週刊ポチコラム:ポチことツルシカズヒコが雑誌批評などを書きます

vol.41 塩澤幸登『平凡パンチの時代ー1964年〜1988年』

塩澤幸登『平凡パンチの時代ー1964年〜1988年 希望と苦闘と挫折の物語』(河出書房新社)

【本のデータ】
1996年発行のマガジンハウス編(塩澤幸登執筆)『平凡パンチの時代〜失われた六〇年代を求めて〜』を再取材、全面再編集し新規執筆。2009年12月25日初版発行。

【著者のデータ】
しおざわ・ゆきと。1947年、東京都世田谷区出身。早稲田大学文学部卒業。70年から雑誌編集者として『平凡』『週刊平凡』『平凡パンチ』『ターザン』『ガリバー』などの雑誌編集に携わる。02年より作家活動。

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『平凡パンチの時代〜失われた六〇年代を求めて〜』を元本にした改訂版なのだが、元本も名著だが、内容を大幅にバージョンアップしたこの改訂版は、名著の度合いも大幅にバージョンアップしている。

新規執筆した部分でなにがおもしろいって、マガジンハウスの内情がよくわかるところだ。元本の執筆時、著者の塩澤はマガジンハウスの社員だったので、いろいろ制約があったようだが、退社後に書かれたこの改訂版にはその制約がなく、ゆえにマガジンハウスという出版社への批判が随所に盛り込まれている。

マガジンハウスの内情は雑誌業界の内情の縮図そのもので、男性誌が女性誌に駆逐されていく80年代以降の歴史だと、僕は思っている。

塩澤はマガジンハウスの凋落を、こう分析している。

〈(略)マガジンハウスが出版社として日本の雑誌作りの頂点に存在していた時代は椎根和が『ハナコ』を創刊して軌道に乗せた1990年代の初めのころまで、正確にいうと、創業会長の清水達夫が亡くなり、石川次郎が会社を辞めていった1993年の冬までだった。(略)あの時、石川次郎の退社とともにマガジンハウスは当然、あるべきだった未来のかたちを失ったのだと思う。(略)1998年末だったと思うが、椎根和が木滑良久に辞表を出したとき、マガジンハウスはあり得たもう一つの可能性を封印したというふうにわたしは思っている〉

石川の[フトコロ刀]的存在だった塩沢は、石川退社後の社内の居心地の悪さを、こう記す。

〈(略)その頃、社内では清水の急逝にあわせるように退社していってしまった石川次郎を「好き勝手なことばかりやってたヤツ」みたいな言い方をする人が急にふえて、会議などで彼の名前を出したらいけないような雰囲気が社内一面に充満していた(略)〉

〈とにかく、よそからは地上の楽園に見えたかも知れない[給料が出版社ナンバーワン]だった(たぶん、いまは違う)マガジンハウスは同時に、社員たちの陰口と嫉妬のパラダイスでもあったのだ。出る杭は打たれるというが、石川次郎もそれに腹を立ててやめていったようなものだった。とにかく、目立ったことをすると必ずかげでコソコソ悪くいうヤツがいたのである〉

マガジンハウスをこういう状況にした元凶は誰か? 読み手はそれを知りたくなるが、塩澤は赤木洋一という人物について辛辣な言及をしている。

赤木洋一は1936年生まれ。早大第一文学部仏文科卒。64年平凡出版入社。『平凡パンチ』『平凡パンチデラックス』『アンアン』の創刊スタッフを務めた。『アンアン』編集長、広告局次長、『ハナコウエスト』編集長、大阪支局長などを経て、98年代表取締役社長就任、02年退任。

〈(略)この人はその後、社長になってさんざん苦労して、人員削減とか、そういうことばかりに成果をあげて、ほかのことはなにもできないまま任期を終えて退社する人である〉

赤木はマガジンハウス退社後、平凡社新書の『平凡パンチ1964』『アンアン1970』を上梓したが、その著書に対しての塩澤の評価は特に辛辣である。

〈彼が社長を退任したあと、2004年に平凡新書で上梓した『平凡パンチ1964』(略)この本について、かくべつの感想はないが、強いていわせてもらうと、とても元社長が書いた本とは思えない、生涯を平社員の編集者として過ごした人が懐かしい現場の思い出話をエピソードの範囲を逸することがないように気を回しながら出来事を羅列書きしたような[だからどうした本]の一種だと思う。興味があったら、椎根和の書いた『平凡パンチの三島由紀夫』『popeye物語』と読み比べてみていただきたい〉

『平凡パンチ1964』は、僕も何か物足りないと感じていたが、塩澤のこの指摘に溜飲が下がる思いだった。

結局、『平凡パンチ』『ポパイ』『ブルータス』の主力スタッフだった木滑良久、石川次郎、椎根和というラインが、『アンアン』『クロワッサン』の女性誌スタッフのラインに、社内派閥抗争で破れたという解釈ができるのだろう。木滑良久は会長とか名誉顧問の地位にあり、ニュートラルな立場を余儀なくされていたのか? ともかく、女(女性誌)に男(男性誌)が駆逐されたと、僕は解釈している。

ただし、石川次郎、椎根和が社長に就任していたら、マガジンハウスには今の凋落はなかったかというと、それは別問題だと思う。

ともかく、塩澤のマガジンハウス批判の下りは、単に元社員が退社後に『噂の真相』に暴露した内部告発的なものではない、念のため。それはマガジンハウスという出版社の本質に迫る、こんな批判が証明している。

〈(略)この会社は目新しいものを作るのは上手でも、新しい才能をきちんと一人前に表現者に育てあげるのはあまりうまくなかった。トレンドのなかで発生した現象、事象、現れた人間をトラッド、つまり伝統的、普遍的なものとして日本の文化のなかに組み入れようとしない。(略)そういうことは文藝春秋や新潮社、小学館がやることだと考えていた。わたしはマガジンハウスにこの作業がなかったから、『平凡』も『週刊平凡』も『平凡パンチ』も姿を消していったのだと思っている。(略)『平凡パンチ』はとくに、高い利用価値を持つ大衆的な文化遺産を有形無形で残したと思うが、そういう自分から作りあげた実績のうちほとんどを自分の会社のなかで[受け継がれるべき伝統]として継承することができずに、短命に終わった〉

僕がもっとも印象に残ったのは、清水達夫の編集手腕に対する、こんな批判だ。『平凡パンチ』の表紙のイラストを描いていた大橋歩が、清水に「パンチを降りる」と直訴したときのこと。

〈この問題は、ひとつの雑誌が、本文のなかをどのぐらいトレンドの情報で占有して、どのぐらいの割合で生活の、つまりドラッドな日本の伝統的、日常的な事柄で占有するか、そのことを示唆する問いかけだったのだと思う。おそらく、『平凡パンチ』のなかでの大橋歩のイラスト表紙は創刊以来、変わらずにつづいているもっとも[伝統的な要素]に近いものだったはずである。これが変わったとき、『パンチ』は[雑誌として不変の部分を持って存在しなければならない]という、週刊新潮、週刊文春的な部分を喪失したのだと思う。わたしは、清水達夫は大橋歩が「パンチを降りる」といったのを認めるべきではなかったと思う。(略)『パンチ』の編集をまかせたものたちに自分(清水本人)が作った雑誌の基本の形をどう守るか、はっきりと指示をして、そこのところの編集努力を要求するべきだったのではないか〉

う〜ん、これは示唆に富む言葉だ。大橋歩の表紙イラストのまま今も発行され続けている『パンチ』……。

雑誌については「潔く消えていく」美学みたいなものがまとわりついていて、僕もそういう傾向にあったが、それじゃダメなんだという指摘。考えさせられた。

各章が〈スタッフ・リスト〉〈巻頭グラビア〉〈編集後記〉など、雑誌の体裁の構成になっているのもシャレいる。雑誌編集について書かれたノンフィクションの傑作という感がした。

ともかく、本書はレベルが高いです。椎根和『popeye物語』(新潮社)、赤田祐一『「ポパイ」の時代』(太田出版)とともに、雑誌編集に興味のある人は必読の名著。