「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」26回 帰郷

文●ツルシカズヒコ

 一九一二(明治四十五)年三月末、上野高女を卒業した野枝は東京・新橋駅から列車に乗り、福岡県・今宿に帰郷した。

 この帰郷について野枝が書いた創作が「わがまま」である。

 「わがまま」に登場する人物設定は、以下である。

 登志子=野枝、まき子=代千代子、野枝たちと同年輩らしい安子=千代子の親戚、叔父=代準介、叔母=代キチ、夫の永田=末松福太郎、「男」=辻。

「わがまま」では新橋駅から列車に乗り、博多へ向かったのは登志子、まき子、安子の三人である。

 昼の汽車に遅れたため、出発は夜になった。

 登志子は男と最後の別れになるかもしれないと思い、ジッと男の顔を見た。

 この男と二度と会えないとすれば、それは一生忘れられない悲痛な思い出になるだろう。

 そう思うと、男の顔を眺めているのが辛い。

 登志子はふと、十三歳年下の弟・清のことを思い浮かべた。

 まだ改札時間まで間があったので、登志子は故郷の幼い弟に頼まれた飛行機の模型を買うことを口実に、銀座に行くと言って新橋の停車場を出ようとすると、男が言った。

 「僕が一緒に行ってやろう」

 男は一軒一軒それらしい店の前で尋ねてくれたが、目的の模型は見つからなかった。
 登志子はもうそんな買い物なんかどうでもよかった。

 登志子はもう手を握り合うこともないできないと思ったのに、思いがけない機会が訪れことがうれしくもあり、悲しくもあった。

 「もっと先まで行けばあるだろうけれども、時間がないかもしれない」

 「ええ、もうよござんす、引き返しましょう。みんなが待っているでしょうから」

 停車場の階段を寄り添って上るとき、ふたりは手が痛くなるほど強く握り合った。

 改札口近くにまき子の後ろ姿が見えた。

 傍らに世話になった先生や世話焼き役の小父さんがいた。

 小父さんは野枝の顔を見ると、昼の汽車に遅れたのは登志子のためだと言って責めた。

 興奮し心が荒く波立ってる登志子にとって、その小言は耐え切れないほど腹立たしかった。

 自分に小言を言う資格のない人に、つまらないことを言われたということがまず不快だった。

 登志子は熱した唇を震わせ、眼に涙をいっぱい溜めて小父さんと言い争いをした。

 汽車が新橋の停車場を出た翌々日、登志子たちを乗せた関門連絡船門司港についた。

 船を降り、まき子と安子はいそいそと門司の停車場に歩き始めたが、登志子は重い足取りでずっと後れて歩いて行った。

 以前なら、故郷に帰ってきたという懐かしさ、うれしさを感じたが、今回はどうだろう?

 まるで自分の体を引きずるようにして行くのだ。

 仇敵のような叔父をはじめ、自分が進もうと思う道に立ちふさがる者ばかりだ。

 そして、みんなで自分に押しつけた、自分よりずっと低級な夫。

 そういう者たちの顔を思い浮かべると、イライラしてきて歯をかみならし、やり場のない身悶えがする。

 あと五、六時間したら、その夫の家に入らなければならないのだ。

 門司の停車場に入ると、登志子はベンチに荷物を投げるように置いた。

 まき子と安子はうれしそうに場内を見回している。

  「チョイと、今度は何時に出るの。まだよほど時間があるかしら」

 まき子は野枝がボンヤリ時間表を眺めているのを見ると、浮き浮きした声で聞いた。

 「そうね」

 登志子は気乗りしない返事をしてベンチに腰を下ろした。

 登志子はまき子の声を聞くと、叔父の傲然した姿を思い出して嫌な感じになった。

 男との一昨夜の苦しい別れが目に浮かんだ。

 五、六時間後の嫌なことを忘れるために、東京での出来事を思い浮かべて誤魔化していた。

 登志子の暗い心にいっぱいに広がり彼女を覆っているのは、最後の別れの日に登志子に熱い接吻と抱擁を与えた男のことだった。

 場内がなんとなくざわめいてきた。

「もうあと十五分よ、登志さん」

 と声をかけられ慌てて立ち上がったが、まだ十五分もあると思うと拍子抜けがした。

 ふとそこらの人々を見ると、登志子は急になんとも言えない哀しい心細い気がした。

 登志子はこの旅行の途中、大阪で連れを離れて、それから四国にいる人を頼って隠れるつもりでいた。

 それを思い出すと、不案内の土地の停車場でまごついている心細い自分の姿を、この停車場のどこかに見出した。

 登志子の心はさらに沈んだ。

 登志子はそのまま無茶苦茶に歩いて出口の方へ言った。

 車寄せのすぐ左の赤いポストが登志子の眼につくと彼女は思ひ出したように引き返して袋の中から葉書と鉛筆を出した。

 そしてまき子のたつてゐる反対の方をむいて葉がきを顔で覆ふやうにして男の居所と名前を手早く書きつけて裏返した。

 何を書かう?

 何も書けない。

 彼女の目からは熱い涙が溢れ出た。

 『漸く此処まで着きましたーー』書いて行くうちに眼鏡が曇つて見えなくなつた。

 書けない。

 早く書いてしまおふとしてイラ/\して後をふり返るとたんに、

「改札はじめてよ、早く行きましょう」と急かれる。

 後の五六字は殆ど無意識に書いた。

(「わがまま」/『青鞜』1913年12月号・3巻12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p85~86)

 野枝の「あきらめない生き方・その二」の始動である。

 野枝は辻との関係が断絶しないように、先手を打って葉書きを出したのである。

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次