伊藤野枝年譜 1916年(大正5年)21歳


【1月】
●1/1
青鞜第6巻1号。
表紙に「読者諸氏に」。
青山菊栄「日本婦人の社会事業について
伊藤野枝氏に与う」、
野枝「青山氏へ」掲載。

➡『自由 それは私自身ー評伝・伊藤野枝ー』
〈野枝の現実認識には、妹ツタの婚家先が
下関で郭を開業していたことが
意識されていたかもしれない〉。

●1/1
『近代思想』3巻4号。
大杉「個人的思索」

〈いかに自由主義をふり廻したところで、
その自由主義そのものが他人の判断から
借りて来たものであれば、
その人はあるいはマルクスの、
あるいはクロポトキンの、
思想上の奴隷である。
社会主義運動は、
一種の宗教的狂熱を伴うとともに、
とかくかくのごとき奴隷を
製造したがるものである。
僕等は、いかなる場合にあっても、
奴隷であってはならない。〉

●『新潮』1月号。
大杉「物事考え方」
『早稲田文学』120号(1915年11月号)
大杉「近代個人主義の諸相」に対する、
加藤朝鳥の批評
(『新潮』1915年12月号)への反論。

大杉「大正五年文壇の予想」
・思想界は自分の「社会的個人主義」
・作家では荒畑寒村、志賀直哉、
小川未明、武者小路実篤、
『坑夫』を自費出版する宮島資夫注目。
・評論界では自分、生田長江、
相馬御風に注目。
平塚らいてう、伊藤野枝に期待。

●『早稲田文学』1月号。
大杉「ベルグソンとソレル」

●1/3
野枝(21歳)、「雑音」を大阪毎日新聞に
連載開始(1/3~4/17断続的に連載)。

「雑音」は1912年晩秋から
1914年ごろの青鞜について。
➡『定本 伊藤野枝全集 第一巻』解題

●1/3
大杉、深夜、宮嶋を訪ね神近のことを告白。

●この月
宮嶋資夫『坑夫』が近代思想社から出版。
労働文学の先駆け。

●1/15
大杉、白山下の辻潤宅を訪問。
青山菊栄も辻宅を訪れ、
青山と野枝の公娼廃止をめぐる
論争の調停が目的。
➡山川菊栄「大杉さんと野枝さん」
『婦人公論』1923年11月号
『おんな二代の記』
➡『日録・大杉栄伝』

●『婦人公論』創刊。

●吉野作造「憲政の本義を説いて
其有終の美を斉すの途を論ず」が
『中央公論』1月号に掲載される。

●五十里幸太郎、『平明』
(2月から『世界人』)創刊。

●1/25
山川均、鹿児島から上京。
堺の『新社会』の編集に参加。

●1/25
大杉、寒村の隔絶により第二次
『近代思想』廃刊。

●『早稲田文学』1月号。
大杉「ベルグソンとソレル」。

●神近、東京日日新聞を退社。
結城礼一郎の秘書となり翻訳を生業にする。

このころ神近、大杉に
ニコライ・チェルヌイシェフスキー著
『何を為すべきか』の共訳を
持ちかけられる。
➡神近「豚に投げた真珠」
(『改造』1922年10月号)

【2月】
●2/1
青鞜第6巻2号(通巻53冊)をもって終わる。
野枝「再び青山氏へ」、
青山菊栄の反論「更に論旨を明らかにす」。

野枝の大杉の新著『社会的個人主義』書評掲載。

●2/1
大杉ら平民講演会の最中、検束される。
山川均と青山菊栄が出会う。

●2月上旬
大杉(31歳)と野枝、
夜の日比谷公園のしげみで
熱いキスをする。
その夜、大杉が神近にそれを告白。

●2/11
らいてう、曙生を連れて、
茅ヶ崎の南湖院そばの借り間に転居。

晩夏、「人参湯」の離れを借り、
南湖院を退院した博史と三人で暮らす。
この年、奥村、「博」から「博史」に改名。

●2月中旬ごろ
宮嶋宅で大杉、神近、野枝会談。
大杉、自由恋愛の三条件を出す。
➡『日録・大杉栄伝』p175

※以下要再検証。

翌日、神近から「永遠にさようなら」
という手紙が大杉に届く。

神近の下宿(霞町)を訪れた大杉に、
神近「帰れ、帰れ」と絶叫。

大杉、宮島の家を訪問し、
昨夜、神近が酔って暴れたことを聞く。
そこに神近が現れて大杉に
「私、あなたを殺すこと
に決心しましたから」。

●2/21日(~12月19日)
ヴェルダンの戦い
(第一次世界大戦)始まる。

フランス軍362,000人、
ドイツ軍336,000人の
死傷者を出す。

1200px-Cemetery_Verdun_1
Picture of cemetery, Verdun, France
by Kek
From Wikimedia Commons

●2/23
野枝、「西原先生と私の学校生活」
(西原和治編輯兼発行『地上』
第一巻第二号1916.3.20)
の原稿を執筆。
➡『野枝さんをさがして』

●2/25
辻潤「西原君と僕」
(西原和治編輯兼発行『地上』
第一巻第一号1916.2.25)
➡『野枝さんをさがして』

●2月末
大杉、武者小路実篤を訪問。

【3月】
●3/3
堀保子、逗子を引き上げ
四谷区南伊賀町に借家する。
山田嘉吉・わか夫妻の東隣り、
茅ヶ崎に転居したらいてうが
2月中旬まで住んでいた家。

●野枝、野上彌生子に大杉のことを相談する。
「『別居』に就いて」
(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』では
「申訳丈けに」)
「転機」「乞食の名誉」。

●3/5
大杉、山﨑今朝弥宅で堀保子との
離婚協議をし別居だけを決める。

●3/9
大杉、麹町区三番町の下宿、
第一福四万館に移住。

●芥川、久米、菊池寛ら
第四次『新思潮』創刊。
芥川「鼻」を漱石が絶賛。

●3月ごろ
新潮社の佐藤義亮から大杉に絶交状が届く。

【4月】
●野枝「英雄と婦人」
(『一大帝国』第一巻第二号 1916.4.1)
➡『野枝さんをさがして』

●4/5
大杉、日本著作家協会の創立総会に出席。

●4/24
野枝、流二を連れて辻の家を出て
神田三崎町の玉名館
(ぎょくめいかん。青鞜社時代の同僚・
荒木郁子の実家)に滞在。

●4/29
野枝、大杉と仲間に見送られて
両国駅(総武線鉄橋が隅田川に
架橋されたのは1932年)から
御宿に向かう。

千葉県夷隅(いすみ)郡御宿
(おんじゅく)町の上野屋旅館に滞在。
野枝と大杉、熱々の手紙を交わす
(4/30~7/16※『吹けよ』に収録)。

●辻潤、上野寛永寺の一室に住む。
その後、下谷区北稲荷町三四番地に
住み本籍もここに移す。
母と一(まこと)との3人暮し。

この家に「英語、尺八、
ヴァイオリン教授」の看板を掛ける。
浅草時代が始まる。
彼はここを根城にして
「パンタライ社」と称する。

英語を教えた生徒の中に尾崎士郎らがいた。
早大英文科在学中の河合勇
(元朝日新聞印刷局長)によると
(三島寛著『辻潤 その芸術と病理』)
「ワイルドの〈ドリアングレーの画像〉を
教えてもらいました」。

【5月】
●5/4
大杉、御宿の上野屋旅館に野枝を訪ねる。
6日まで滞在。

●5/7
安成二郎、大杉に面会。
『女の世界』の原稿依頼をする。
➡安成二郎『無政府地獄』
「大杉栄君の恋愛事件」

●5/9
安成二郎、千葉の御宿の野枝を訪問。
原稿を依頼する。

●5/14
辻潤、浅草観音劇場で
芝居「どん底」に男爵役で出演(〜5/23)。

●5月中旬
大杉、上野屋旅館に来る。5/27に帰京。

●神近、東京日日新聞を退社し
結城礼一郎の秘書になる。

※大杉と野枝の書簡。
5/27の野枝から大杉宛と
5/30、5/31の大杉から野枝宛書簡があるが、
この間に野枝から安成二郎
(当時、『女の世界』編集兼発行人)
宛に出された手紙あり。
➡『野枝さんをさがして』(p53)

【6月】
●『女の世界』6月号(第二巻第七号)が
大杉栄をめぐる恋愛事件を特集。
(30日発禁に)。

安成二郎「大杉栄君の恋愛事件」
大杉栄「一情婦に与えて女房に
対する亭主の心情を語る文
」(脱稿は5/12)
神近市子「三つの事だけ」
伊藤野枝「申訳丈けに」
野依秀一「野枝サンと大杉君との事件」
(批判)。
➡安成二郎『無政府地獄ー大杉栄○記』
(新泉社・1973年10月)

●6月中旬
大杉、野枝に会いに御宿に行き、
21日まで滞在。

●6月中旬
流二を千葉県夷隅(いすみ)郡大原町根方
(ねかた)の若松家に里子に出す。
流二はのち「里流れ」になり若松姓に。

「子供は預かってくれるそうです。
上野屋の親類の人で、
鉄道院へ出ていた人の細君で
、子供二人をかかへているまだ若い人です。
その人は預かりたがっています」
(一九一六年六月一日)。

●上野屋旅館滞在中、
大阪に引っ越した代準介はキチに夏用の衣服を
野枝に送らせる。お金は送らない。

●『中央公論』『新潮』も記事にする。

【7月】
●6月下旬から7月初め
野枝、東京に戻り大杉の下宿・
第一福四万館(千代田区九段下界隈)に入る。
10日ほど同棲。

●7/13
夜行に乗り(大杉が見送りする)
7/14朝8時に大阪駅着(旅費は代が送った)。
借金するため大阪の代準介宅へ向かう。

警察の尾行まで付いている野枝に、
代準介とキチは大杉との
関係を断たせるべく画策。
アメリカ行きを勧める。

●7/17
代キチ、野枝を和歌山の和歌浦浜に
連れて行き海水浴を楽しませる。

たぶん野枝はこんな水着を着て
泳いだと思われる。

大正時代水着

●7/19
野枝、大阪から帰京。

●『新潮』7月号
有島武郎「クロポトキンの印象」。

1907年冬、有島がロンドン郊外に
住むクロポトキンを訪問。
『相互扶助論』について語り合ったことを記述。
➡『大杉栄 伊藤野枝選集 第八巻』p318

有島『惜しみなく愛は奪う
(1917年刊)でも
クロポトキンの相互扶助について言及。

【8月】
● 8/24
野枝、大杉の『近代思想』
再刊の資金作りにのために
再度、大阪の代準介宅へ。
代準介に頭山満への紹介状を
書いてもらい福岡へ向かう。
頭山満は金がなかったので
杉山茂丸に紹介状を書き野枝に渡す。

野枝の2回の金策の旅費だが、
神近「豚に投げた真珠」によれば、
神近が拠出した。

●『早稲田文学』に本間久雄
「民衆芸術の意義及価値」掲載。

【9月】
●9/8
野枝、帰京。
麹町区三番町第一福四萬(ふくしま)館で
大杉と同棲を始める。

●9月中旬から下旬
野枝、杉山茂丸に面会するが、
杉山が大杉に会いたいというので、
大杉が台華社を訪ねる。
金策はならなかったが、
杉山が後藤新平の名前を出す。

●河上肇「貧乏物語」が『
大阪朝日新聞』に連載開始(12月まで)。

●望月桂夫妻、一膳飯屋「へちま」を開業(1917年7月閉店)。
下谷区谷中坂町21番地(
台東区谷中1丁目2番17号)。

久板卯之助、和田久太郎、辻潤、
五十里(いそり)幸太郎も常連客だった。
➡『大正自由人物語』(P48)

●『中央公論』9月号
中条百合子、『貧しき人々の群』掲載され
天才少女として注目を集める。

【10月】
●久板卯之助、
『労働青年』創刊。発行所は「へちま」。

●10/15
大杉&野枝、下宿料不払いで
第一福四万館を追い出され、
宿泊中の大石七分
(大石誠之助の甥)の紹介で
本郷区菊坂町の菊富士ホテル
(文京区本郷5丁目)に移る。

七分の長兄は文化学院の創始者・西村伊作。

菊富士ホテル滞在中、
大杉は五十里に羊羹の土産を催促した。
『自由と祖国』1925年9月号/
五十里幸太「大杉君のこと」

●10/30
大杉、内務大臣・後藤新平を官邸に訪ね、
300円を入手。
※大杉が後藤新平に金を要求したのはなぜか?

内務省は発行された新聞や雑誌を発禁、没収、
発行人の逮捕と打撃をあたえ続けている。
私服刑事のしつこい尾行も
プライバシー侵害であり営業妨害である。

大杉と後藤、互いに親近感があったようだ。
➡『時代の先覚者 後藤新平』
(大杉栄ーアナキストへの関心/鎌田慧)

●『早稲田文学』10月号。
大杉「新しき世界のための新しき芸術」

●このころ
望月桂が久板に連れられて
菊富士ホテル滞在中の大杉と面会する。

【11月】
●11/2ころ
五十里幸太郎、菊富士ホテルを
訪れて大杉の面前で野枝を殴る。
野枝が逆襲し五十里と取っ組み合いになる。
➡『日録・大杉栄伝』

●11/3
大杉、「与太話の会」に出席後、神近を訪問。

●11/5
大杉と野枝、新婚の山川均・
菊栄夫妻宅へ祝福訪問。

●11/6
野枝&大杉、
茅ヶ崎滞在中の平塚らいてうを訪ねる。
大杉にはふたりの尾行がついていた。
➡『元始女性は太陽であった』(下)p607

三浦郡葉山村の日蔭茶屋に宿泊。

その日の夜、神近が菊富士ホテルに電話して、
大杉と野枝が葉山に出かけたことを知る。

●11/7
神近、午後3時ごろ、東京駅(?)から
逗子行きの汽車に乗り日蔭茶屋に到着。
三人で床を並べて寝る。

葉山に出かける時点で神近は自殺を覚悟。
問題は大杉を殺してから自殺するか・・・。

甥(従姉の子)の援助でピストルを入手。
夜、青山墓地で大地に向かって発射してみた。
手が震えてピストルを断念。

生毛屋で短刀をあつらえる。
➡「豚に投げた真珠」

●11/8
野枝、朝食後ひとりで帰京。

●11/9
未明(午前2時半か3時半ごろ)、
神近市子が大杉を刺す
(日蔭茶屋事件 11/11東京朝日新聞記事)。

神近、逗子の派出所に自首。
葉山分署に護送され横浜の
根岸監獄に拘置される。

●11/10
野枝、宮嶋らに打擲される。

●11/12
安成が見舞いに行くと、
村木が大杉の枕頭に座っていて
「俺ならもっとうまく刺すんだが、
惜しいことをしたなア」と言うと、
大杉も苦笑して「まったくだ」。

➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」
➡安成二郎『無政府地獄』「葉山事件」

●11/15
大杉、翻訳書『男女関係の進化』
(C・ルトゥルノー)出版(春陽堂)。

日陰茶屋事件のため
翻訳者は「社会学研究会」として出版。
1925年に大杉栄訳として再版。

結論「家族の解体と男女んお自由結合」が
大杉の自由恋愛論に転用された。

●11/21
大杉、逗子の千葉病院退院、
菊富士ホテルに戻る(~1917年3月下旬)。

日蔭茶屋事件は多くのの新聞雑誌で非難され、
以後、野枝と大杉は孤立。
大杉は妻・堀保子と離婚。

※『辻潤全集 別巻』の年譜によれば、辻は1916年11月に無想庵の紹介で比叡山に上り僧坊に隠りスチルネルの翻訳を続け、僧坊の一室を借りて勉強にきていた同志社女学校英文科の学生、野溝七生子を知る……ことになっているが、辻潤年譜では辻が比叡山に入山したのは1919年11月。当年譜では1919年11月にしておきます。

●長江、『太陽』11月号に
「自然主義前派の跳梁」発表。
白樺派批判。

【12月】
●『ピアトリス婦人公論』『太陽』
『六合雑誌』『新聞の新聞』『日本評論』
など、日陰茶屋事件の大杉、
野枝批判記事掲載。

●上旬ころ
大杉、帝劇で河竹黙阿弥作「碁盤忠信」観劇。
『新日本』1月号に
この歌舞伎になぞらえて批判記事の反論を書く。

●12/9
漱石、午後7時前、胃潰瘍により死去(49歳)。

●12/10
大杉と野枝、栃木県下都賀郡藤岡町の
旧谷中村を訪ねる。

12月10日が立ち退きの期限の日だった。
➡『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「転機」解題

●12/13
朝、名古屋在住の大杉の妹・秋子(19歳)
包丁を喉に刺し自殺。
日陰茶屋事件で縁談が破談になったため。

大杉、夜行で名古屋に行き葬儀に参列する。

●12/19
山崎今朝弥と堺利彦の仲介で堀保子、
大杉と離婚。
大杉との別離を公告
(『新社会』1917年1月号)。

●堀保子、堺、山川、荒畑、高畠らが
編集する『新社会』は同人総出で大杉批判。

●『中央公論』『太陽』などの雑誌も論評。

●野枝、魔子を身ごもる。

●この年、野枝、
特別要監視人(甲号)に編入。

●12/30
サンクトペテルブルクで
ラスプーチン、暗殺される。

1133px-Rasputin_Photo
Rasputin and his admirers, 1914
by Karl Bulla
From Wikimedia Commons

伊藤野枝年譜 索引