「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」7回 長崎(一)

文●ツルシカズヒコ

国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、一九〇八(明治四十一)年末の日本の都市人口の上位五都市は以下である。

 ●東京市 1,488,245人

 ●大阪市 1,226,647人

 ●京都市  442,462人

 ●横浜市  394,303人

 ●神戸市  378,197人

 
 九州の上位五都市は以下である。

 ●長崎市  176,480人

 ●佐世保市  93,051人

 ●福岡市   82,106人

 ●鹿児島市  63,640人

 ●熊本市   61,233人

 
 当時、長崎が九州随一の都会だったことがわかる。

 神近市子が、郷里、長崎県北松浦郡佐々(さざ)村(現・北松浦郡佐々町)から長崎市の活水女学校に入学するために、長崎市にやってきたのは一九〇四(明治三十七)年だった。

 後に神近と野枝の間にはただならぬ因縁が生じることになるが、このとき十六歳の神近は、生まれて初めて見る長崎市内のにぎわいに歓喜して、「ああ、長崎」と叫びたいような興奮にかられたという。

 異国情緒たっぷりの町並みにはいっていくと、お祭りのような人の波が押し寄せる。

 都会の繁栄とはこれほどめざましいものかと、私は何度も溜息をついた。

「随一の大都会にして、電信電話の線、蜘蛛の巣を張りたるごとし」

 小学校の地理の教科書では、町の賑やかさを教えるのにこれがきまり文句であった。

 私は、先生がそのくだりを読みあげるたびに、一瞬都会の目まぐるしさを想像して、からだを緊張させたものだった。

 ところが、いま私の頭上にはその文章のとおり無数の電線が交錯している。

 私は夢を見ているような心地がした。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p62~63)

 野枝の長崎滞在は八か月(一九〇八年四月〜同年十一月)ほどだったが、このとき二十歳の神近は活水女学校中等科二年生〜三年生(活水女学校は九月入学制)である。

 ふたりは長崎市内のどこかで、すれ違っていたかもしれない。

 当時の代一家は代準介が四十歳、代キチが三十二歳、代千代子が十五歳。

 千代子は野枝より二歳年長だが、野枝は早生まれなので学年では千代子は野枝の一学年上である。

 千代子は当時、長崎市内の女学校の二年生だった。

 女学校名は不明。

 親分肌の代準介は天下国家を論じ、友人知己、商売上の来客も多く、代家も時代感覚に敏感な活気のある家だっただろう。

 裕福な代家には新聞、雑誌の類いが豊富にあった。

 野枝は千代子の蔵書を読みあさり、街の本屋で立ち読みもしたことだろう。

 そこにはつばを飲みこむほどの雑誌や書籍がならんでいた。

 年よりませた野枝のことだから……女学生むけの雑誌などに手をだしたにちがいない。

 本屋の棚にはおそらく『女学世界』(一九〇一年刊)、『女子文芸』(一九〇六年刊)などが並んでいた。

 これらの雑誌は当時の少女たちに「投稿」をさそっており、それは野枝に対してどれほど心はずむ未知の世界をかい間みせてくれたことだろう。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p28)

『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』「伊藤野枝年表」(p5)によれば、野枝は「この頃から文学を好んでゐたが、十二三歳頃からしきりに少女雑誌文芸雑誌等へ作文和歌等を投書して、数回賞品を貰つた事もある」という。

 野枝自身は当時のことをこう書いている。

 ……小さいうちからいろいろな冷たい人の手から手にうつされて違つた風習と各々の人の異つた方針に教育された私はいろ/\な事から自我の強い子でした。

 そして無意識ながらも習俗に対する反抗の念は十二三才位からはぐくんでゐたので御座います。

 私は生まれた家にも両親にも兄妹にも親しむ事の出来ない妙に偏つた感情を持つてゐるのです。

(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p174/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p33)

 後に野枝はコンベンショナル(因習的)なものと闘う「新しい女」の看板を掲げることになり、その視点を強調した屈折した書き方をしているが、自分の人生を切り拓いていく上で、家族など何の頼りにもならいないという認識はこの時点ですでに明確になっていたのは事実だっただろう。

 野枝より二歳下の妹・武部ツタは、女姉妹同士ということもあり、子供のころから野枝とは隠し隔てのない仲だった。

 瀬戸内晴美(寂聴)『美は乱調にあり』のツタの発言は、歯切れのよいカラッとした辛口発言がいい味を出しているが、野枝の長崎時代についても一刀両断にこう断言している。

 姉が長崎の叔母の家へいったのも、ただ自分が勉強したいからで、うちより叔母の家の方が勉強するのに都合のいい環境だったからでしょう。

 叔父や叔母にいじめられたみたいなことを書いているのはまったく、でたらめですよ。

 叔母のところでだって、お千代さん同様、ずいぶん我まま勝手にしていたようです。

(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p36・岩波現代文庫)

 ツタによれば、野枝は子供のころから自分のことしか考えず、自分さえ勉強ができればよく、母親が困ろうが兄や弟や妹が泣こうが平気で、嫌いなことは一切せず、同じ年ごろの子どもと遊ぶというようなことも嫌いで、いつもひとりで何かしているような子供だった。

 おかげでツタは損な役目ばかり引き受けさせられた。

 物心ついたころには、父が家に寄りつかず、母が近所の畑仕事や賃仕事をして子供を養っていたので、ツタは子供のときから母を何とか助けようとしたが、野枝は一向に知らん顔をしていた。

 成人してからもなんの親孝行もしていない母にさんざん迷惑をかけ通した野枝は、得な性分の人で、野枝が生きてる間じゅう迷惑のかけられ通しだったという。

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

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