訳して掲載される。

●生田長江訳(ダヌンチオ著)『死の勝利』が
「近代名著文庫」の一編として
新潮社から刊行。

煤煙事件に影響を与えたと
噂された作品だったため売れた。
➡『知の巨人 評伝 生田長江』p148

●1/4
近代思想社主催、第一回「小集」が
メーゾン鴻の巣で開催。

●1/7
このころ、らいてうは
大森町字森ヶ崎の
富士川旅館に投宿していた。
➡「雑感(十九)」

●1/8
紅吉の家で青鞜新年会の案内状を書く。
紅吉、哥津、神近が参加。

越堂、朝倉文夫と歓談する。
➡「雑感(十九)」

野枝は新年会には
貧乏のために参加できず。
➡「雑感(二十二)」

【2月】
●2/1
『青鞜』3巻2号。
野枝「此の頃の感想」

●2/5
尾崎行雄の桂弾劾演説。

●2/8
福田英子「婦人問題の解決」掲載により
『青鞜』3巻2号が発禁になる。

内容ではなく福田と石川三四郎、
平民社との関係に弾圧が加えられた。

前年12月に第二次西園寺内閣が
軍部の圧迫で倒れ、第三次桂内閣に。
その弾圧政策。

社会主義者徹底弾圧主義であった
平塚定二郎、らいてうに憤怒をぶつける。
➡『わたくしの歩いた道』p123

伊藤野枝「此の頃の感想」が
発禁の理由という説もあり。
➡〈『定本伊藤野枝全集』「此の頃の感想」解題〉

●2/10
日比谷公園での桂内閣弾劾国民大会が
暴動化し、各都市に拡散。

●2/11
伊藤野枝(18歳)と末松福太郎との
協議離婚成立。

桂内閣総辞職、2/20に山本権兵衛
(ごんのひょうえ)内閣生まれる。
第一次護憲運動/大正政変。

●2/15(土曜日)
「青鞜社第一回公開講演会」開催。
神田美土代(みとしろ)町の
東京基督教青年会館
/午後12時半〜5時/会費20銭。
聴衆千人。

以下プログラム
保持白雨「本社の精神と
その事業及び将来の目的」

伊藤野枝「この頃の感想」

生田長江「新しい女を論ず」

岩野泡鳴「男のする要求」

馬場孤蝶「婦人の為に」

岩野清子「思想上の独立と経済上の独立」

平塚らいてう「閉会の辞」

野枝、「この頃の感想」
(『青鞜』3巻2号/朝日新聞2/16)
の演題で講演。

大杉これを聴講
「ちょうど、校友会ででもやるように
にこにこしながら原稿を朗読した、
まだ本当に女学生女学生していた彼女」。
➡『死灰の中から』

千人を超える聴衆。三分の二は男性。

主な聴衆は大杉のほか、堺利彦、
女子英学塾の青山菊枝など。
福田英子と石川三四郎のカップルも。

岩野泡鳴と予言者・宮崎虎之助が乱闘。
➡『わたくしの歩いた道』p127

この講演会の反響が大きかったため、
女子英学塾の津田校長が
青鞜を危険思想とみなし、
神近が青鞜社を退社。
➡『元始、女性は太陽であった(下)』309頁

※この講演会については以下の資料。

『山川菊栄全集9 おんな二代の記』に
傍聴していた山川の回想、
『近代思想』1923年3月号の
大杉の感想の引用、
女子英学塾での顛末あり。

『日録・大杉栄伝』によれば、
翌日の朝日新聞、東京日日新聞も報じた。

●2/20
午前1時ごろ、神田三崎町から発火。
神保町方面にかけて二千数百戸が焼失。
野枝「雑感」二十九章で言及。
➡『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「雑感」解題

仏英和女学校などが全焼、
女子美術学校も半焼。
➡『「青鞜」の火の娘』p78

このころ、辻と野枝は
芝区芝片門前町
(現・港区大門二丁目と
芝公園二丁目の一部のあたり)の
二階家の二階に住んでいた。
4月初めまで芝にすみ、
また染井にもどった。

辻の家族との同居からの
野枝のストレス解消のためか。
➡『定本 伊藤野枝全集 第一巻』
「雑感」p190
➡『定本 伊藤野枝全集 第四巻』年譜

●2/23
野枝、岩野泡鳴宅に
青鞜講演会の講演料10円を持参する。
➡『定本 伊藤野枝全集 第四巻』年譜

【3月】
●3/1
青鞜三巻第一号から三巻十一号まで、
表紙は紅吉のアダムとイブの版画。

●3/1
『近代思想』1巻6号
大杉「青鞜社講演会」。

●3/26
東京日日新聞、報道。
超人社に同居している
尾竹紅吉の絵『枇杷の実』完成。
尾竹竹波の後援で雑誌を出すことになった。

●3/27(~3/31)
近代劇協会が帝国劇場で「ファウスト」上演。
上山 草人(かみやま そうじん)/ファウスト
伊庭孝/メフィスト

奥村博も出演し、
らいてふが楽屋に真紅のバラの花束を届ける。

●神近市子(25歳)、女子英学塾卒業、
弘前の青森県立女学校英語教師の職を得る。

【4月】
●4/1
『青鞜』3巻4号。
野枝、「この頃の感想」。

青鞜社の事務所が
府下巣鴨町字巣鴨一一六三へ移転。

●4/4か4/5
神近、上野駅を出発。弘前に向かう。
らいてう、紅吉も見送りに来る。

●成瀬仁蔵「欧米婦人界の新傾向」
(『中央公論』4月号)。

●4/20
読売新聞、物集和子の世間の
しきたりに添った(と思われる)結婚を報道。

●4/20
文部省が婦人雑誌関係の
反良妻賢母主義的婦人論の
取り締まり方針を決定。
➡『元始(下)』p459

●4/25
らいてふ「世の婦人達に」掲載の
『青鞜』3巻4号が警視庁高等検閲係から
注意を受ける。
保持、中野警視庁に出頭する。

●4/28
「ホワイトキャップ党」から
青鞜社へ脅迫状が届く。

●四月
岩野泡鳴、清子夫妻が
目黒から巣鴨宮仲に引っ越す。

青鞜社事務所、らいてう、
野枝、野上宅と近くなり、
交流する。
➡『元始(下)』p521

【5月】
●5/1
平塚らいてう著『円窓より』
(東雲堂)出版(発禁)。
家族制度破戒と風俗壊乱。
六月に『扃(とざし)のある窓』
として出版。

●5/1~5/10
「ファウスト」大阪公演。
奥村、大阪かららいてうに絵葉書を送る。

●5/5
弘前の女学校に赴任した神近、
弘前城址公園で花見をする。
このころから、弘前の天主堂のフランス人から
フランス語を教わる。

●野枝『青鞜』3巻5号(附録)に
エレン・ケイ「恋愛と道徳」訳載
(辻潤が訳した)。

●『青鞜』3巻5号「編輯室より」、
青鞜社文芸研究会の中止と
生田長江との訣別。

5/16(金)
木村荘太、青鞜社を訪れ、
野枝に面会を請うが、野枝は不在。
➡「動揺」

●野枝&辻(29歳)北豊島郡巣鴨町上駒込三二九番地
(妙義神社の前)に移転。
同住所の隣家の野上彌生子と交流。
➡『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「雑感」解題

●青鞜社、巣鴨町字巣鴨一一六三番地に移転。
➡『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「雑感」解題
※『元始(下)』では事務所移転は四月。

【6月】
●6月初め
哥津、らいてう、清子と堀切の菖蒲園に遊ぶ。

●6/8
夜、荘太、手紙1書く。
翌日、投函。

●6/12〜6/13
『中央新聞』に
「屏息せる新らしい女」(上)(下)載る。

(下)に「伊藤野枝は巣鴨小学校の教師
後藤清一郎と好い交情(なか)になって
二三日前に安産があったので
既に家庭の人である」と書かれる。
➡『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「染井より」解題

●6/13
野枝、荘太手紙1を青鞜社で受け取る。

●6/14
野枝、手紙1を書き夕方に投函。

●6/16
夕方、荘太、野枝手紙1を受け取る。

●6/17
荘太、手紙2を書く。

●6/18
朝、野枝、荘太手紙2と
帯封の『ヒュウザン』6月号届く。

●6/23
野枝、荘太に葉書を書く。

荘太、築地の文祥堂(印刷所)
二階の校正室に野枝を訪ねる。

●6/24
朝、野枝、荘太手紙3を受け取る。

野枝、手紙2を書くが投函せず。

野枝、手紙2を書き終えた頃、
荘太手紙4を受け取る。

辻はこの日付の野枝木村荘太への手紙を
死の直前まで持っていて、
伊東キミに形見として渡した。
伊東キミ(旧姓/坂口キミ)は
野枝の叔母、坂口モトの娘。
➡『野枝さんをさがして』

小説「動揺」で公開されているが異同がある。
荘太の住所は麹町区平河町
➡『定本 伊藤野枝全集 第二巻』
「書簡 木村荘太宛」解題

●6/25
野枝、朝、文祥堂に出かける前に
荘太手紙5を受け取る。

野枝、帰宅後に荘太手紙6を受け取る。

●6/26
野枝、文祥堂から
帰宅後に荘太手紙7を受け取る。

荘太、野枝手紙2、3を受け取る。

●6/26
らいてふ、奥村と赤城山麓へ行く。
➡「編輯室より」(青鞜1913年7月号)

新妻莞かららいてうに脅迫の手紙届く。
らいてう「赤城よりN氏に」を
『青鞜』9月号に掲載。
➡『わたくしの歩いた道』p146

●6/27
午前、野枝、荘太手紙8受け取る。

●6/28
野枝、荘太手紙9受け取る。
辻に宛てた手紙も同封されていた。

朝、荘太、野枝手紙4を受け取る。

●6/28
川崎日本蓄音器商会の争議の
調停に友愛会があたる。

●『中央公論』6月号特集
「婦人界の新思潮に対する官憲の取締」
(成瀬仁蔵『罪の一半は女子にもあり」)。

●『太陽』(6/15発行)「近時の婦人問題号」
(下田歌子執筆)。

●6/30
野枝、昼過ぎに荘太からの電報を受け取り、
夕方、荘太の下宿を訪問。

荘太、夕方、辻の家を訪問。

【7月】
●7/1
青鞜3巻7号。
野枝「染井より」。

●7/1
『近代思想』第1巻10号。
大杉「生の拡充

〈征服の事実がその頂点に達した
今日においては、
諧調はもはや美ではない。
美はただ乱調にある。
諧調は偽りである。
真はただ乱調にある。
今や生の拡充はただ反逆に
よってのみ達せられる。
新生活の創造、
新社会の創造はただ
反逆によるのみである。〉

●7/2
野枝と辻、平河町の荘太の家を訪ねる。

●7/6
大杉、寒村と
「サンディカリズム研究会」発足。
辻潤も顔を出す。

●神近市子(25歳)、女子英学塾卒業し
弘前高等女学校に職を得るが、
1学期終業式後、青鞜に在籍していた
ことが発覚し免職。
➡堀場清子『青鞜の時代』p176

『新しい女の裏面』(樋口麗陽著)に
掲載された写真「南郷の朝」の木村政子が
神近と説明されていた。

➡『神近市子自伝 わが愛わが闘い』p114

●『中央公論』臨時増刊
「婦人問題号」(7/15発行)。
晶子が書いた「らいてふ人物評論」に
らいてふショックを受ける。
➡『元始女性は太陽であった』(完)p34

●野枝、ヒポリット・ハヴェルの
エマ・ゴールドマン小伝を読み感激。

Portrait_Emma_Goldman
Emma Goldman(1869年-1940年)
From Wikimedia Commons

●8/1
青鞜3巻8号。
野枝「動揺」発表。
木村荘太「牽引」(『生活』3巻8号)。

●8/1
『近代思想』1巻11号。
大杉「むだ花」

●8/9
新聞『時事新報』に野枝と木村荘太の
恋愛事件についての
「別れたる恋人に対する心持」
3回連載始まる。
➡『定本 伊藤野枝全集 第二巻』
「動揺」解題

8/9はCS生「『牽引』と『動揺』と」
8/10は荘太「『牽引』と私」
8/11は野枝「『動揺』に就いて」
➡『定本 伊藤野枝全集 第二巻』
「『動揺』に就いて」解題

●8/17
らいてう、奥村博に手紙
「八項目の質問状」を出す。
➡『青鞜の時代』

【9月】
●9/1
青鞜3巻9号。
野枝「婦人解放の悲劇ーエマ・ゴールドマン」

らいてう「赤城よりN氏に」。

●9/1
土岐哀果が『近代思想』の姉妹雑誌
『生活と芸術』を創刊。
出版社は西村陽吉が経営する東雲堂。

●9/1
『近代思想』1巻12号。

大杉「鎖工場」。
マルクス批判。

大杉「イグノラント」。
大杉「野獣」
大杉「みんな腹がへる」

●9/20
野枝、長男・一(まこと/〜1975年)を
出産。

『伊藤野枝と代準介』には夏、
野枝は辻と今宿に帰省。
今宿で出産したとある。

※まこと出産後の辻家を描写➡
「惑い」
(『新日本』8巻10号」1918.10.1)

※「惑い」に登場する
龍一のモデルは西原和治。
➡『野枝さんをさがして』(p74)

※辻潤、この年、近所に住んでいた
福田英子によってアナーキスト
渡辺政太郎と知り合う(「ふもれすく」)。

渡辺政太郎は、寺島珠雄『南天堂』によると、
一九一七(大正六)年後半、指ケ谷町九二
(かつて辻一家がいた隣か)に移り、
翌年亡くなっている。

【10月】
●10/1
『青鞜』3巻10号。
「青鞜社概則」を改正、
〈本社は女流文学の発達を計り〉→
〈本社は女子の覚醒を促し〉。

『青鞜』3巻10号を最後に
東雲堂から尚文堂へ。

●10/10
桂太郎、死去。

【11月】
●『青鞜』3巻11号。
らいてふ「『動揺』に現われたる野枝さん」。

山田わか訳「三つの夢」
「三つの夢」は南アフリカの女流作家、
オリーブ・シュライネルの文章の翻訳。
大杉栄が山田わかの訳文をらいてふに送った。
大杉はわかの夫の山田嘉吉に
フランス語を習っていた。

山田わかはアメリカ西海岸の
淫売窟で働いていた時期あり。
➡『元始女性は太陽であった』(下)p500

【12月】
●12/1
『青鞜』3巻12号。
「編集後記」に岡本かの子入院の知らせ。

●12/1
『近代思想』第二巻第三号(十二月号)。
大杉「唯一者-マクススティルナー論」。

大杉「必然から自由へ
フリードリッヒ・エンゲルス」

●12/31
平塚らいてうと奥村博史、
鎧橋(日本橋)そばの仏蘭西料理
「メーゾン鴻の巣」で
生活をともにする誓いを交わす。

※この年の秋、生田春月、春夫、
紅吉、超人社を出る。
長江の病気の噂が耳に入ったからか。

※ 帝国劇場のパンフレットの三越の広告
今日は帝劇 明日は三越」のコピーが流行。
女性画は竹久夢二。

伊藤野枝年譜 索引