「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」46回 ロゼッチの女

文●ツルシカズヒコ

 伊藤野枝「雑音」(『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)に、らいてうと奥村が一夜をともにした件について、紅吉が野枝に語って聞かせる場面がある。

「雑音(十六)」によれば、らいてうと奥村が一夜をともにしたのは、らいてうが一時帰京するはずだった日の夜だという。

 その日、奥村が南湖院に来たので、紅吉の病室でらいてう、保持、奥村、紅吉の四人で遅くまで話をして、結局、奥村は保持が寝泊まりしている小屋に泊まることになった。

 紅吉はいやな予感がして、眠るどころではなかった。

 じっとしていられなくなり、病室を抜け出し、奥村がいるはずの小屋に行ってみた。

 人の気がないので思い切って戸を開けて見ると、案の定、誰も寝ていなかった。

 敷かれた蒲団にも人が寝たような気配はなかった。

 手で蒲団に触ってみたが、冷たくて人肌の温(ぬく)みがない。

 その瞬間、紅吉はらいてうが奥村を自分の部屋に連れて行ったに違いないと思ったが、夜中なので仕方なく、一睡もせずに夜明けを待った。

 そして「雑音(十七)」によれば、朝五時ごろ、紅吉はらいてうの宿に駆けて行った。

 すでに起きていたおかみさんが家の外に出ていたが、おかみさんは紅吉の顔を見るとひどく慌てて家の中に入って行った。

 紅吉は胸がドキドキして頭がボーッとしたが、らいてうが間借りしている部屋を開けてみた。

 らいてうの影は見えなかったが、床が並べて敷いてあり、見覚えのある奥村のスケッチ箱や三脚が置いてあった。

 紅吉がおかみさんにふたりはどこに行ったのかと尋ねると、「浜へお出でになったんでしょう」と決まりが悪そうに答えた。

 おかみさんの後について浜の方に行くと、向こうから毛布にくるまったらいてうと奥村が歩いて来た。

 紅吉はカッとなったが、ふたりを迎え、しばらく浜で遊んだ。

 紅吉は不快で不快で面白くもなんともなかった。

 紅吉は病院に帰ってから、保持に黙っていようと思ったが、黙っていられず、すっかり話してしまった。

 保持は紅吉に同情してくれた。

 その日もらいてうと奥村は一日、茅ヶ崎で遊び暮らした。

 夜、奥村は藤沢に帰ると言って病院を出た。

 しかし、紅吉は奥村が帰ったとはどうしても思えず、その夜も眠らず朝を迎えた。

 朝、らいてうの宿に裏から入って行くと、らいてうの部屋の戸は閉じていて、ふたりの下駄が沓脱ぎの上に麗々と揃えて置いてあった。

 ここで紅吉は野枝に、こう語りかけている。

「ね、野枝さん、そういう意地の悪いことをあの人はするんです」

 紅吉はその場に立ちすくんでしまい、しばらく泣いていた。

 真っ紅な鶏頭が咲いていた。

「平塚さん、さようなら!」

 紅吉は力一杯の声を張り上げて怒鳴って駆け出し、病院に帰ってきた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p388~389)によれば、この後、逆上した紅吉は「きっとこの復讐はするつもりです」という脅迫状を奥村に送ったり、東京に帰ったらいてうのもとへ、保持から「紅吉が剃刀をといでいる」という手紙も届いた。

「雑音(十七)」の紅吉の証言によれば、奥村は二夜連続らいてうと床を並べて寝たことになるが、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』にも、奥村博史『めぐりあい 運命序曲』にも、その記述がない。

 紅吉の「妄想」とも考えられるが、真相は不明だ。

 らいてうは奥村に手紙を書いた。

 これを書く私の手があんまり震えるのを私は只じっと眺めているのです。

 あれからいつも美しいこと悲しいことばかり夢見てる私をどうぞときどき思い出して下さい。

 私の子供(しげりのことを、なぜか昭子はこう呼んでいる)は、あなたからもう便りがありそうなものだと言っています。

 私の子供を可愛がってやって下さい。

 嫉妬深い心にも同情してやって下さい。

 私は三十日までここに居ります。

 それまでにあなたの絵をぜひ一枚頂きたい。

 あなたの自画像ならなお好いのですけれど、こんなこと聞いて頂けるかと心配です。

 三十日の夕刻までに。

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)

 らいてうはこの手紙に、南郷の弁天様の境内で撮った記念写真を同封した。

 海水帽に浴衣がけの男の方は評論家の生田長江先生で、一番右の端にお行儀よく立っていられるのが先生の奥様です。

 しげりは坊やのように可愛くとれましたでしょう。

 ある人は私をロゼッチの女だと言いました。

 お便り心からお待ちしております。

 八月二十七日  昭

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

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