ポチのクレヤン編集長日記:ポチことツルシカズヒコが書く身辺雑記

1908年(明治41年)


【1月】
●1/3
大杉、神田三崎町の吉田屋で開かれた
金曜講演の新年会に出席。

●1/17
屋上演説事件
本郷弓町の平民書房で予定されていた
「金曜講演会」が警察から
解散を命じられたため、
大杉、堺、山川らが
建物の2階から屋上に上り、
往来の群衆に向かって演説をする。

「金曜会」は幸徳、堺、山川ら
革命派(直接行動派)の発起で
毎週金曜日「金曜講演」を開催。
西川、片山、田添らの
改良派(議会政策派)の
「社会主義同志会」と対立。

大杉ら本郷警察署に拘引され、
二晩留置される。

●1/19
大杉ら鍛冶橋の警視庁に送致される。

300px-警視庁_鍛冶橋第二次庁舎
警視庁鍛冶橋第二次庁舎。
1882年12月4日から1911年3月30日まで使用

(@ウィキペディア)

●1/20
大杉ら東京監獄へ収容される。

●1/26
平塚らいてう(22歳)、
森田草平より
「愛の末日」の批評の手紙をもらう。
➡『「坊っちゃん」の時代 三部』p227

【2月】
●2/1
森田とらいてう、水道橋停車場で待ち合せる。
甲武線に乗り終点中野で降り新井薬師へ行く。

柏木停車場(現・東中野)から上り電車に乗り
牛込停車場で降りる。

九段の富士見軒
(日本初の洋食店のひとつ)で食事。
富士見軒はらいてうの
幼稚園時代の幼なじみ青柳さんの家。

森田、ツルゲーネフ
『スモーク』をらいてうに貸す。
森田、しきりにダヌンチョ
『死の勝利』の話をする。
らいてふ、後に駿河台下の洋書専門店
「中西」で『死の勝利』入手。
接吻をする。

電車を乗り継ぎ上野公園へ。
抱擁、接吻をする。

➡『元始女性は太陽であった』(上)p213

●2/3
森田とらいてう、
九段のユニヴァサル教会で待ち合せ、
招魂社裏(麹町三番町の裏通り)の
「待合」に行く。
ふたりで「性欲論争」をする。

らいてうが帰宅すると、
森田からの手紙が届いていた。
ギリシャの女詩人サッフォーなどに言及し
「わたくしはあなたを殺す……」

数日後、閨秀文学会で会ったふたり。
森田がらいてうに紙片を渡す。

●2/7
大杉ら東京地裁で屋上演説事件の公判。

●2/10
大杉、堺、山川
「屋上演説事件」で治安警察法違反。
軽禁固一ヶ月半の判決を受け巣鴨監獄に入獄。
大杉、ドイツ語を齧る。

●2/15
森田とらいてう、上野公園西郷像下で待ち合せ。
御院殿坂を下りて・・・

らいてう、小刀を取り出して
「これで何処でも可いから、私の肉を裂いて」

巡査に不審尋問される。
らいてう、森田が郁文館という
私立中学の英語教師であることを知る。

当時、森田は一葉が住んでいた
本郷丸山の借家に住んでいた。
らいてう、その家を訪れる。

【3月】
●3/21
森田、浅草の海禅寺にらいてうを訪ねる。
蔵前まで歩き銃砲店で森田がピストルと弾を
買おうとするが、弾を売れないと言われる。

らいてう、一旦、自宅に帰り、
夜、母の黒鞘の懐剣を持って家を抜け出す。
彼女が常時携行していたのは白鞘の懐剣。

森田とらいてう、田端停車場前のお休み所
「つくば園」で待ち合せ。

西那須野行きの切符で最終列車に乗り、
終点の大宮で下車。
駅前の旅館に泊まる。

●3/22
森田とらいてう、大宮から一番列車で北上。
西那須野で下車し人力車で塩原へ。
「桝屋(満寿家)」に宿泊。

この日、東京・豊多摩郡西大久保村54
(現在の東京都新宿区大久保)の
藤の湯近くで銭湯帰りの27歳の
女性が殺害される。
出歯亀事件が起きる。
池田亀太郎は大杉と刑務所仲間。

●3/23
らいてうと森田、雪の中、
会津へ抜ける塩原温泉奥の
御頭(おがしら)峠に向かう。

●3/24
らいてうと草平、雪中で保護される。
生田長江とらいてうの母・光沢
(つや)駆けつける。
長江は旅費を漱石から借りていた。
塩原事件

●3/25
森田、らいてう、光沢、長江、帰京。
らいてうと光沢、王子で下車し、
この日は王子の旅館に宿泊。
➡『元始女性は太陽であった』(上)

森田、漱石宅に匿われる。
漱石のらいてう評は「無意識の偽善者」
(『「新しい女」の到来』)。

●3/26
大杉、堺、巣鴨監獄から出獄。

【4月】
●塩原から帰京して10日ほどあと、
日本女子大の桜楓会から、
らいてう除名される。

らいてう、
鎌倉円覚寺境内の一軒家を借りて住む。

●二週間、漱石宅で過ごした森田、
牛込筑土八幡町の下宿に移る。
帰郷し屋敷を処分し当面の生活費を作る。

牛込筑土八幡町の下宿から横寺町の正定院の
本堂横手の六畳間に移り
「煤煙」を書き始める。

●4/3〜4/6
大杉、山川ら田中正造の地元、栃木県へ。

帰京後、
在日中国人にエスペラント語講習会を始める。

●4/16
二六新聞社主催の文士招待会、
上野精養軒で開催。
二六新聞が
「時代文芸」欄を設けるので招待。
長江、堺ら出席。
➡『知の巨人 評伝 生田長江』p94

●辻潤(24歳)、浅草区の精華高等小学校の教師になる。
他に夜学と家庭教師の内職もやっていた。
ロンブロウゾの『天才論』
(L’homo di Genioの英訳 
1905年版のThe Man of Genius)
➡辻潤全集「古風な涙」
 
●辻潤、小石川区大原町の亀井という
華族の屋敷の近所で、
小さい植木屋の庭の中の
隠居所に建てた四畳半と
三畳の二間の家に住む。
父母と妹の四人で暮らす。

父は四年越しに心臓を患い、
完全な廃人でおかしくなっていた。
行方不明になり万世橋の警察に保護される。
辻はこの頃はキリスト教の信者だった。
➡「古風な涙」辻潤全集 第四巻

●伊藤野枝(13歳)。
周船寺高等小学校高等科三年修了後、
長崎の叔母・代キチ
(代準介の妻)のもとへ行く。

代準介は当時、長崎市大村町21番地に住み、
三菱重工長崎造船所に材木関係の納入をしていた。
➡「伊藤野枝年譜」
(『定本 伊藤野枝全集』第四巻)

●4/9
野枝、西山女児高等小学校4年に転入学。
長崎年表(1908年)

『女学世界』『女子文芸』
(『女子文壇』?)などを愛読か。
 ➡『自由 それは私自身ー評伝・伊藤野枝ー』

『女学世界』(1901明治34創刊)
『女子文壇』(1905明治38〜1913大正2)

●4/13
大杉、
早稲田大学高等予科(英文科)に籍を置く。
徴兵逃れのため。

●4/28
石川啄木(22歳)、上京。
与謝野家に落ち着き、隣家の長江を訪ねる。

この頃、長江が晶子に英語を教える。
毎週金曜日夜、長江宅で。
➡『知の巨人 評伝 生田長江』p95

【5月】
●5/3
堺、山川、荒畑、菅野、大杉ら
初めてメーデー街頭行進に参加

【6月】
●6月中旬、森田がらいてう宅を訪問。
円窓のある部屋でディープキスを交わす。

●6/19
山口孤剣刑期を終えて
仙台監獄から出獄し東京に戻る。
孤剣は日刊『平民新聞』に書いた
「父母を蹴れ」などのために入獄。

同士たちが上野駅で赤旗を振り迎える。
警官と小競り合いになる。
赤旗事件の前哨戦となる。

●6/22
赤旗事件。
山口孤剣(本名・義三)の出獄歓迎会が
各派合同で神田の錦旗館で開催される。
高知で静養中の幸徳秋水は欠席。

散開の直後に大杉や寒村が
「無政府」「無政府共産」「革命」という
白い文字を縫いつけた赤旗を
振り回して館内を走り、
さらに外へ飛び出し、
神田錦町の路上で三本の赤旗を掲げる。
「柏木団」(直接行動派)の
「本郷団」(議会政策派)に対する挑発行為。

配備されていた多数の警官が
阻止しようして暴行を加え、
菅野スガ(寒村と同棲中)、
大須賀里子(5月に山川均と結婚)、
小暮れい子、神川松子ら
女性4人を含む14人が
治安警察法と官吏抗拒罪で逮捕され
神田警察署の留置場に拘引される。
➡『パンとペン 社会主義者・
堺利彦と「売文社」の闘い』180頁

「無政府」「無政府共産」という大きな赤旗は
堀保子と大須賀里子(さと)がを作り、
ふたりは旗の前で記念写真を撮った。
➡『野枝さんをさがして』130頁

旗は荒畑が間借りしている家の主婦に、
赤い布地に白いテープで
文字をミシンで縫いつけてもらう。
➡『日録・大杉栄伝』

「革命」という小さい三角形の
赤旗(縦20センチ/横49センチ)は、
堺為子が五歳の一人娘・眞柄(
堺の亡き先妻の子)のために作ったが、
当日、眞柄が体調を崩し
母とともに家に留まった。

大逆事件の直接の原因とされる
この赤旗事件が歴史を変えた。
菅野須賀子は獄中日記に
「殷鑑遠からず」と記す。
➡『逆徒「大逆事件」の文学』p290

➡堺利彦 「赤旗事件の回顧

特別要視察人
➡『パンとペン 社会主義者・堺利彦と
「売文社」の闘い』187〜188頁

●6/23
大杉ら神田警察署から警視庁に移され、
東京監獄の未決勘監に収監される。

●6/23
原敬日記
「・・・山県が陛下に社会党取締まりの
不完全なることを上奏せしに因って・・・」

●『女学世界』6月号に杉浦翠子の
平塚明子へのインタビュー記事掲載。
➡『青鞜の時代』31頁

●神近(20歳)、
活水女学校中等科2年の学年末
(活水は6月が学年末で9月が新学期)に、
河井先生(物理)辞職に抗議して
ストライキをやる。

●6/30
森田、茅ヶ崎の貸別荘「木村別荘」を訪れ
らいてうとその母に面会。

●長江、朝報社に入社。12月退社。

【7月】
●7/2
野口男三郎、市ヶ谷監獄で死刑執行。
大杉は市ヶ谷監獄で男三郎と交流していた。

野口(旧姓・武林)男三郎は
堺が天王寺高等小学校の
英語教員時代の教え子。
獄中、堺は野口に最後の別れをする。
➡『パンとペン 社会主義者・
堺利彦と「売文社」の闘い』46頁

●7/14
第一次西園寺内閣総辞職し第二次桂内閣。

●電車賃値上げ反対運動、有罪確定。
重禁錮一年六ヶ月。

●7/21
幸徳、クロポトキン『麺麭の略取』の
訳稿をたずさえて故郷を出発。

●7/25〜8/8
幸徳、
和歌山県新宮町に医師大石誠之助を訪ねる。

●佐藤春夫(16歳)の投稿短歌が
一首が『明星』の啄木選に入り掲載。

●7/28
大杉初の翻訳本
『万物の同根一族』出版(有楽社)。
原著者はハワード・ムーア。

【8月】
●8/12
幸徳、箱根の林泉寺のアナキストの僧、
内山愚童を訪問。

●8/14
幸徳、東京着。柏木926に居住(平民社)。

●8/15
東京地裁第二号法廷で赤旗事件の公判開廷。
幸徳、傍聴席に姿をあらわす。

●8/29
赤旗事件の判決出る。
女性は執行猶予と無罪。
大杉(重禁固約2年半、罰金二十五円)、
荒畑(重禁固約1年半)、
堺、山川(重禁固約2年)。

●らいてう、夏の終わりごろ
信州・松本に静養に行く。
「高原の秋」執筆(青鞜1915年10、11月号)。
〈白い雷鳥になり太陽の周囲を三度回った〉

●長江夫妻、千駄ヶ谷(与謝野夫妻の隣家)から
千駄木に引っ越す。向かいは高村光雲の家。

【9月】
●9/1
漱石『朝日新聞』に
「三四郎」連載開始(~12/29)。
翌年5月に春陽堂から刊行。
里見美禰子(みねこ)のモデルはていてう。

●9月初め
らいてう、信州へ。
お茶の水高女時代の「海賊組」の仲間、
小林郁を訪ねる。

ポオの散文詩を読む。
森田から時折、手紙が届く。
森田からイプセン『ヘッダ・ガブラ』届く。

●9/9
堺、大杉、荒畑ら東京監獄から千葉監獄へ下獄。
堺らが入獄中、堺為子と堀保子、
淀橋町柏木の下宿で同居。
➡『パンとペン 社会主義者・
堺利彦と「売文社」の闘い』182頁

大杉、ドイツ語を学習。
大杉、前回までの入獄中の
読書はアナキズム関係だったが、
千葉監獄ではがらりと変わり、
社会学、生物学、人類学、心理学などの専門書。

200px-Chiba-Prison-2009
千葉刑務所正門。1907年竣工
(@ウィキペディア)

●秋、長江と同郷(鳥取県)の生田春月、
長江宅の書生兼玄関番になる。

【10月】
●10月末。
内山愚童、『入獄記念 無政府共産』
(小作人はなぜ苦しいか)を
秘密出版。平民新聞の読者名簿によって発送。

【11月】
●代一家が東京で事業を始めることになり上京
(下谷区下根岸81/台東区根岸4、5丁目)。

●11/10
宮下太吉、東海道線大府駅を通過する
明治天皇のお召列車拝観のため集まった群衆に
『入獄記念 無政府共産』を配布。

●11/11
大杉、千葉監獄から父宛てに手紙を出し、
廃嫡と書籍購入費を依頼する。

父・東(あずま)は1907年2月に再婚。
子供らと静岡県清水町(現・静岡市)に居住。

●11/19
大石誠之助、平民社を訪問。
パリ・コンミュンの暴動、
一夜にして天下をとる法など、
幸徳の革命放談を聞く。
22日まで滞在。
のちに天皇暗殺の共同謀議と曲解される。

●11/26
野枝、西山女児高等小学校退学。
今宿へ帰り、周船寺高等小学校に戻る。
担任は女性教師・谷先生。
 ➡「伊藤野枝年譜」
『定本 伊藤野枝全集』(第四巻)

木下尚江『良人の告白』
(〜の自白?)を愛読していたと
「嘘言ということ」(青鞜5巻5号)で言及。
➡「嘘言ということに就いての追憶」
(『青鞜』5巻5号)

●大石誠之助が巣鴨平民社を訪れ、
秋水と森近運平と三人で会談。

【12月】
●12/5
内閣鉄道院が新設される。
鉄道や電車は「院線」と呼ばれる。
1920年に鉄道院が鉄道省になり
「省線」と呼ばれた。

●12月半ば
らいちょう、信州から引き上げる。
松本高女の寄宿舎に立ち寄り、
小林郁に白鞘の短刀をあげる。

列車が上野到着すると、俥を飛ばして、
牛込横寺町正念寺の森田の下宿を訪ねるが、
森田が留守だったので手紙託す。

らいてう、帰京後、しばらくして、
神田美土町の日本禅学堂に
通い座禅修行をする。

【その他】
●「耽溺」「現実暴露」が流行語に。
 ➡『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』

ふもれすく年譜索引