「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」12回 東の渚

文●ツルシカズヒコ

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、一九〇八(明治四十一)年暮れに代準介が一家を連れて上京したのは、セルロイド加工の会社を興すためだった。

 長崎の代商店の経営は支配人に任せての上京である。

 この分野では日本でも相当に早い起業であり、頭山満の右腕であり玄洋社の金庫番、杉山茂丸あたりのアドバイスがあったらしい。

 代準介は杉山とも昵懇だった。

 代キチは「とにかく頭山先生と玄洋社の加勢をしたかったようで、女の私にはよく分からない」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p46)と発言している

 代一家は下谷区下根岸(現・台東区根岸四、五丁目)の借家に入居した。

 家賃は月三十円。

 敷地は広く、前庭・中庭・後庭があり、母屋は二階建てで、職人七人を雇って離れでセルロイド加工を始めた。

 千代子は上野高女二年の三学期に編入学した。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p47)によれば「上野高女は下町の町娘の多い学校で、英語力等は土地柄もあり、長崎の方がレベルが高かったかもしれない」。

 一九〇九(明治四十二)年の四月、野枝は今宿の谷郵便局の事務員になり職業婦人として働き始めていたが、その年の夏、千代子の夏期休暇中に代一家が東京土産を携えて今宿に帰省した。

国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、当時の東京市の人口は二百万を超えていた。

 花の東京話も土産になったことだろう。

 この年の五月に東京・両国国技館竣工、六月二日に相撲の常設館として開館した。

 頭山満が師と仰いでいた板垣退助は好角家として知られていたが、代準介も好角家だった。

 頭山満の紹介で代準介は板垣退助の知遇を得ていた。

 夏目漱石も見に行ったという、国技館のこけら落とし興行を板垣、頭山、代の三人は桟敷で観覧したかもしれない。

 そうだとしたら、代準介は土産話として話題にしたことだろう。

 この年は「ハイカラソング」が流行った年でもあった。

 ゴールド眼鏡の ハイカラは 
 
 都の西の 目白台
 
 女子大学の 女学生
 
 片手にバイロン ゲーテの詩
 
 口には唱える 自然主義
 
 早稲田の稲穂が サーラサラ
 
 魔風恋風 そよそよと

 自転車で颯爽と通学する女学生と東大生の恋愛を描いた、小杉天外の長編青春小説『魔風恋風』は、一九〇三(明治三十六)年に『読売新聞』で連載され大ヒットした。

 高等女学校令が公布施行されたのは一八九九(明治三十二)年だったが、二十世紀初頭、明治のハイカラを象徴するのが女学生だった。

 代準介がもし相撲の話をしていたら、野枝はそれをお愛想の相づちを打ちながら、シラーっとして聞いていただろう。

 それよりも、目の前にいる従姉の千代子がまぶしかっにちがいない。

 千代子は現役の東京の女学生なのである。

 三年に進級した千代子は級長をしていた。

 それに比べて、自分は田舎の郵便局の……。

 私(ノエ)も千代子と同じく東京で級長を張るくらいの力はある。

 東京へ行きたい、長崎や福岡より何十倍もの都会の東京で自分を試してみたい。

 この村で終わりたくない。

 自尊心と、功名心と、千代子へのライバル心がノエを動かし始める。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p53)

 代一家が東京に戻った後、野枝は暗い日々を送っていた。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝が郵便局の勤め帰りに今津湾をひとり悄然と見つめながら、そのころの心情を書いたと推測されるのが「東の渚」という詩である。

 野枝の『青鞜』デビュー作であり、野枝が残した唯一の詩だ。

 
 東の磯の離れ岩、

 その褐色の岩の背に、

 今日もとまつたケエツブロウよ、

 何故にお前はそのやうに

 かなしい声してお泣きやる。

(略)

 私の可愛いゝケエツブロウよ、

 お前が去らぬで私もゆかぬ

 お前の心は私の心

 私も矢張り泣いてゐる、

 お前と一しよに此処にゐる。

 ねえケエツブロウやいつその事に

 死んでおしまひ! その岩の上でーー

 お前が死ねば私も死ぬよ

 どうせ死ぬならケエツブロウよ

 かなしお前とあの渦巻へーー

 ーー東の磯の渚にて、一〇、三ーー

「東の渚」/『青鞜』1912年11月号・第2巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p9~10)

 ケエツブロウとはカンムリカイツブリの博多地方の呼び名で、日本には冬季に冬鳥として飛来する。

 群れず一羽でいることが多い。

 どんどん従姉の千代子に遅れていく。

 こんな海辺の田舎で終わってしまうのか。

 どうしてこんな境遇に生まれ落ちたのか、このままで終わる一生なら生きていても意味は無い、ケエツブロウよ一緒に死のうと詠っている。

 夕刻の今津湾を見つめながら、能力のある子が自分の能力を活かしきれないことに地団駄を踏んでいる。

 私(ノエ)も千代子と同じく東京で級長を張るくらいの力はある。

 東京へ行きたい、長崎や博多より何十倍も都会の東京で自分を試してみたい。

 この村で終わりたくない。

 自尊心と、功名心と、千代子へのライバル心がノエを動かし始める。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p52~53)

 野枝の死後、「大杉夫妻の葬儀」を報じた『福岡日日新聞』の記事の中で、野枝が「十四五歳の時作つた歌」が二首紹介されている。

 死なばみな一切の事のがれ得ていかによからん等とふと云ふ

 みすぎとはかなしからずやあはれ/\女の声のほそかりしかな

(『福岡日日新聞』1923年10月17日・三面/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』資料篇_p436)

 
 会葬者の目を惹いたというこの歌も、野枝が今宿の谷郵便局に勤めていたころの作かもしれない。

 田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』によれば、野枝の死後、野枝の地元『糸島新聞』(一九二三年十月二十四日・一面)にも「野枝の和歌/小学校時代」の見出しの記事が掲載され、葬儀で周船寺高等小学校時代の歌稿六十余首が紹介されたという。

『糸島新聞』は『福岡日日新聞』が紹介している二首ではなく、別の九首を掲載している。

 群衆にまじりて聞きし一節の女の声の頭にしみぬ

 日は沈む浮かびし儘の賛美歌を只訳もなく歌ひてあれば

 鏡とりて淋しや一人今日もまた思ひに倦みて顔うつし見る

 鏡見ればつめたき涙伝ひたる後のしらじら光る淋しさ

 頬を伝ふ涙つめたし橋に立てば杉の梢に夕陽の入る

 雨の日は苦しき心しかと抱きかすけき強き音に聞き入る

 夕雲よ白帆よ海よ白鳥よあゝ日は沈むさびしき思ひ出

 赤き頬かゞやく瞳思ひ出づ火鉢に凭(もた)れ机に凭れば

 なべて皆瞳にうつるもの悲し梅の蕾の仄白き夕

(田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』_p123)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)

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