「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」36回 染井

文●ツルシカズヒコ

 辻潤宅で辻と野枝の共棲が始まったのは、おそらく一九一二(明治四十五)年の四月末ごろである。

 僕はその頃、染井に住んでゐた。

 僕は少年の時分から、染井が好きだツたので一度住んで見たいと兼々(かねがね)思つてゐたのだが、その時それを実行してゐたのであつた。

 山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通つてゐたのであつた。

 僕のオヤヂは染井で死んだのだ。

 だから、今でも其処(そこ)にオヤヂの墓地がある。

 森の中の、崖の上の見晴しのいい家であつた。
 
 田圃には家が殆(ほと)んどなかつた。

 あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだつたが今は駄目だ。

 日暮里も僕がゐた十七八の頃は中々よかつたものだ。

 すべてもう駄目になつてしまつた。

 全体、誰がそんな風にしてしまつたのか、何故そんな風になつてしまつたのか?

 僕は東京の郊外のことを一寸(ちよつと)話してゐるのだ。

 染井の森で僕は野枝さんと生れて始めての熱烈な恋愛生活をやつたのだ。

 遺憾なきまでに徹底させた。

 昼夜の別なく情炎の中に浸つた。

 始めて自分は生きた。

 あの時、僕が情死してゐたら、如何に幸福であり得たことか! 
 
 それを考へると、僕は唯だ野枝さんに感謝するのみだ。

 そんなことを永久に続けようなどと云ふ考へがそも/\のまちがひなのだ。

 結婚は恋愛の墓場ーー旧い文句だが如何にもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調に於て男女相抱いて死することあるのみ。グヅ/\と生きて、子供など生れたら勿論それはザツツオールだ。

 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやる為(た)めではなく、彼女の持つてゐる才能を充分にエヂュケートする為めなのであつた。

 それはかりにも教師と名が付いた職業に従事してゐた僕にその位な心掛はあるのが当然な筈(はず)である。

 で、それが出来れば僕が生活を棒にふつたことはあまり無意義にはならないことだなどと甚(はなは)だおめでたい考へを漠然と抱いてゐたのだ。

(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p7~9/『ですぺら』_p179~183/『辻潤全集 第一巻』_p387~389)

 辻の母・美津(光津ともいった)は、会津藩の江戸詰め家老・田口重義とその妾某女との間に生まれたが、重義と別れた某女が美津を連れ子として辻四郎三の後添いに入り、美津は養女となる。

 辻の父・六次郎は埼玉の豪農茂木家に生まれたが、茂木家は維新前は幕臣だったらしい。

 六次郎は美津と結婚し辻家の養子婿となった。

 六次郎も美津も明治前の生まれのようだ。

 祖父の四郎三は明治維新までは浅草蔵前で札差をしていたので裕福だった。

 辻の本名は潤平で弟・義郎(一八九二年生)と妹・恒(つね/一八九六年生)がいた。

 義郎は若くして家を出て洋服職人として自活していた。

 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(P56)には、染井の森の緑がしたたる五月初めごろ、上野高女の同窓生四、五人が辻の家を訪ねたとある。

 辻の家族一同は彼女たちを心よく迎い入れ、美津は三味線を弾き、辻は尺八を吹き、みんなは歌って「越後獅子」などを合奏した。

 小町娘と言われた恒も、野枝と一緒にいそいそと給仕をしたりしてもてなした。

 帰りに一同は染井の「ちまき」という汁粉屋に入ったのだが、辻が家を出るとき、野枝が辻の背に羽織を着せ掛けたしぐさが、ひどくなまめいて、友人のひとり神達つやはそれが心に残ったと回想している。

 「あたしたちは野枝さんが先生とああいう仲だったとまったく気づきませんでした。そうした男女のむつみごとなんかなんにもしらないボンクラでした」

 美津は江戸町人の伝統文化を身につけた粋人で、三味線の名人でもあり小唄もうまかった。

 野枝も祖母と父の血筋を受け継ぎ、三味線や唄の才があったようなので、その点、野枝は辻家のノリに合っていたかもしれない。

 角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄をかけ黒襟の衣物(きもの)を着(ちやく)し、三味線をひき怪し気なる唄をうたつたが……。

 大杉君もかなりオシヤレだつたやうだが、野枝さんも、いつの間にかオシャレになつてゐた。

 元来、さうであつたかも知れなかつたが、僕と一緒になりたての頃はさうでもなかつたやうだ。

 だが女は本来オシヤレであるべきが至当なのかも知れぬ、しかし御化粧などはあまり性来上手な方ではなかつた。

 僕のおふくろが世話をやいて、妙な趣味を野枝さんに注入したので、変に垢ぬけがして三味線などひき始めたが、それがオシャレ教育の因をなしたのかも知れなかつた。

(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p17~19/『ですぺら』_p203~208/『辻潤全集 第一巻』_p400~404)

 野枝の青鞜社時代の友人、小林哥津(かつ)も下町生まれだが、『自由 それは私自身』(P53)によれば、彼女も美津の粋さが好きで、春には竹の子ご飯に春菊のおひたしをちょっと出してくれる、質素でもそんな雰囲気が好きだったという。

小林哥津さんの「清親考」

★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

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