「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」47回 モンスター

文●ツルシカズヒコ

 奥村は画家の視点で、らいてうをヴァン・ダイクが描いた『オランジュ公と許嫁』のプリンセス・マリイのようで、さらにボッティチェッリラファエロが描くマドンナが「この人の内にある」と思った。

 中世の貴族を思わす端正な顔、小柄ながらバランスの良くとれた体躯、充実して生きいきとした小麦色の皮膚、聡明さをあらわす額、それにかかるどこやらいたずらっけの交じった渦巻く煉絹(ねりぎぬ)のように柔かい癖毛。

 いつも中心を動かぬ、山の湖を思わすーーそのじつ底知れぬパスションを内蔵するかに見えるーー物を射るような鳶色の大きい瞳。

 絶えず何ものかを求めて燃える唇!

 そして腹部から腰に連らなる線のいっかな物に動じぬ牝豹のような、しかし、どこやら未成熟な少女のからだつき。

 むっちり肉の盛り上った、人一倍小さい可愛い可愛い子供そのままの手。

 もし難を言うならば胸のあたりの寂しさだが、これがこの人と矛盾した静的な印象を見る者に与えることであろう。

 おしろいけのないのがいっそう彼の気に入った。

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p54)

 絵を描くために城ヶ島に行き、部屋を借りた奥村はこう返信した。

 見たところ、おかしいほど良助の家によく似ています。

 紅いかんなの花も咲いているし、その上グラスの赤い風鈴までが同じように部屋の天井にぶら下がっていて何だか妙な気持になります。

 これでもしあなたが居て下さったら、と思うのはわたしの贅沢(リュックス ※仏語のluxe)というものでしょうか?

 これが嶋で書く最初の手紙です。

 あなたからもお便り下さい。

 九月一日 浩

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p55)

 翌日、奥村は前夜、床の中で浮かんだ詩を葉書に書いて、らいてうに出した。

 やみのよの おもひはなみに ただよひて かなしみの はてもなし

 はるかなる きみがこころに よせてはかへす わがおもひ いまあらたなる

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p56)

 奥村はまもなく、らいてうからの手紙を受け取った。

 あなたの自画像の前で私は静かに読書しています。

 けれども、ふとしたことで私の心はたちまち烈しく波立ちます。

 そしていつか同じ頁ばかり見つめています。

 小母さんが茅ガ崎から持って来た東さんの撮ったあなたの写真を留守中にそっと出して何度覗いたことでしょう。

 しまいにはあなたの絵と並べて立てて置いたんです。

 笑わないで下さい。

 私は口に出してそれを欲しいと小母さんに言いはしませんでしたけれど、もう駄目です。

 小母さんはそれを持ってしげりといっしょにゆうべ茅ガ崎へ帰ってしまいました。

 記念号はゆうべ遅くできて来ました。

 さっそくお送りします。

《青鞜》の記念号はやがてふたりの記念号でもあることをどうぞ覚えていて下さい。

 九月三日 昭

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p56~57)

「東」は馬入川での船遊びのときに、棹をさばいた小野青年のことだ。

 奥村が城ヶ島の灯台の下で絵を描いた日のことだった。

 絵は断崖から海を見下ろした横長の構図で、奥村は完成した感じまでが目に浮かんで愉しかったが、秋の日の晴れたり曇ったりの天候の激変が煩わしく気がかりだった。 
 奥村が宿に戻ると、藤沢の実家に届いた手紙が転送されていた。

 紅吉からの手紙だった。

 きのう午後、広岡の家であなたの悲しい詩の書いてあるはがきを見た。

 あなたにはもちろん何の罪もないのです。

 罪はないがきっときっとこの復讐はするつもりです。

 私はあなたによって生きることの出来ない傷を受けたのです。

 私の前途は暗くなった。

 広岡を私は恋しています。

 私は近いうちにあからさまにこの間のことをある場所で書き出すつもりです。

 きっと書きます。

 あなたの名前も手紙も詩もみんなその通り発表します。

 私は最近ある人からあなたのことをよく聞いた。

 あなたの両親宛にも書くつもりです。

 モンスター

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p60)

 らいてうは当時の紅吉との関係を、こう書いている。

 紅吉の手紙のなかに「私はらいてうを恋しています」などと書いてあるのを見て、奥村はさぞ理解に余ったことでしょう。

 変わり者の紅吉が、そのころわたくしに夢中になっていたことは事実でした。

 それを他から見て同性愛というならば、紅吉のわたくしに対して抱いた感情は、「同性への恋」であったのでしょうが、わたくしとしては紅吉の生まれながらもっている類のない個性的な魅力にとらわれていたことは事実としても、いわゆる同性愛的な気持で、紅吉をうけいれていたのではありません。

 ……それが同性愛でなかったことは、奥村に大きく傾いたわたくしのそれからの心の動きが、正直に物語っているといえましょう。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p388)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

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