詳伝・伊藤野枝

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」24回 おきんちゃん

2025年5月10日 土曜日

文●ツルシカズヒコ

 年が改まり、一九一二(明治四十五)年、学校は三学期になった。

 野枝はほとんど何もやる気が出なかった。

 苦悶は日ごと重くなり、卒業試験の準備などまるですることができなかった。

「辻先生と野枝さん」と誰からとなく言われるようになったころ、野枝は辻とおきんちゃんが接近するのをじっと見ていた。

 野枝は、見当違いのことを言われるのがおかしくて、鼻の先で笑ったり怒ったりして見せていた。

 しかし、野枝もかなり接近していたのは事実だった。

 それは主に趣味の上の一致だった。

 野枝は同級生のように呑気な気持ちにはなれなかった。

 先生との恋愛関係みたいなことで騒ぐ余裕は全然なかった。

 みんなの噂は本当に絵空事だった。

 しかし、辻とおきんちゃんとの関係はかなり怪しいと、野枝は感じていたが、それをみんなに話すほどの興味も感じなかった。

 野枝は自分自身の気分にひたすら圧迫されていた。

 野枝は代千代子と一緒に佐藤教頭の家に寄宿していたが、一月のある月曜日、教頭先生とそのふたりの子供、千代子と五人で日比谷に遊びに行った。

 三時ごろ教頭先生の家に戻ると、おきんちゃんと野枝のクラスのEと前年の卒業生が訪ねてきたと女中が言った。

 今しがた帰ったばかりだというので、野枝と千代子が停車場に行ってみると、三人はそこにいた。

 野枝と千代子が教頭先生の家に引き返すことを勧めたが、四時までに帰らなければいけないのでそれはできないという。

 そうしているうちに電車が来た。

 野枝が千代子に「じゃあ、千代子さん、駒込まで送りましょうか」と言いながら、身軽にひらりと電車に飛び乗った。

「いいわ、お気の毒だから本当に、ね」

 と三人は言ったが、千代子も電車に乗ってしまった。

 三人の顔に当惑の色が浮かんだ。

「駒込からすぐにお帰りになるの野枝さん」

 とEが聞いた。

「ええ、そうね。辻先生のところへ寄ってもいいわね、千代子さん」

「そうね、寄ってもいいわ、そして墓地抜けましょうか」

「それがいいわ」

 三人は顔を見合わせた。

「私たちも寄りましょうか一緒にーー」

 おきんちゃんが気軽に言うと、野枝はカッとなった。

「辻先生のところへ寄るくらいなら、なぜ私のところへ帰って下さらないんです! ちょっとだっていいじゃありませんか、少しひどいわ」

「よしましょうか。遅くなるわね」

 と、Eさんが野枝の顔を窺いながら言った。

 どっちつかずのことを言ってるうちに、電車が駒込に着いた。

「どうするの?」

 野枝がムカムカしながら、そう言って電車から降りた。

 三人はしばらくぐずぐずしていたが、やがて降りてきた。

 野枝には三人の気持ちが見え透いていた。

 最初からここへ来るつもりだったから、「四時までに帰らなければ……」なんて嘘をついたのだと思うと、女らしいいろんな小細工をして、下らない隠し立てをしているのが不愉快になった。

 電車を降りた三人は何か相談をしていた。

 野枝が皮肉な目でじっとEを見つめると、人のよい彼女はおどおどしたような困った顔をした。

 野枝はなんだか快いものを感じた。

 野枝と千代子が三人のところに行くと、おきんちゃんは黙って俥(くるま)に乗った。

 足が痛いことを口実にしてーー。

 野枝はフフンと笑いたくなった。

 残されたふたりは道を知らないという。

 野枝は不快だったので行かないと言ったが、道を教えてやってきわどいところで逃げてやろうと思い、一緒に行った。

 ふたりはこのあたりの地理にまったく不案内だったので、野枝はできるだけ遠回りをして、ふたりを引っぱり回した。

 途中で馬鹿なお供をしていることが嫌になり止そうと思ったが、こんなところで彼女たちをほっぽり出しても仕方がないので、意地の悪い目をして皮肉を言っては、Eの困ったおどおどした顔を見てある快感を覚え、腹いせをしながら歩いた。

 ふたりを辻の家の門まで送りつけ、すぐに引き返した。

 ふたりは後を追っかけてきたようだが、見向きもせずに急いだ。

 しかし、不快な念はどうしても押さえることができなかった。

 翌日、学校に行くと、Eはうつむいてばかりいた。

 野枝は意地の悪い顔をしてジロジロ見た。

 やがて、Eが小さな声で言った。

「ごめんなさいね。昨日は本当に悪かったわ」

「なに別に悪いこともしないじゃありませんか」

「でも悪かったわ、ごめんなさいな」

「私、あなたからお詫びされる覚えなんかありませんもの、なんですいったい」

 野枝の声には薄気味の悪い落ち着きと意地の悪い冷たさがあった。

 人のいいEは辛そうに首を垂れた。

「でも怒ってらっしゃるでしょう。今におきんちゃんもお詫びに来ますからーー」

「何を怒っているんです。おきんちゃんが何で私にお詫びするんです。そんなことちっともないわ」

 そう言い放って、野枝は教室を出て行った。

「小さな、ケチな根性だね、おまえは」と自分に言いながら、野枝はやっぱりケチな根性に負けていた。

 おきんちゃんが来た。

 しかし、野枝はまるで相手にしないような態度を見せて追っ払った。

 みんなが不思議な顔をして見ていた。

 辻に対してもなんとなく一種の軽侮を感じ始めた。

 野枝はまたイライラして、本当にまあどうしてこんなにイヤなケチケチした了見を持っているんだろうと思った。

 自分が嫌になってきた。

 しかし、他人にはなおのこと同感できなかった。

 何を読んでもおもしろくなくなった。

 すべてがつまらなくなった。

 野枝は「惑ひ」の終わりの方で、自分の辻に対する感情をこう分析している。

 
 併(しか)し今考へて見ると、その当時は色々な複雑な考察にわづらはされて苦悶を重ねてゐたときだから意識に上らなかつたのだけれども男に対する愛はその頃から芽ぐんでゐたのだなと町子は考へないわけにはゆかなくなつてしまつた。

(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p275/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p114)

 つまり、野枝が辻を恋愛対象として意識し始めたのは、上野高女五年の三学期のころだったということになる。

「惑ひ」は『青鞜』一九一四(大正三)年四月号に掲載されたので、野枝は二年後に、冷静に自己分析をして文章化したのである。

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」23回 天地有情

2025年5月9日 金曜日

文●ツルシカズヒコ

 野枝が福岡から帰京したころ、一九一一(明治四十四)年八月下旬の蒸し暑い夜だった。

 平塚らいてうは自分の部屋の雨戸を開け放ち、しばらく静坐したのち、机の前に座り原稿用紙に向かった。

 らいてうはその原稿を夜明けまでかかり、ひと息に書き上げた。

 書き出しはこうだった。

 元始、女性は実に太陽であつた。

 真正の人であつた。

 今、女性は月である。

 他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

 偖(さ)て、こゝに「青鞜」は初声を上げた。

 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。

 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。

 私はよく知つてゐる。

 嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。

(「元始女性は太陽であつた – 青鞜発刊に際して」/『青鞜』1911年9月号・1巻1号/『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(上巻)』_p328)

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p64)によれば、帰京した野枝は叔母のキチや千代子に対して、露骨に自棄な態度をとり始めた。

 さすがに叔父・代準介にはそういう態度は取れないが、この時期、代準介は長崎と東京を行ったり来たりしていて、月の半分も根岸の家にいなかった。

 準介は野枝の拗(す)ねた言動をキチから聞いていたが、卒業までには何とか落ち着くだろうと考えていた。

 野枝が帰京した後、末松家は入籍を急ぎ、野枝はすでに末松家の嫁なので生活費と上野高女の学費を出したいと申し出た。

 末松家と代準介の折衝により、末松家が学費を負担することで双方折り合った。

 野枝が末松家に入籍されたのは、十一月二十一日だった。

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』p507)には、野枝は「夏休み以降卒業までの間、従姉千代子と上野高等女学校の教頭佐藤政次郎宅に寄宿する」とある。

 野枝はこのころの苦悶をこう書いている。

 無惨にふみにぢられたいたでを負ふたまま苦痛に息づかいを荒らくしながら帰京したときにはもう学校は二学期に入つてゐた。

 彼女の力にしてゐる先生達は皆で彼女の不勉強をせめて、卒業する時だけにでも全力を傾けて見ろと度々云はれて居た。

 併し彼女の苦悶は学校に行つて、忘れられるやうな手ぬるいものではなかつた。

 彼女の一生の生死にかゝはる大問題だつた。

 きびしい看視の叔父や叔母のゐなくなつたと云ふことも助けて、苦悶は彼女にいろんなまぎらしの手段として強烈なヰスキーを飲むことや、無暗(むやみ)に歩くことや、書物にかぢりつくことを教へた。

 教科書は殆んどのけものにされてすきな文学物の書ばかりが机の上に乗るやうになつた。

(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p268~269/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111~112)

 年末、上野高女では「桜風会」(文化祭のようなもの)が開催され、野枝たちのクラスはシェークスピアの『ベニスの商人』を上演し、野枝はベラリオ博士を演じた。

 さらに野枝は指名されて、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」を朗読した。

 卒業間際の桜雲会の余興に、シェークスピアの「ベニスの商人」を上演しました時、シャイロックが町田さんで、私が胸の肉一斤を取られようとする商人のアントニオで、ポーシャが竹下さん、ベラリオ博士が野枝さん、バッサニオが代さんでした。

 その時の会に野枝さんが、土井晩翠の『天地有情』の中の新体詩「馬前の夢」の朗読を、堂々と胸を張って終わった時は、会場の全員を夢心地にして了った程でした。

(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)

 花沢かつゑは「桜雲会」と書いているが、井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p37)では「桜風会」と表記されている。

 花沢かつゑは、野枝に関するそのころのこんなエピソードも語っている。

 級友で牛乳屋の娘さんが家庭の事情で学校をやめなければならなくなりました。

 佐藤先生もなんとかひき止めたいと考えていらした。

 そこであたしたちはその友達の親にかけあいにいくことになりました。

 ちょうど途中にあたしの家があったので、みんな焼いもなんか買って、家によって相談することにしました。

 ガヤガヤ話しているのを母は障子のかげで聞いていましたが、そのなかでひときわ目立つ野枝さんに眼をつけ、あんなしっかり者をうちの息子の嫁にしたいといったほどでした。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37)

 級長だった野枝の仕切りのよさが目立ったのだろう。

「惑ひ」によれば、野枝はだいぶすさんだ生活をしていたふうにとれるが、最高学年の級長としてやるべきことはやっていたようだ。

 井出文子は上野高女時代の野枝についてこう書いている。

 ともかく上野女学校のいきいきした下町娘気質のなかで、野暮な田舎娘の野枝は精一杯反応し、もちまえの強い性格で逆に友達に一目おかせている。

 これらの話から想像しても、上野女学校での教育が野枝の精神形成にあたえた影響ははかり知れないほどおおきかったとおもわれる。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p37~38)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』(大月書店・1971年8月20日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

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「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」21回 縁談

2025年5月7日 水曜日

文●ツルシカズヒコ

 級長になり、新聞部の部長を務め、谷先生の自死を知り、新任英語教師の辻の教養に瞠目した野枝の上野高女五年の一学期はあわただしく過ぎていったことだろう。

 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』によれば、野枝と同級の花沢かつゑは、野枝についてこんな回想もしている。

 花沢によれば、野枝は「ずいぶん高ビシャな人」だった。

 花沢が日番で教員室に日直簿を置きに行ったときだった。

 教員室にいた野枝は花沢にスッと近寄り、花沢が小脇にかかえていた本を「何読んでるの?」と抜き取り、パラパラ頁をめくり、「こんなの読んだら早いわね」と言った。

 花沢は小杉天外の『魔風恋風』(前編)を持っていた。

 女学校の高学年にもなって「すいぶん幼稚な本を読んでるのね、花沢さん」と、野枝は言いたかったのだろう。

 花沢に職員室で恥をかかせ、「紋付き事件」のリベンジをしたという、穿った見方もできるかもしれない。

 井出は花沢のことを「級では勢力もあり新入りの野枝をやや冷やかしの眼でみていたのだろう」(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』p36)と書いているが、花沢をボスとする七人組、なにするものぞという、気性の強い野枝の面目躍如たるエピソードである。

 井出の取材に花沢は五年級の「桜風会」(文化祭のようなもの)での野枝の詩の朗読のすばらしさや抜群の文才について言及し、その実力を認めているが、浅草で細紐テープを作る工場主の娘だった花沢ような東京の裕福な家庭の粋な下町娘からすれば、野枝は野暮ったい田舎娘でもあった。

 だいたい野枝さんはあまり綺麗ずきではなかった。

 髪は束髪にしていましたが、いつも遅れ毛がたれていて、なんだかシラミがいそうでした。

 それに半紙や鉛筆やパン代なんか友達からよく借りっぱなしでした。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p36)

「雑音」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p127)によれば、上野高女四年生のころ「根岸の叔父の家から上野の図書館に、夏休の間毎日のやうに通つた」という。

 野枝にとって身なりよりなにより、日本最大の図書館での知識の吸収が急務であったのであろう。

 一九一一(明治四十四)年の夏、七月ごろだろうか、上野根岸の代家の庭で撮影された野枝と代千代子といとこ、三人の娘の写真が矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p55)に掲載されている。

 いかにも盛夏らしい、浴衣を着た三人娘のバックは竹垣になっており、その向こうが村上浪六邸である。

 野枝は団扇を持っている。

 代準介夫妻と浴衣を着た三人娘は、両国川開きの花火見物に行ったのかもしれない。

「千代子は色白で、目は細長い糸目、頬は下ぶくれの大和なでしこ顔。ノエは逆に浅黒いが、目はくっきりとした二重で、黒目がちのはっきりとした顔である。負けん気の気性が眼光にほどばしっている」(『伊藤野枝と代準介』p62)という、野枝と千代子の特徴がよく表れている写真である。

 そのころ、野枝の縁談話が進行していた。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p63)によれば、相手は加布里(現・糸島市)の富農、末松鹿吉の息子・福太郎。

 代準介、野枝の父・伊藤亀吉、末松鹿吉の三人は幼なじみだった。

 代は千代子の縁談も進めていた。

 相手は今宿青木(現・福岡市西区)出身で、代が若き日に勤務していた九州鉄道株式会社の社員だった。

 千代子は一人娘だったので養子縁組とした。

 野枝もこの縁談に乗り気だったという。

 福太郎がアメリカ帰りで、再びアメリカに行くことになっていたからだ。

 この縁談に対する野枝の心境はいかなるものだったのか。

 おそらくその重要な手がかりとなる資料が、堀切利高によって発掘されている。

 堀切利高『野枝さんをさがして』(p67)によれば、堀切が西原和治著『新時代の女性』(郁文社・一九一六年九月))を長野県松本市内の古書店で偶然見つけたのは、二〇〇〇年十月だった。

『新時代の女性』の「はしがき」には「若い女性の手に成つた偽りなき文章と、それに対する著者の批評と、其の批評を補ふに足るべき著者の感想とを録したものであります」とあり、十九編の文章が収録されている(堀切利高『野枝さんをさがして』p71)。

 その十九編の一編が「閉ぢたる心ーー何故開けないのでせうーー著者より」という西原が書いた文章で、かつての教え子だった女性に「あなた」と話しかけるスタイルで書かれている。

 固有名詞は一切出てこないのだが、堀切は状況証拠から判断して、その女性が野枝であることはほぼ間違いないとしている。

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

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「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」20回 反面教師

2025年5月6日 火曜日

文●ツルシカズヒコ

 野枝が上野高女五年に進級した、一九一一(明治四十四)年の春。

 野枝が谷先生からの手紙に返信したのは四月末だったが、一週間が過ぎ、十日が過ぎても谷先生からの返事は来なかった。

 そして、とうとう五月の上旬のある朝、谷先生の友達から谷先生が自殺したという知らせを受け取った。

 谷先生は自宅の前の湯溜池で自殺を遂げたのだった。

 よくふたりで行った、あの思い出の溜池だった。

 野枝は何だか、当然のような気もすれば夢のような、嘘のような気もしながらホロホロ涙を落とした。

 あの長い最後の手紙は、野枝だけに宛てた谷先生の遺書だったのだ。

 暑中休暇に帰省した野枝は、生前、谷先生がいかに人望があり多くの人から尊敬されていたかという話を聞かされた。

 野枝はつくづく思った。

 その人望と尊敬が谷先生を殺したのだと。

 谷先生の自死に関して、周りはその理由をいろいろ取りざたした。

 家庭の問題、ラブ・アフェア、健康問題……。

 しかし、どれも根拠としては希薄だった。

 野枝は谷先生を追いつめた「実際の事柄」を知っていて、それは「ありふれた事柄」だと書いている。

 それを明らかにしたいが、関係者に対する谷先生の心遣いを尊重して、あからさまには言えないとしている。

 家庭問題でもなく恋愛問題でもなく健康問題でもないとすれば、谷先生が苦しめられたのは学校での教師間の人間関係以外に考えられないだろう。

 野枝は谷先生の自死に遭遇し、さまざまなことを考えたという。

 彼女の生涯は、まるで他人の意志ばかりで過ぎてしまひました。

 しかも、彼女はそれに苦しめられつゝ、とう/\最後まで自分を主張する事が出来ないでしまひました。

 そしてその最後の瞬間に、彼女はやつと自分に返りました。

 けれど、何と云ふ無意味な生涯だつたのでせう。

 自分に返つたと云つた処で、たゞ他人の意志を拒絶した丈けなのです。

 自分に返つたと思つた瞬間には、もう生命は絶へてゐたのです。
 
 彼女自身で云ふ通りに、私は彼女を臆病だとも、卑怯だとも、意久地(いくじ)なしだとも思ひます。

 けれど、世間の多くの人達の生活を見まはすとき、私は卑怯であつても、意久地なしでも、兎に角、彼女程本当に、生真面目に苦しんでゐる人が、どれ丈けあるだらうと考へますと、気弱ながらも、とう/\最後まで自分を誤魔化し得なかつた正直さに対しては尊敬しないではゐられないのであります。

(「背負ひ切れぬ重荷」/『婦人公論』1918年4月号・第3年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p40~41)

 注目すべきは、野枝が谷先生を題材にした原稿を四度も発表していることである。

「嘘言と云ふことに就いての追想」(『青鞜』一九一五年五月号・第五巻第五号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)、「背負ひ切れぬ重荷」、「遺書の一部より」(『青鞜』一九一四年十月号・第四巻第九号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)、そして「着せられた着物」である。

「着せられた着物」はAとBの対話形式でK先生について語り合っている。K先生は谷先生で、Aは野枝、Bは谷先生のことを知っている男性という設定である。

 A(野枝)は、こんな発言をしている。

 ……先生は、あたしに強くなれ強くなれつて云ひ通してゐたのよ。

 ……私は始めから出来る丈(だ)けわがまゝな、悪人になっておくんです。

 ……それが一番、自由な生き方ですよ、世の中には先生のやうに、いゝ子にされて縛(し)ばられて苦しんでゐ人がどんなにあるかしれませんね。

 でも出来る丈け自分を主張しないのはうそですよ。

 生命を与えられたからには出来る丈け生命を満足さすのが本当ですもの。

 私は何の為に生きてゐるんだか分らないやうなふやけた生き方はしたくないわ、先生なんて、何の為めに生きてゐるんだか分らないやうな生き方をして、まるで、生命を他人の為めにすりへらしてゐたから……その点から云へばあんな自分の生命を、そまつにした人はないでせうね。

(生命に)ねうちがあるとかないとか云ふ事は、自分で大事にするか、粗末にするか、どつちかで極まるんぢやありませんか……成るべく自分の生命は高く価値(ねうち)づける事ですよ。

(「着せられた着物」/『才媛文壇』1917年4月創刊号・第1巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』補遺_p483~487)

「遺書の一部より」と「着せられた着物」は、谷先生のことを知らない第三者が読んでもよくわからない内容である。

 野枝はわかる人にだけわかってもらえればよいとして、確信犯で書いたのだろう。

 いずれにしても、嫌なことでもたいがい時間がたてば忘れる気質の野枝が、四度も繰り返して原稿のネタにした谷先生。

 野枝にとって彼女とその自死は生涯忘れ去ることのできないことだったと思われる。

 つまり、野枝にとって谷先生は偉大な教師だったのである。

 人生の反面教師として。

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
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「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」19回 西洋乞食

2025年5月5日 月曜日

文●ツルシカズヒコ

 一九一一(明治四十四)年四月、新任の英語教師として上野高女に赴任した辻は、さっそく女生徒たちから「西洋乞食」というあだ名をつけられた。

 辻がふちがヒラヒラしたくたびれた中折帽子をかぶり、黒木綿繻子(くろもめんしゅす)の奇妙なガウンを来て学校に来たからである。

 辻は貧相な風貌だったが、授業では絶大な信用を博した。

「アルトで歌うようにその口からすべり出す外国語」。

 しかも、話題は教科書の枠をこえて文学、思想にひろがった。

 国木田独歩『武蔵野』バイロンの『恋愛詩』、本間久雄の文芸評論など、彼の話題はつきることがない。

 ことに東京下町に住んで若く世を去った樋口一葉の作品引用は毎度のことで、彼が片手をポケットに、片手を「三日月」といわれた長いあごにあて、「これは例の……」といいだすと、女生徒たちはいっせいに「一葉さんでしょう」と機先を制するのだった。

 辻は苦笑して、「じゃ……やめましょう」と頁をめくった。

 尺八やピアノをひいて各国の国歌をうたわせてくれるのも生徒に喜ばれた。

 辻は立派な教育者だった。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p44~45)

 辻が生徒の間で人気を博し始めたころのことを、野枝はこう書いている。

 ……その重味をもつた気持のいゝアルトで歌ふやうにその唇からすべり出す外国語はその発音に於てもすべての点で校長先生のそれよりもずつと洗練されてゐて、そして豊富なことを認め得た。

 それにまたその軽いとりつくろはぬ態度とユーモアを帯びた調子がすつかり皆を引きつけてしまつた。

 新任の先生の評判はいたる処でよかつた。

 その男に対する町子の注意はしばらくそれで進まなかつた。

 たゞ町子はそのころ学校で発行した謄写版刷の新聞を殆んど自分ひとりの手でやつた。

 それに先生は新しい詩や歌についての一寸した評論見たやうなものをくれたりした。

 それで可なりに男との間が接近して来た。

 それからまた暇さへあれば尺八の譜を抱へては音楽室に入つてピアノに向つてゐるのが一寸町子の注意を引いた。

(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p267~268/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p111)

 辻はこのころの野枝をこう記している。

 野枝さんは学生として模範的ぢやなかつた。

 だから成績も中位で、学校で教へることなどは全体頭から軽蔑してゐるらしかつた。

 それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかつたやうだつた。

 顔もたいして美人と云ふ方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚なく、女のみだしなみを人並以上に欠いてゐた彼女はどこからみても恋愛の相手には不向きだつた。

 僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持つてゐたN君と僕とはしかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服してゐたものであつた。
 
 若(も)し僕が野枝さんに惚れたとしたら彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであつた。

 恋愛は複雑微妙だから、それを方程式にして示すことは出来ないが、今考へると僕等のその時の恋愛は左程(さほど)ロマンティックなものでもなく、又純な自然なものでもなかつたやうだ。

 それどころではなく僕はその頃、Y――のある酒屋の娘さんに惚れてゐたのだ。

 そしてその娘さんも僕にかなり惚れてゐた、

 僕はその人に手紙を書くことをこよなき喜びとしてゐた。

 至極江戸の前女(ママ/江戸前の女)で、緋鹿(ひか)の子の手柄をかけていいわたに結つた、黒エリをかけた下町ッ子のチャキ/\だつた。

 鏡花の愛読者で、その人との恋の方が遙かにロマンティックなものなのだつた、この人の話をしてゐると、野枝さんの方が御留守になるから、残念ながら割愛して他日の機会に譲るが、兎に角、僕はその人とたしかに恋をしてゐたのだ。

 僕は野枝さんから惚れられてゐたと云つた方が適切だつたかも知れない。

 眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などと云ふものは兎角(とかく)、危険な境遇に置かれがちだ。

(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p5~6/『ですぺら』_p173~175/『辻潤全集 第一巻』)

「Y――のある酒屋の娘さん」について、野枝はこう書いている。

 おきんちやん――女の名――は吉原のある酒店の娘だ。

 町子のゐた学校の二年か三年までゐたのだ。

 調子のいい人なつこいやうな娘だつた。

 町子は四年からその学校に入つたのだからよくはしらなかつたけれど、後の二年の間におきんちやんはよく学校に来たので――それも町子の級にゐたとかで、調子よく話かけられたりして後にはかなりな処まで接近したのであつた。

(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p265~266/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p110)

「惑ひ」解題(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p401)によれば、おきんちやんは新吉原京町の酒屋の娘の御簾納(みその)キンがモデルで、御簾納は結婚後の姓である。

 このころの野枝について、以下、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』から抜粋引用。

 代はノエの根性を好もしく思っており、隣家の作家村上浪六に紹介する。

 村上も上京を薦めた張本人として目に掛ける。

 代は霊南坂の頭山邸にも、千代子はもちろんノエも娘同様に同道し紹介している。

 ノエは高等小学校卒ゆえに、人より二年遅れた英語力を、辻の力を借りて一気に取り戻そうとする。

 逆に辻は、学園新聞「謙愛タイムス」のノエの記事やエッセーを読み、その文才に瞠目する。

 辻はノエに特段目をかけるようになり、時流の小説や欧米の翻訳物も推薦し指南していく。

 千代子はお嬢様育ちでどこかおっとりしており、ノエに級長を奪われたことを意に介していない。

 根岸の家の二階の八畳に千代子、隣の六畳にノエ。

 襖一枚で仕切られており、境いの欄間から洩れる灯りは両人とも深夜まで及んだと聞く。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』p_61~62)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★辻潤『ですぺら』(新作社・1924年7月11日)

★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」18回 遺書

2025年5月4日 日曜日

文●ツルシカズヒコ

 一九一一(明治四十四)年四月末、下谷区下根岸の代家に野枝宛ての一通の分厚い手紙が届いた。

 この時、野枝は上野高女五年生である。

 差出人は周船寺(すせんじ)高等小学校の谷先生だった。

 それは長い長い手紙だった。

 書き出しはこうである。

 もう二ヶ月待てばあなたは帰つて来る。

 もう会えるのだと思つても私はその二ヶ月をどうしても待てない。

 私の力で及ぶ事ならばすぐにも呼びよせたい。

 行つて会ひたい。

 けれども、もう廿二年の間、私は何一つとして私の思つた通りになつたことは一つもない。

 私の短かい二十三年の生涯に一度として期待が満足に果たされたことはない。

(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p119)

 自分の細かい近況、野枝に会いたくてたまらないこと、仕事が本当につまらなくなったこと、先のことを考えると何もする気にもなれないことなど、自分の最近の感情を打ち明けたものだった。

 暑中休暇に福岡に帰省する野枝に会う楽しみが、駄目になるかもしれないという。

 ーーあと二、三か月もすれば会えるけれど、それまでとても待てそうもない。だから、野枝に会ったら話さなければならないと思っていたことをここに書きます。あなただけに話しておきたいことを書きますーー。

 そういう前置きで書いてあったことは、彼女のここ数年の「苦しみ」だった。

 それを読んだ野枝は理解に苦しんだ。

 なぜなら、谷先生は他人に誉められたり尊敬されたりすることに苦しんでいたからだ。

 谷先生は小さいころから他人の機嫌を損ねるようなことのない人だった。

 大人に誉められれば誉められるほど控えめで、大人はさらに感心したが、彼女はそれをうれしいと思ったことはなかった。

 苦しくなってきたのは、小学校の教師になったころからだった。

 子供のころは他人の意志を尊重していればよかったが、教師になると自分の意志で決定決断しなければならないことがあるからである。

 しかし、子供のころからの習慣で他人を不愉快にしたり、怒らせたりすることがいやで、ついつい自分を引っこめてしまう。

 だが、自分のやり方が正しいと思うのなら、反対されようと、自分の意志を貫くべきではないかという自責の念にもかられる。
 谷先生は基督教の説教を聴くようになった。

 他人に対する寛大さや、愛他的な気持ちや、犠牲行為は、彼女にとってなんでもないことだったので、立派な信者だと誉められた。

 しかし、彼女はもっと深い力強い何かを教えてほしかった。

 彼女の苦しみは深くなった。

 自分の意志を尊重すると、他人の意志と衝突し、すべての人を敵にするようなハメに陥ったからだ。

 谷先生は勇気を持って謀反を起こせばよいのだと思うが、誉められるのも嫌だが、憎まれるのも恐いから、それができない。

 自分の不徹底と卑怯を嘲り、憤り、悲しむ。

 そして死ぬよりほかに道はないと思うほど、卑怯物で悪者で浅ましい人間だという。
 一字一句も読み落とすまいとして、貪るように読み進んでいくうちに、野枝には何だかわからないような(悲しいような、恐いような気のする)ことが書いてあった。

 私は毎日教壇の上で教へてゐる時、又職員室で無駄口をきいてゐる時、私が今日死なう明日は死なうと思つてゐる心を見破る人は誰もない。

 恐らくは私の死骸が発見されるまでは誰も私の死なうとしてゐる事は知るまい、と思ひますと、何とも云へない気持になります。

「それが私のたつた一つの自由だ!」と心で叫びます。

 本当に私のこの場合ひにたつた一つたしかめ得たことは、人間が絶対無限の孤独であると云ふことです。

 私の死骸が発見された処で人々はその当座こそは何とかかとか云ふでせう。

 けれども時は刻一刻と歩みを進めます。

 二年の後、三年の後或は十年の後には誰一人口にする者はなくなるでせう。

 曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです。

 よりよく生きた処でわづかにタイムの長短の問題ぢやありませんか。

 人間の事業や言行など云ふものが何時まで伝はるでせう。

 大宇宙!

 運命!

(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p120~121)

 そして、野枝には強者として生きてほしいという切なるメッセージが連ねられていた。

 たゞ私は最後の願ひとして、私は本当に最後まで終(つい)に弱者として終りました。

 あなたは何にも拘束されない強者として活きて下さい。

 それ丈(だ)けがお願ひです。

 屈従と云ふことは、本当に自覚ある者のやることぢやありません。

 私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。

 忘れないで下さい。

(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p121~122)

 谷先生の長い長い手紙は、こう結ばれていた。

 よく今迄私を慰さめてくれましたね、本当に心からあなたにはお礼を申ます。

 随分苦しい思ひもさせました。

 すべて御許し下さい。

 混乱に混乱を重ねた私の頭です。

 不統一な位は許して下さい。

 ではもう止します。

 最後です。

 もう筆をとるのもこれつきりです。

 左様(さよう)なら。

 左様(さよう)なら。

 何時迄もこの筆を措(お)きたくないのですけれど御免なさいもう本当にこれで左様なら。

 (「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p122)

 不安になった野枝は大急ぎで返事を書いた。

 夢中になって長い返信を書いた。

 何を書いたか覚えてないほど興奮して書いた。

 自分が帰省するまでは、どんなことをしても無事でいてくれるようにと何度も何度も書いた。

 一九一一年四月末、谷先生からのこの手紙を受け取った野枝が、「遺書の一部より」と題して『青鞜』に掲載したのは一九一四年秋だった。

 さらに、野枝がこの手紙について言及した「背負ひ切れぬ重荷」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)が、『婦人公論』に掲載されたのは一九一八年の春である。

「曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです」と谷先生は書いたが、野枝が残した文章により、彼女の存在は永遠に記憶に留められることになった。

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」17回 謙愛タイムス

2025年5月3日 土曜日

文●ツルシカズヒコ

 一九一一(明治四十四)年一月十八日、大逆事件被告に判決が下った。

 被告二十六名のうち二十四人に死刑判決、うち十二名は翌日、無期懲役に減刑された。

 兵庫県立柏原(かいばら)中学三年生だった近藤憲二は、この判決を下校途中の柏原駅で手にした新聞の号外で知った。

 社会問題に無関心であった私は、そのなかに僧侶三人(内山愚堂高木顕明峰尾節堂)がいるのを見て、おやこんな中に坊主がいる、と思ったぐらいだ。

(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p158~159)

 大杉豊『日録・大杉栄伝』(p80)によれば、大杉と保子が、幸徳秋水や管野すが子ら死刑囚に面会に行ったのは一月二十一日だった。

 それが今生の別れになった。

 幸徳ら十一名の死刑が執行されたのは一月二十四日、管野の死刑執行は翌一月二十五日だった。

 二月一日、徳冨蘆花は第一高等学校の弁論部に招かれ、同校で「謀叛論」と題する講演をした。

 社会主義が何が恐い? 

 世界の何処にでもある。

 然るに狭量にして神経質な政府(註ーーもちろん山県に操られる桂内閣のことである)は、ひどく気にさへ出して、殊に社会主義者が日露戦争に非戦論を唱ふると俄に圧迫を強くし、足尾騒動から赤旗事件となつて、官権と社会主義は到頭(とうとう)犬猿の間となつて了つた。

 諸君、幸徳等は時の政府に謀反人と見做(みな)されて殺された。

 が、謀叛を恐れてはならぬ。

 謀叛人を恐れてはならぬ。

 自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。

 新しいものは常に謀叛である。

 我等は生きねばならぬ。

 生きる為に謀叛しなければならぬ。

(「謀叛論」/中野好夫『盧花徳冨健次郎 第三部』_p33~36)

 盧花はちょうどそのころ増築中だった新書斎に「秋水書院」と命名した。

「秋水書院」は現在、盧花恒春園に保存され、「謀叛論」の草稿も同園の盧花記念館に保存展示されている。

 三月二十四日、大杉は神楽坂倶楽部で開かれた第二回同志合同茶話会に堀保子と出席した。

 同志合同茶話会は、大逆事件後の「冬の時代」に運動再興の足がかりとするための集まりだった。

 以前に書かれた堺利彦、西川光二郎、幸徳秋水らの寄せ書きがあった。

 大杉は「春三月縊り残され花に舞ふ」と詠み、その寄せ書きに加筆した。

 四月、上野高女五年に進級した野枝は級長を務めた。

 西原担任の級の三年と四年の級長は野枝の従姉・代千代子だったが、代準介の自伝『牟田乃落穂』に「千代子、五年生となり級長を退きたり。これは野枝、反対の行動を執りたるに起因せるなり」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p59)とあり、五年の級長に千代子がなることに野枝が反対し、自分がやるという意思表示をしたようだ。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、野枝の言動を「千代子を立てる性格ではなかった。級長を奪い、千代子の鼻を明かす、自己顕示欲の強い娘だった」(p60)と指摘している。

 辻潤は神経衰弱を理由に浅草区の精華高等小学校を退職し、教頭の佐藤と西原の縁故で四月から上野高等女学校に英語教師として赴任した。

 野枝は辻の第一印象をこう書いている

 男が英語の教師として学校にはいつて来たのは、町子が五年になつたばかりの時だつた。

 四月の始めの入学式の時に、町子の腰掛けてゐる近くに腰掛けた、見なれぬ人が英語の教師だと、町子の後からさゝやかれた。

 一寸(ちよつと)特徴のある顔付きをしてゐるのが町子の注意を引いた。

 併しそのことには長く興味をもつてゐられなかつた。

 つい式のはじまる先に立つて彼女は受持教師から、在校生の代表者として新入の生徒たちに挨拶すべく命令されてゐたので困りきつてゐた。

 やがて落ちつかないうちに番がまはつてきたので仕方なしに立つて二言三言挨拶らしいことを云つて引つこんだ。

 続いて新任の挨拶の時に一寸変つた如何にも砕けた気どらない様子であつさりとした話し振りや教師らしい処などのちつともない可なりいゝ感がした。

 式が終つて町子たちのサアクルでは此度のその英語の教師についての噂で持ちきつてゐた。

『何だか変に年よりくさいやうな顔してるわね。若いんだか年寄りだか分らないわね』

『あれで英語の教授が出来るのかしら、矢張り校長先生に教はりたいわね、あの先生何んだかずいぶんバンカラねえ』

『だつてそれは教はつて見なくつちや分らないわ。そんなこと云つたつて校長先生よりうまいかもしれなくつてよ』

『アラだつて何んだか私まづさうな気がするわ、校長先生のリーデイングはすてきね、私ほんとに気に入つてゐるの』

『Oさんはね、それや校長先生よりいゝ先生はないんですもの、でも風采やなんかで軽蔑するもんぢやなくつてよ、教はつて見なくちや、』

 そうしたとりとめもないたわいのない会話が取りかはされてゐた。

(「惑ひ」/『青鞜』1914年4月号・第4巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p266~267/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p110~111)

「惑ひ」は創作のスタイルをとっているが、「町子」は野枝であり「男」は辻である。

「町子たちのサアクル」とは、校内新聞『謙愛タイムス』を作っている新聞部のことであろう。

 堀切利高『野枝さんをさがして』(p70)によれば、「謙愛」は教頭の佐藤とクラス担任の西原の師である新井奥邃の私塾「謙和舎」の「謙和」と響き合うという。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』に、一九一二(明治四十五)年に撮影した「謙愛タイムス新聞部」編集員の写真が載っている。

 編集員は六人で野枝はもちろん、代千代子の姿もある。

 部員の卒業記念写真と思われる。

 野枝と同級だった花沢かつゑは、『謙愛タイムス』と辻についてこう書いている。

 その頃生徒達の手で校内新聞を発行することになりました。

 ガリ版刷り藁半紙一枚の物でしたが、校内の連絡事項や生徒達の作品などの発表をするのが重な刷り物で、編集には野枝さんの実力が大いに発揮されたのだと思います。

 その新聞は「謙愛タイムス」と呼ばれ、当時の下級生でありました村上やす子さんと石橋ちよう子さんが、腰に鈴をつけチリンチリンと配って歩いて下さいました。

 その頃英語の先生に新任していらっしゃった辻潤先生が私達の前に現われました。

 いかにも江戸ッ子らしい磊落さと、先生というような堅苦しさのない新鮮な感じに受け取れましたので、たちまち子供っぽい女学生達の人気の的になってしまったのは当然でした。

 私達も大好きでした。

 新しい英語の教え方に、皆は酔ったように英語の時間が好きになりました。

 放課後になっても、生徒達は学校にいるのが楽しくて仕方がありませんでした。

 辻先生はよく音楽室へこられまして、ピアノを弾いて下さったり、英語の賛美歌などを教えて下さったり、いつか時のたつのも忘れて……。

(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★中野好夫『盧花徳冨健次郎 第三部』(筑摩書房・1974年9月18日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」16回 上野高女

2025年5月2日 金曜日

文●ツルシカズヒコ

 野枝が私立・上野高等女学校に在籍していたのは、一九一〇(明治四十三)年四月から一九一二(明治四十五)年三月である。

 当時の上野高女はどんな学校だったのか、そして野枝はどんな生徒だったのだろうか。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」に、野枝と同級生だったOGふたりの文章が載っている。

 一九六七(昭和四十二)年一月に発行された、「温旧会」という上野高女同窓会の冊子『残照』に掲載された寄稿を、一部省略して転載したものだ。

 一級が大体三十名位でしたから、第一回生の上級生から五回生迄全部で百五十名程でしたが、全校生が皆お友達で親しく勉強することができました。

 始業のベルが鳴れば皆別々の教室に行きますけれど、休み時間になれば皆仲良く狭い運動場で遊んでおりました。

 当時の校長先生は小林先生、教頭は佐藤先生、私達の五年生の時の担任は西原先生でした。

 ……中心は佐藤先生で、迫力に充ちた修身の時間は、おそらくあの鴬谷の上野高女に学んだ人達の心の底にしみ込んで、終生の心の指針となっている事と思います。

 五十数年経った今でも、折りにふれ時につれ思いだしては心の糧となっております……。

 野枝さんは素晴しく目のきれいな人で、いかにも筑紫乙女のそれらしく、重厚そのものといった感じの方で、又一面、粗野な感じの所もありましたが、何しろ文才にかけては抜群で、私共は足許へも及ばない程でした。

 又文字を書けばこれ又達筆で、一見女性の書いたものとも思われぬ程でしたので、或るお友達は野枝さんから手紙を貰った時、お母さまから男の人からの手紙と誤解されて困ったといっておられた事もありました。

 受持の西原先生は大いにその文才を認められ、何か特別に扱っていらっしゃったようでした。

 私共が、作文の時間に一生懸命貧弱な頭をしぼって考えたり書いたりしておりましても、いつも野枝さんは自分の好きな本を読んだりしていて、作文など提出した事がなくともいつも成績は優を頂いておられたとの事でした。

(花沢かつゑ「鶯谷の頃から」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)

 野枝のクラス担任は国語教師の西原和治だった。

 教頭の佐藤政次郎と西原は哲学館時代からの親友で、ふたりはキリスト教思想人として知られた新井奥邃(あらい・おうすい)の門下生だった。

 佐藤の推挙で西原が上野高女の教師になったのは一九〇八(明治四十一)年である。

 西原と辻潤は千代田尋常高等小学校時代の教員仲間だった。

 年齢は西原の方が辻より六、七歳上だったが、ふたりは親しく交わった。

 堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(P30~)によれば、西原は教職のかたわら、佐藤が創刊した基督教的信仰をベースにした教育雑誌の記者をやっていた。

 辻は西原を通じてその教育雑誌に翻訳や雑文を寄稿していた。

 辻が英語の教師として上野高女に赴任してくるのは一九一一年(明治四十四)年四月であるが、それは佐藤、西原との縁故があったからである。

 上野高女OGの竹下範子は、こう記している。

 お納戸色(なんどいろ)や紫、えび茶などのカシミヤの袴を胸高にはき、紫矢絣(むらさきやがすり)の着物に大きなリボンをかけたおさげ髪そして靴をはいた当時としてはとてもハイカラなスタイル、今、昔じょ女学生として芝居や映画に現われるその姿に、私は自分の若き日のおもかげを追っていい知れぬなつかしさを覚えるものである。

 そのころの校舎は学校というには、余りにも小さいなんの設備もない貧弱なものであった。

 二階建木造建築、職員室、その他音楽兼割烹室、お裁縫兼作法室といってもそれはただ普通の住宅をちょっと改造しただけ、運動場といえば百坪あるか無きかのせまいもの、そこで体操をしたり遊戯をしたり、放課時間鬼ごっこやらいろいろの遊びをして結構楽しく五年間をすごしたものだった。

 先生方も小林校長先生始め、佐藤先生・西原先生……。

 それから印象的なのは日下部書記さん。

 お式の日にはいつでも陸軍大尉の礼装で帽子に鳥の羽をつけ意気揚々と登校されるその姿、得意満面の顔が何かほほえましく……。

 鐘を鳴らす小使のおばさんもあの階段わきのせまい部屋から何か話しかけているのではないかしら。

 購売(ママ)部ともいうべき学用品やお弁当のパンを売るお店のおばさんもまた想い出の人。

 唐草縞の着物に黒繻子の衿をかけたちょっと小意気なおばさん。

 リーチ先生、それは今なおご健在で有名な世界的工芸家バーナード・リーチ氏その人である。

 先生ご夫妻は上野公園桜木町に瀟洒たる居を構えて当時の美術学校でエッチングの研究をされながら私達に英会話を教えて下さったのだ。

 私達のクラスにはまた、卒業後有名になった伊藤野枝さんがいた。

 字がうまく、文才があり、頭がよく、なんとなく異色的存在であった。

(竹下範子「おもいで」/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「月報2」)

 井出文子は「温旧会」のメンバーである花沢嘉津恵に会い、野枝について直接話を聞いている。

 花沢嘉津恵と花沢かつゑは、同一人物だと思われる。

 花沢(旧姓・中山)は、野枝の「紋付きの事件」が忘れられないと語っている。

 当時、学校で式があるときには、生徒は黒木綿の紋付きを着るのが定番だった。

 野枝は十一月三日の天長節に紋付きを着てこなかった。

 元旦の式には野枝はどうするのかというのが、花沢ら仲良し七人組の話題になった。

 野枝は元旦の式に黒紋付きを着てサッソーとやって来た。

 花沢たちはびっくりしたが、よく見ると着物の紋はまだ染めていない、真っ白なお月様のような紋だった。

 
 そのころ、安い紋付きは「石持ち」といって、紋のところだけ白ヌキしてある反物を買い、そこだけ自家の紋に染めさせたんです。

 もちろん、お金のあるひとはそんなのを買いやしません。

 白生地を染め屋にもっていき、紋とともに染めさせるんです。

 そこであたしはほんとうに口がわるくて、「万緑草中の紅一点じゃなくて、白三点ね」といって皆と笑いました。

 それから二月にはいると紀元節(二月十一日)がありますが、野枝さんの白三点はどうなるかがあたし達七人組の関心事でした。

 で、その日になるとどうでしょう。

 野枝さんのお月様のような紋には、自分で書いたらしい二本の線が、キッパリとはいっていたんですよ。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p35~36)

「いじらしいほど勝気な野枝、貧しい実家や親戚に世話になっているという劣等感を、精一杯はねかえしていたのだ」と井出は書いている。

 確かに野枝の勝ち気さが出ているエピソードだが、野枝は貧しいからそうしたのかどうか、私は疑問を抱いている。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、当時の代家はお金に困るような経済状況ではなかったという。

 代千代子は黒木綿の紋付きを着て式に参列していたであろう。

 野枝も叔父叔母に頼めば、黒木綿の紋付きぐらいあつらえてくれたのではないだろうか。

 野枝は形式を重んじる式自体がそもそも嫌いで、そのためにわざわざお金を出して黒木綿の紋付きをあつらえたりすることは、お金の無駄だと考えていたのではないだろうか。

 付和雷同を嫌う野枝の気質というか、反抗心の表れだったと見る視点もありだと思う。

 この「紋付きの事件」は、おそらく野枝が四年時の二学期から三学期にかけてのエピソードだろう。

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」15回 大逆事件

2025年5月1日 木曜日

文●ツルシカズヒコ

 野枝が上野高女に通学し始めた一九一〇(明治四十三)年春、ハレー彗星が地球に接近中だった。

 七十六年周期で出現するハレー彗星が、地球に最接近したのは五月十九日だった。

 ハレー彗星の尾には毒ガスが含まれているという風説が流れ「この世の終わりになる」のではという社会不安が広がったが、過ぎてみれば何も起こらなかった。

 そのころ禅の修業に励んでいた平塚らいてうは、湯島天神近くの待合で浅草の臨済宗系の禅寺・海禅寺の住職・中原秀岳と結ばれた。

 らいてう、二十四歳である。

 ……未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。

 連れだって待合へ出掛けたことをはじめとして、その後のことはすべて自分の意志によることでした。

 ただ和尚に対する愛が、わたくしにそうしたことをさせたといっては、すこし嘘になるかもしれません。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』_p285)

 らいてうがこの初体験の三年前に「はじめての接吻」をした相手も中原秀岳だった。

 海禅寺で坐禅の修行を終えたらいてうが「まだ雲水のような純真な感じのこの青年僧に、不意に、なんのためらいもなく接吻をしてしまったのです」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』_p207)とあり、らいてうが突然、中原に接吻をしたのである。

 らいてうは本郷区の誠之小学校高等科二年を終えると、東京女子高等師範学校付属高等女学校(通称お茶の水高女)に入学、同校卒業後は日本女子大学家政科に進学した。

 らいてうは日本女子大在学中に禅の修行に励み、中原秀岳を識ったのも禅の修行を通じてだった。

 日本女子大卒業後、らいてうは成美女子英語学校などに通っていたが、同校講師の生田長江の肝入りで閨秀(けいしゅう)文学会が生まれ、その聴講生になった。

 青山菊栄も聴講生のひとりだった。

 一九〇八(明治四十一)年三月、らいてうは森田草平と那須塩原で心中未遂事件(塩原事件・煤煙事件)を起こすが、森田は閨秀文学会の講師だった。

 新聞はこの事件をスキャンダラスに取り上げ、『万朝報』が報じた「禅学令嬢」が人口に膾炙した。

 堀場清子『青鞜の時代』(p30)によれば、一番えげつない新聞記事は『東京朝日新聞』(一九〇八年三月二十八日)のコラム「六面観」で「あンな女は大久保村にやって乞食の手に抱きつかせるに限るよ」と書いた。

 日本女子大の「桜楓会」は、らいてうを除名した。

 堀場清子『青鞜の時代』が出版されたのは一九八八(昭和六十三)年三月だったが、らいてうの「桜楓会」からの除名は、この時点でも解除されていなかった。

 しかし私は、むしろ回復せぬままがよいと思う。

 女子高等教育に対する世間の敵意と攻撃を、除名の事実の継続によって、永遠に記憶すべきではなかろうか。

(堀場清子『青鞜の時代』_p30)

 しかし、堀場の願い虚しく、らいてうの「桜楓会」除名が解除されたのは、一九九二(平成四)年だった(wiki/平塚らいてう)。

 日本女子大卒というらいてうの学籍は生きていたが、「桜楓会」が彼女をOGとして受け入れるには八十四年の時を要したのであり、その間の「桜楓会」除名の事実も記さねばなるまい。

 現在、「桜楓会」HPの「卒業生の活動」には「平塚らいてう(3回生家政学部)『青鞜』を発刊、女性解放運動の先駆者」とある。

 ハレー彗星が地球に最接近してまもなく、宮下太吉新村忠雄らが検挙された。

 幸徳秋水管野スガらが検挙されたのは六月一日だった。

 大逆事件の検挙・逮捕が始まっていた。

 大杉栄は幸徳や管野らの検挙を千葉監獄の中で知った。

 大杉は新潟県の新発田本村尋常小学、新発田高等小学校を経て、北蒲原尋常中学校(現・新発田高校)に入学、同校を二年で修了し、名古屋陸軍地方幼年学校に入学。

 同級生と格闘をする暴力事件を起こし、名古屋陸軍地方幼年学校を三年途中で中退した大杉は、いったん郷里の新発田に帰郷。

 一九〇二(明治三十五)年に上京し、順天中学に入学した。

 順天中学入学の年、大杉の母・豊が卵巣膿嚢腫で急逝した。

 一九〇三(明治三十六)年九月、東京外国語学校仏語科に入学した大杉は、幸徳秋水、堺利彦らが結成した平民社の活動に関わるようになった。

 一九〇五(明治三十八)年の夏、東京外国語学校を卒業した大杉は、大杉豊『日録・大杉栄伝』(p32)によれば、そのころ「麹町区下六番町二十七番地(現在の番町小学校敷地内)」に住んでいた。

 大杉は「其頃僕は僕よりも二十歳ばかり上の或る女と一緒に下六番町に住んでゐたのだ」(「自叙伝」p)と書いているが、荒畑寒村はこう回想している。

 大杉は外語に通っていたころ、下宿のおかみさんといい仲になってたんです。

 そのうち、おかみが年上なもんだからいや気がさして別れたくなった。

 それで、堀保子を介して、おかみと手を切ってもらったんです。

(『朝日ジャーナル』○年○月○日号〜○年○月○日号連載/『寒村茶話』/『寒村茶話 朝日選書137』_p113)

 一九〇六(明治三十九)年の春、寒村は紀州田辺を引き払って堺利彦の家に寄寓し始めたが、そのころ堺家には堀保子(〜一九二四)、深尾韶(ふかお・しょう)、大杉も寄寓していた。

 保子は、硯友社同人で読売新聞などの記者をした堀紫山の妹であり、二年前に死別した堺の先妻・美知は保子の実姉だった。

 一九〇五(明治三十八)年、堺は延岡為子と再婚。

 山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫_p227)によれば、保子は堺が創刊した『家庭雑誌』の経営実務を担当していた小林助市と結婚したが、離婚した。

 大杉と保子が結婚したのは、一九〇六(明治三十九)年八月である。

 下宿のおかみと手を切る際に仲介役を務めた保子に、大杉が惚れて結婚を迫ったという。

 ところが、保子女史は深尾と婚約してるもんだから、なかなかウンと言わない。

 とうとう大杉はある晩、保子女史の目の前で自分の着ている浴衣に火をつけて、「さあどうだ」って迫ったといいます。

 さすがの保子女史もこれには参って、つい落ちちゃったというので、これこそ文字通りの「熱い恋」だなんて、みんなでしゃれを言ったもんですよ。

(『寒村茶話 朝日選書137』_p113)

 結婚といっても入籍はせず、夫婦別姓、保子の方が六、七歳年上の姉さん女房である。

 大杉は一九〇八(明治四十一)年六月、神田の錦旗館で開かれた山口孤剣の出獄歓迎会散会後、赤旗を振り回し(赤旗事件)、堺利彦、山川均、荒畑寒村、村木源次郎らとともに逮捕され千葉監獄に下獄、重禁錮二年六か月の刑に服していた。

 赤旗事件での入獄は大杉にとって四度目の入獄であり、父・東(あずま)の病死(一九〇九年十一月)を知ったのも千葉監獄入獄中だった。

 幸徳らが拘引された事件との関連の取り調べのために、大杉が千葉監獄から市ヶ谷の東京監獄に移されたのは、一九一〇年九月だった。

 大杉は東京監獄から妻・堀保子に宛て手紙を書いた。

 ことしは初夏以来雨ばかり降り続く妙な気候なので、内外にゐる日向ぼつこ連の健康が甚だ気づかはれる。

(獄中消息・千葉から【堀保子宛・明治四十三年十月十四日】/『大杉栄全集 第四巻』_p489)

 この年の八月、利根川・荒川・多摩川水系の氾濫により、関東平野は一面の水浸しになった。

 この「明治四十三年の大水害」により、東京市も下町一帯がしばらくの間、冠水した。

 不安な日を送りながら東京監獄に移監された大杉は、大逆事件の被告のほとんどを目撃した。

 丁度僕の室は湯へ行く出入口のすぐそばで、其の入口から湯殿まで行く十数間のそと廊下をすぐ眼の前に控へてゐた。

 で、すきさへあれば、窓から其の廊下を注意してゐた。

 皆んな深いあみ笠をかぶつてゐるのだが、知つてゐるものは風恰好でも知れるし、知らないものでも其の警戒の特に厳重なのでそれと察しがつく。

 或日幸徳の通るのを見た。

『おい、秋水! 秋水!』

 と二三度声をかけて見たが、さう大きな声を出す訳にも行かず、(何んと云ふ馬鹿な遠慮をしたものだらうと今では後悔してゐる)それに幸徳は少々つんぼなので、知らん顔をして行つて了つた。

(「前科者の前科話(二)」・『新小説』1919年2月号/「獄中記・千葉の巻」・『大杉栄全集 第三巻』_p316/『大杉栄全集 第13巻』)

 大杉が危うく難を逃れ、刑期を終えて東京監獄から出獄したのは十一月の末だった。

※堺利彦「赤旗事件の回顧」 ※森田草平記念館

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(上巻)』(大月書店・1971年8月20日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)

★荒畑寒村『寒村茶話』(朝日新聞社・1976年8月25日)

★荒畑寒村『寒村茶話 朝日選書137』(朝日新聞社・1979年6月20日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第13巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」14回 編入試験

2025年4月30日 水曜日

文●ツルシカズヒコ

 一九一〇(明治四十三)年一月、前年暮れに上京した野枝の猛勉強が始まった。

 代準介は野枝を上野高女の三年に編入させるつもりだったが、野枝は経済的負担をかけたくないことを理由に、飛び級して四年に編入するといってきかなかった。

 代家は経済的に逼迫などはなく、どちらかといえば裕福で、そんな気遣いはいらぬ所帯である。

 ノエは学資の負担を建前とし、従姉千代子と同じ四年生に拘り、その意思を曲げなかった。

 ノエの心の中に、千代子への敵愾心が燃えていた。

 ノエの高等小学校の成績は確かにほとんど甲である。

 されども女学校と違い、高等小学校教育には英語が無い。

 数学も、算術である。

 ノエは加減乗除しか知らない。

 編入試験まで二ヶ月強、千代子の一~三年の教科書を借り、英語と数学は千代子を教師として学ぶ。

 まずアルファベットを覚える。

 初歩の英文法を習い、単語と常用の熟語を覚えていく。

 数学は因数分解から入り、定理を習い、代数を解いていく。

 キチの記憶によれば、「二日徹夜をし、三日目に少し眠る」。

 そんな猛勉強を続け、千代子もそれに付き合っている。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p58)

 野枝の猛勉強ぶりを、岩崎呉夫はこう書いている。

「三日間も徹夜して一晩寝るとケロッとして、また二、三日も徹夜するのですからねえ」と、キチさんは述懐している。

「見ていて恐いぐらいの勉強ぶりでしたよ」

 ーーこの期間に、野枝はひどい近眼になった。

(もっとも眼鏡は、その後ときおりかける程度だったが)

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p67) 

 三月、野枝は上野高女四年編入試験に一番で合格した。

 四年編入に拘った野枝に「試験に落ちたら、すぐ田舎へ帰れ」と怒鳴った代準介は、呆れ顔でしばらく野枝の顔を見つめていたが、「おまえが男ならな……」と呟いた(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』p67)。

 堀切利高(一九二四〜二〇一二)編著『野枝さんをさがして』によれば、私立上野高等女学校は、一九〇五(明治三十八)年四月、五年制の上野女学校として、下谷区上野桜木町二番地(現・台東区根岸二丁目)に開校した。

 現在のJR鴬谷駅のそば、鴬谷の新坂を登った高台にあり、当初は鶯渓(おうけい)女学校と称したという。

 一九〇八(明治四十一)年に上野高等女学校となった。

 一九一二年に浅草区神吉町(現・台東区東上野四丁目)に移転、現在は中学・高校・短大・大学を含めた上野学園となっている。

 野枝が四年に編入学した当事の上野高女は一年から五年まで各学年約三十人、全校生徒数約百五十人、その多くは下町の娘たちであった。

 教育方針は教頭・佐藤政次郎(まさじろう/一八七六〜一九五六年)を中心に、良妻賢母を排し、教育の目標として四つの教育綱領を掲げていた。

 一、相愛共謙師弟友朋一家和楽の風をなすこと

 一、教育は自治を方針とし各自責任を以て行動せしむること

 一、つとめて労作の風を喚起し応用躬行せしむること

 一、華を去つて実に就き虚栄空名を離れて実学を積ましむること

(堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』_p69)

 井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p34~35)によれば、井出は野枝と上野高女で同級生だったOGに取材している。

 上野高女のカリキュラムは、だいたい文部省の方針に沿い、英語、数学、国語、漢文、倫理、作法、家事。

 教頭・佐藤政次郎が担任していた倫理の時間には『レ・ミゼラブル』や『小公女』の紹介、神崎与五郎の物語などが話され、時間のたつのを忘れさせるおもしろさだったと、OGたちは語っている。

「観察」と称して上野美術館、衛生試験場、淀橋の浄水場、三木長屋といわれる江東のスラム街の見学もあった。

 下谷、根岸、入谷、龍泉寺、吉原あたりの商家、問屋、小企業の町工場の娘たちが多く、みずみずしい桃割れ髪の娘たちが登下校し、学校の帰りに汁粉屋に寄るといった雰囲気があった。

 野枝が上野高女に入学した一九一〇年四月、神近市子も女子英学塾に入学した。

 前年、神近は長崎の活水女学校中等科を三年で中退し上京、麹町区にあった竹久夢二宅に寄宿しながら猛勉強をして、女子英学塾を受験し合格した。

 女子英学塾には神近の一学年上に青山菊栄が在籍していた。

 このころ、辻潤は浅草区の精華高等小学校の教員をしていた。

 辻は浅草区猿尾町の育英小学校高等科を卒業、神田区淡路町の府立開成尋常中学校に入学、同校中退後は神田区錦町の正則国民英学会で英語を学んだ。

 日本橋区の千代田尋常高等小学校の教員を経て、辻が精華高等小学校で教鞭をとるようになったのは一九〇八(明治四十一)からだった。

 野枝が上野高女編入の受験勉強に励んでいた二月、辻は父・六次郎を亡くした。

 六次郎は六年ぐらい前から心臓を患い、精神も病んでいた。

 六次郎の死は、井戸で自殺したとも伝えられている。

 辻はそのころ北豊島郡巣鴨町上駒込四一一の借家に住んでいた。

 この家に母と妹と三人で暮らした時代が最も平穏で幸福な時代であったと、辻は随筆「書斎」(『辻潤全集 二巻』_p158)で回想している。

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『辻潤全集 二巻』(五月書房・1982年6月15日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」13回 伸びる木

2025年4月29日 火曜日

文●ツルシカズヒコ

 野枝はこの閉塞状況を突破するために、叔父・代準介に手紙を書いた。

 自分も千代子のように東京の女学校に通わせてほしいという懇願の手紙である。

 それは自分の向上心、向学心、孝行心を全力でアピールする渾身の毛筆の手紙だった。

 三日に一通ぐらいのわりで、しかも毎回五枚十枚と書きつらねてある。

 キチさんの話では、とにかく「よくもまあ倦きもせんものだと思うぐらい『東京で勉強すれば私はきっと叔父さんや両親に御恩がえしできるだけの人物になれる。なんとかしてもらえないか』と自信満々に訴えてきましてね」

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p65)

 野枝が書いた手紙は残っていないが、次のような内容だった。

 私(ノエ)は、叔父叔母を実の父、実の母と思っています。

 「千代子姉も実の姉と思っています。

 私はもっと自分を試してみたいのです。

 もっともっと勉強してみたいのです。

 できれば学問で身を立てたいとも思っています。

 一生を今宿の田舎で終わるかもしれませんが、その前にせめて東京をしっかりこの目で見てみたいと思っています。

 大きくなったら、必ず孝行をさせて頂きますので、どうぞ私を上野高女にやってください。

 ご恩は必ずお返し致しますので」

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p54)

 下谷区下根岸の代一家の借家の隣りには、大衆小説家の村上浪六が住んでいた。

 一八九一(明治二十四)年、小説『三日月』でデビューした浪六は一躍人気作家となり、大衆小説家として不動の地位を占めていた。

 浪六の小説は江戸時代の町奴(都市に住む無頼者)を主人公にした作品が多く、彼らの頭髪が三味線の撥(ばち)の形に剃った髪型だったので、浪六の小説は「撥鬢(ばちびん)小説」として親しまれた。

 代準介は村上浪六との親交が始まった経緯を自伝『牟田乃落穂』に書き残している。

 夕刻、縁先にて食事をなすに、何時も赤毛の小犬来りて馴れ親しみければ、紙片に「この犬はどちらの犬ですか、名は何と申しますか」と書いて首輪に結びつけたり。

 犬は戻って、また現れた。

 首に新たな紙片を付けている。

「村上の犬です。御贔屓に願います」

 とある。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p50)

 当事の東京下町のゆったりした時間の流れと、人間関係の大らかさが感じられるエピソードである。

 村上浪六の三男で女性史や服装史の研究家である村上信彦によれば、文学的文壇的評価はともかく、当時の浪六の原稿料の高さは他の追随を許さなかったという。

 ……「三日月」を春陽堂から出版したときの契約は「當時の最高原稿料の三倍」だった。

 明治三十三年に『大阪朝日新聞』に書いた「伊達振子」は、尾崎紅葉の新聞小説が一回二圓、流行作家の江見水蔭が八十錢だったのにたいし、一回四圓であった。

 また昭和に入って講談社の雑誌に書きまくったときの稿料も菊池寛以下では應じなかったとのことである。

(村上信彦「虚像と實像・村上浪六」/『思想の科学』・1959年第10号/『明治文学全集89』_p408)

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、犬がきっかけで始まった代準介と村上浪六との親交は深まり、代は霊南坂に住む頭山満を浪六に紹介したりもしている。

 代準介は哀願の中に矜持のある野枝の手紙を、浪六に見せて相談をした。

 男文の達筆で文章もしっかりしている野枝の手紙を読んだ浪六は、野枝の望みをかなえてあげるべきだと助言した。

 代キチは野枝の気性の激しさや利かぬ気を知って、諸手を挙げなかったが、準介は決断した。

「伸びる木を根本から伐れるもんか」

 伊藤博文がハルビン駅で韓国の民族運動家・安重根によって射殺されたのは、一九〇九(明治四十二)年十月二十六日であった。

 野枝の上京が決まったのは、ちょうどそのころと思われる。

 野枝は今宿の谷郵便局を辞め、この年の暮れに上京、下根岸の代家に寄宿し、女学校編入学のための猛勉強を開始した。

 野枝の妹・ツタは福岡市内に女中奉公に出て、給金一円五十銭のうち一円を今宿の母に送ることにした。

 上京した野枝はおそらく代準介に連れられ、浪六の元に挨拶に行ったことだろう。

 このとき、村上家には生後九か月の男の赤ちゃんがいたはずだ。

 村上信彦である。

 ちなみに浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯、山口二矢は村上浪六の孫(浪六の三女の次男)であり、村上信彦は山口二矢の伯父にあたる。

 ともかく、貧しい瓦職人の娘ゆえに、地元の女学校に入ることすら諦めざるを得なかった野枝だったが、人生で最初に遭遇した難関を自力で突破、運命を切り拓いた。

 ……このときはっきり心に決めたにちがいない。

 東京に行こう。

 そして女学校に入ろう。

 勉強してひとかどの人間になりたい。

 わたしはきっとなれる、と。

 すでに長崎で都会生活を経験していた野枝は、都会こそ立身出世や栄光をもたらすところだと知っていた。

 野枝の計算は的確だった。

 叔父代準介は、東京…に家をかまえ、職工を六人つかって町工場を営んでいた。

 一種の侠気のある彼は、しばしば苦学生(当時自分で学費をかせいでいた学生)をおいていたので、野枝はそれに眼をつけたのである。

 野枝は目標にむかって肉薄した。

 ……彼女のぶ厚い手紙が、三日に一通の割で東京の代家に届けられた。

 そこにはおしつけがましい熱心さで、東京で勉強しさえすれば……きっと将来叔父さんや両親に恩返しができる、どうか援助して女学校に行かせてほしいという主張がめんめんと書かれていた。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p31~32)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『明治文学全集89』(筑摩書房・1976年1月30日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」12回 東の渚

2025年4月28日 月曜日

文●ツルシカズヒコ

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、一九〇八(明治四十一)年暮れに代準介が一家を連れて上京したのは、セルロイド加工の会社を興すためだった。

 長崎の代商店の経営は支配人に任せての上京である。

 この分野では日本でも相当に早い起業であり、頭山満の右腕であり玄洋社の金庫番、杉山茂丸あたりのアドバイスがあったらしい。

 代準介は杉山とも昵懇だった。

 代キチは「とにかく頭山先生と玄洋社の加勢をしたかったようで、女の私にはよく分からない」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p46)と発言している

 代一家は下谷区下根岸(現・台東区根岸四、五丁目)の借家に入居した。

 家賃は月三十円。

 敷地は広く、前庭・中庭・後庭があり、母屋は二階建てで、職人七人を雇って離れでセルロイド加工を始めた。

 千代子は上野高女二年の三学期に編入学した。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p47)によれば「上野高女は下町の町娘の多い学校で、英語力等は土地柄もあり、長崎の方がレベルが高かったかもしれない」。

 一九〇九(明治四十二)年の四月、野枝は今宿の谷郵便局の事務員になり職業婦人として働き始めていたが、その年の夏、千代子の夏期休暇中に代一家が東京土産を携えて今宿に帰省した。

国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、当時の東京市の人口は二百万を超えていた。

 花の東京話も土産になったことだろう。

 この年の五月に東京・両国国技館竣工、六月二日に相撲の常設館として開館した。

 頭山満が師と仰いでいた板垣退助は好角家として知られていたが、代準介も好角家だった。

 頭山満の紹介で代準介は板垣退助の知遇を得ていた。

 夏目漱石も見に行ったという、国技館のこけら落とし興行を板垣、頭山、代の三人は桟敷で観覧したかもしれない。

 そうだとしたら、代準介は土産話として話題にしたことだろう。

 この年は「ハイカラソング」が流行った年でもあった。

 ゴールド眼鏡の ハイカラは 
 
 都の西の 目白台
 
 女子大学の 女学生
 
 片手にバイロン ゲーテの詩
 
 口には唱える 自然主義
 
 早稲田の稲穂が サーラサラ
 
 魔風恋風 そよそよと

 自転車で颯爽と通学する女学生と東大生の恋愛を描いた、小杉天外の長編青春小説『魔風恋風』は、一九〇三(明治三十六)年に『読売新聞』で連載され大ヒットした。

 高等女学校令が公布施行されたのは一八九九(明治三十二)年だったが、二十世紀初頭、明治のハイカラを象徴するのが女学生だった。

 代準介がもし相撲の話をしていたら、野枝はそれをお愛想の相づちを打ちながら、シラーっとして聞いていただろう。

 それよりも、目の前にいる従姉の千代子がまぶしかっにちがいない。

 千代子は現役の東京の女学生なのである。

 三年に進級した千代子は級長をしていた。

 それに比べて、自分は田舎の郵便局の……。

 私(ノエ)も千代子と同じく東京で級長を張るくらいの力はある。

 東京へ行きたい、長崎や福岡より何十倍もの都会の東京で自分を試してみたい。

 この村で終わりたくない。

 自尊心と、功名心と、千代子へのライバル心がノエを動かし始める。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p53)

 代一家が東京に戻った後、野枝は暗い日々を送っていた。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝が郵便局の勤め帰りに今津湾をひとり悄然と見つめながら、そのころの心情を書いたと推測されるのが「東の渚」という詩である。

 野枝の『青鞜』デビュー作であり、野枝が残した唯一の詩だ。

 
 東の磯の離れ岩、

 その褐色の岩の背に、

 今日もとまつたケエツブロウよ、

 何故にお前はそのやうに

 かなしい声してお泣きやる。

(略)

 私の可愛いゝケエツブロウよ、

 お前が去らぬで私もゆかぬ

 お前の心は私の心

 私も矢張り泣いてゐる、

 お前と一しよに此処にゐる。

 ねえケエツブロウやいつその事に

 死んでおしまひ! その岩の上でーー

 お前が死ねば私も死ぬよ

 どうせ死ぬならケエツブロウよ

 かなしお前とあの渦巻へーー

 ーー東の磯の渚にて、一〇、三ーー

「東の渚」/『青鞜』1912年11月号・第2巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p9~10)

 ケエツブロウとはカンムリカイツブリの博多地方の呼び名で、日本には冬季に冬鳥として飛来する。

 群れず一羽でいることが多い。

 どんどん従姉の千代子に遅れていく。

 こんな海辺の田舎で終わってしまうのか。

 どうしてこんな境遇に生まれ落ちたのか、このままで終わる一生なら生きていても意味は無い、ケエツブロウよ一緒に死のうと詠っている。

 夕刻の今津湾を見つめながら、能力のある子が自分の能力を活かしきれないことに地団駄を踏んでいる。

 私(ノエ)も千代子と同じく東京で級長を張るくらいの力はある。

 東京へ行きたい、長崎や博多より何十倍も都会の東京で自分を試してみたい。

 この村で終わりたくない。

 自尊心と、功名心と、千代子へのライバル心がノエを動かし始める。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p52~53)

 野枝の死後、「大杉夫妻の葬儀」を報じた『福岡日日新聞』の記事の中で、野枝が「十四五歳の時作つた歌」が二首紹介されている。

 死なばみな一切の事のがれ得ていかによからん等とふと云ふ

 みすぎとはかなしからずやあはれ/\女の声のほそかりしかな

(『福岡日日新聞』1923年10月17日・三面/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』資料篇_p436)

 
 会葬者の目を惹いたというこの歌も、野枝が今宿の谷郵便局に勤めていたころの作かもしれない。

 田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』によれば、野枝の死後、野枝の地元『糸島新聞』(一九二三年十月二十四日・一面)にも「野枝の和歌/小学校時代」の見出しの記事が掲載され、葬儀で周船寺高等小学校時代の歌稿六十余首が紹介されたという。

『糸島新聞』は『福岡日日新聞』が紹介している二首ではなく、別の九首を掲載している。

 群衆にまじりて聞きし一節の女の声の頭にしみぬ

 日は沈む浮かびし儘の賛美歌を只訳もなく歌ひてあれば

 鏡とりて淋しや一人今日もまた思ひに倦みて顔うつし見る

 鏡見ればつめたき涙伝ひたる後のしらじら光る淋しさ

 頬を伝ふ涙つめたし橋に立てば杉の梢に夕陽の入る

 雨の日は苦しき心しかと抱きかすけき強き音に聞き入る

 夕雲よ白帆よ海よ白鳥よあゝ日は沈むさびしき思ひ出

 赤き頬かゞやく瞳思ひ出づ火鉢に凭(もた)れ机に凭れば

 なべて皆瞳にうつるもの悲し梅の蕾の仄白き夕

(田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』_p123)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」11回 湯溜池

2025年4月27日 日曜日

文●ツルシカズヒコ

 一九〇九(明治四十二)年、周船寺高等小学校四年在学中の野枝は三月の卒業が間近になっていたが、野枝とクラス担任の谷先生との親交は深くなっていった。

 野枝は十四歳、谷先生は二十歳だったが、ふたりの親交は年齢差や教師と生徒という関係を超えたものになった。

 我がままで強情で小さな反抗心に満ちた不遜な生徒だった野枝は、多くの教師たちから愛想をつかされ憎まれていた。

 強情で不遜な生徒である野枝に対する非難は、受持教師である谷先生に集中した。

 職員室で不良生徒として野枝の名前が出るたびに、谷先生は辛そうに頭を下げていたが、彼女は野枝に訓戒がましいことを言ったことは一度もなかった。

 谷先生はいつも何か考えごとをしていた。

 授業中に生徒の机の周りを歩きながら、目にいっぱい涙をため、何か考えごとをしているようなこともしばしばあった。

 基督教の信仰に救いを求めたこともあったが、それも彼女を捉えることはできなかった。

 谷先生の自宅の前には溜池があり、その溜池は周囲が山になっている高台にあった。

 私は学校の帰りに、よく彼女に連れられて、其処にゆきました。

 堤に座つては、私達はよく歌ひました。

 彼女は私にいろいろ自分の好きな賛美歌などを歌はせては、黙つて何か考へながら、遠くの方を見てゐました。

『ね、本当に立派な人つて、どんな人だとあなたは思ひます?』
 
 不意に彼女は、こんな事を問ひかけて、私を困らすことが、時々ありました。

『他人から賞められる人が本当に立派な人だとは限りませんよ。賞められなくつてもいゝから本当に立派な人になつて頂戴。決して世間の人から賞められやうなんて思つちやいけませんよ。』

 本当に、染々(しみじみ)と、私の顔を見ながら、涙をためて云ひ聞かされた事が、二三度や四五度ではきゝません。

 もし私が彼女から先生らしい言葉を受け取つたとすれば、その言葉位のものだと思ひます。

『あなたは、随分強情つぱりで、強いくせに、私と一緒のときには、どうしてそんなにをとなしいの。いけませんよ、私を見習つちや。私と一緒にゐるときには、他のときよりは倍も倍も強情を張つていゝのよ、我まゝになる方がいゝのよ、私の真似なんかしては本当にいやですよ。私は弱虫で泣き虫で、意気地なしなのよ、私のやうに弱虫になつたら生きては行けなくなりますよ。』

 思ひがけない熱心さで、よくそんなことも云つてゐました。

(「背負ひ切れぬ重荷」/『婦人公論』1918年4月号・第3巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p36)

 
 谷先生と野枝がよく足を運んだ溜池は、湯溜池(現・福岡市西区周船寺)だと思われる。

 野枝が周船寺高等小学校を卒業した後も、野枝と谷先生の親交は続いた。

 しかし、野枝が女学校五年生の春に起きたある出来事によって、野枝と谷先生との交流はあっけなく終わりを迎えることになるのだった……。

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』には、この時期の野枝についての同級生の証言がある。

 授業中、野枝は「机の下に文学書を隠して読み耽り、教師にさされるとスラスラ答えるので級友たちはみな驚いた」(p64)という。

「あの先生ね『良人の告白』の主人公の白井さんによう似とらっしゃる」(p64)という野枝の発言も、級友たちの記憶に残っていた。

『良人の告白』は一九〇四(明治三十七)年から一九〇五(明治三十八)年にかけて、『東京毎日新聞』に断続的に連載された木下尚江の自伝的長編小説であり、若き弁護士・白井俊三が主人公である。

 男女の愛憎小説として大衆の人気を獲得したが、日露戦争への非戦というオピニオンを含んだ小説でもあった。

 単行本は上編、中編、下編、続編と発売されたが、一九一〇(明治四十三)年に発禁になった。

 岩崎呉夫は、野枝が白井俊三に似ているという「あの先生」に淡い初恋をしたのではないか、その先生はテニスやオルガンを教えてくれた先生ではないかとの推測をしている。

 とすれば「あの先生」は「嘘言と云ふことに就いての追想」に出てくる、H先生ということになるが……。

  一九〇九(明治四十二)年三月二十五日、野枝は周船寺高等小学校を卒業した。

 『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の口絵に卒業証書と卒業記念写真が掲載されている。

 野枝、満十四歳の写真である(前列中央)。

 掲載した写真は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』からの引用である。

 これが現存する野枝の最も年齢の若い写真ということになるのだろう。

 卒業後、今宿の谷郵便局に就職し事務員として勤務する。

 田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』によれば、今宿郵便局は現在もあり「(野枝の)育った家からわずか一〇〇メートルもない往還に沿った角地の建物」(p125)である。

 野枝の妹の武部ツタが、このころの野枝について語っている。

 ……こんなところにいるのが厭で厭で、東京へ行くことばかり考えていました。

 郵便局もこんな田舎町に勤める気ははじめからなく、熊本の逓信局の試験をうけたんです。

 学課は一番で通ったけれど、指先が不器用で、あのツツートンを打つ手先の試験がうまくいかず、おっこちたんです。

 ええまあ、手先は不器用な方だったでしょうね。

 でもきものくらいは縫えましたけどね。

 娘時代には恋愛なんて、見むきもしやしません。

 ここらの男なんかてんで頭から相手にしてやしませんでしたよ。

 そりゃあ、学校はよく出来たし、きれいな方だったし、目立つ娘で、向うから好いてきた人は何人かいましたけどね。

 とにかく、娘のころは勉強勉強で、男なんか目もくれてやしませんでした。

 気の強い方で、今じゃ私はこんなおしゃべりになりましたが若い頃はとても無口で、姉の方は思ったことを誰にでもぽんぽんいって、よくしゃべりました。

 それが大人になると、すっかり向うは無口になりました。

(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p37・岩波現代文庫)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」10回 大人の嘘

2025年4月26日 土曜日

文●ツルシカズヒコ

 しばらくして、校長先生がやって来た。

 校長は黙って講堂のプラットフォームに立ち、大きなテーブルの前の椅子に腰をかけた。

 野枝は瞬時に校長からも叱られると思った。

 野枝はもう泣かなかった。

 野枝の小さな体は激昂に災(も)えていた。

 野枝はじっと校長の顔を睨んだ。

 校長も黙って野枝を睨んでいた。

 T先生が消え入るような声で「校長先生のお前にいらっしゃい」と言った。

 野枝は体中を反抗の血で一杯にしてわくわくさせながら校長の前に立った。

 野枝の頭は、プラットフォームの上の椅子に座っている校長の膝のあたりまでしかとどかない。

 校長はちょっと前にT先生が野枝にした同じ順序で同じことを尋ねた。

 野枝は同じことを答えた。

 最後に校長は云ひました。

「あなたの云ふのはうそではないかもしれないけれども父母の許もうけずに他へ泊るなどといふことは大変わるいことです。お父さんやお母さんがどんなに御心配なさるかもしれません。第一さういう遠い処に学校のかへりにあそびにゆくと云ふのがまちがひです」

「でも先生、何時でも行くんです。そしてK先生と一所に何時でもかへりますから家ではよく承知してゐるのです。昨日もあすこに行つたことは家でも知つてゐますから、あんなあらしになつてとてもかへれなかつたと云ふことは家の人にもわかつてゐますし、K先生もおかへりになつてはゐませんから」

「まあお待ちなさい。あたたは一体つゝしみをしらない。私がまだ話して了(しま)はないうちに何を云ふのです、私はあなたの先生ですぞ」

 校長先生はまつ青になつて怒りました。

「女はもう少し女らしくするものです。第一もうあなた位の年になれば遊ぶことよりも少しでも家の手伝ひでもすることを考へなくてはならない。昨日のことは仕方がなかつたとしてももしあなたがもつと女らしい、心がけのいゝ人ならあんな処に遊びに出かけることもないだろうしそうすればあんな間違ひはおこらない。それにあなたは何だつてHさんの学校へなどあそびにゆくのです。あなたはあすこの学校へ何の関係があります。関係のない処に遊びに行つて泊るなどゝ実にけしからん事です。あなたはどんなに悪い事をしたのか分つてゐますか?」

「私は何にも悪いことは一つもしません、悪いことなんか一つもしません」

 私はせき込んで漸くそれ丈け出来るかぎりの力をこめて叫びました。

 私はわるいことなんか一つもした覚えはない!

 もう一度自分の心の中でさう叫びながら私は真青になりました。

 立ってゐる足が体をさゝえきれない程に震へるのでした。

 「それ、そんな傲慢なことをまた云ふ。これがどうして悪いことでないと云へます。あなたは少しも物の道理をしらない、長上を尊敬することをしらない。いくら、学科が出来やうと何しようと慎しみのない女は人の上に立つ資格はありません。以後再びこんなことがあれば決して、許しておけませんからそのつもりでーー」

 校長が出てゆくと私の頭の中は一時に真暗になつてガン/\鳴り出しました。

(「嘘言と云ふことに就いての追想」/『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p208~209)

 教室に戻った野枝は、椅子に腰をかけ机に突っ伏した。

 涙があとからあとから湧き出てきた。

 二十分もそうしていると、野枝はふと日が暮れたことに気づいた。

 机の中のものをすべて包みの中に入れ、机の中を反古紙で拭いた。

 野枝はこの不条理の叱責を公平な父に告げ、明日から学校に行かない決心をした。

 外に出ると日はすっかり暮れ、寒気が強く、低い下駄では満足に歩けないほど道はぬかるんでいた。

 人通りのない道を一里以上も泣きながら帰って行った。

 野枝は帰宅すると袴もとらずすぐに、明るいランプの下で近所の人と世間話をしていた父の前に座って、不法な先生の態度や叱責を詳しく話し、明日からもうあの学校には行かないと言った。

 父は一言も返事らしいことも言わず黙っていた。

 K先生は約束通り家にわけを説明しに来てくれた。

 家のものもあの嵐ではと、少しも気にかけていなかった。

 そしてかえってこの日の帰りの遅いことに気をもんでいた。

 野枝は翌日もその翌日も、友達が誘いに来ても断って学校には行かず、終日、古い本箱のふたを開けたり、犬をいじったりして祖母・サトのそばで過ごした。

 登校を拒否していた二日目の夕方、野枝は夕飯前に犬をからかいながら松原に遊びに出るた。

 その間、野枝の留守中の自宅を訪れたT先生が野枝の父と話した後、松原にいる野枝に会いに来た。

 T先生はいきなり野枝の手を握ってどもりどもり詫びた。

 T先生によれば、大勢の先生がいる職員室でS先生がT先生を非難したという。

 野枝のような子供を訓戒も何も与えず放っておくのはおかしい、担任の責任だと。

 T先生が訓戒できないのであれば、校長にで出てもらうしかないということになり、気の弱いT先生はそれに同意してしまったが、そのふがいなさを涙を流して詫びた。

 T先生がどうか明日から学校に出てくれと懇願するので、野枝は出る気になったが、以後、野枝にとって学校は楽しいところではなくなり、二度と職員室になんか入るものかと思った。

 しばらくして、H先生に会った野枝は彼の口から耳を疑うような話を聞いた。

 H先生がS先生に会った際、S先生はT先生のことをこう語ったというのだ。

 ーー波多江のYにH先生と野枝が泊まったことにT先生は大変怒っているが、野枝さんがかわいそうだ。野枝さんはK先生と泊まったと言っているのに、T先生は野枝さんが嘘をついていると決めつけている。しかも校長にまで訓戒をさせるとは、あんな優しそうな顔をしているのに本当にえらいことをおっしゃいます。

「僕はあの晩はC君と一緒に学校に泊まりました。Kさんと野枝さんがYに泊まったのです」

 とH先生が言うと、

「そうでしょうね、私はきっとそうなんだというのに、T先生は聞く耳を持たないんですよ。T先生はあんまり下らないことにまで干渉しすぎます」

 とS先生が答えたという。

 醜い嘘までついて自分を保ち、善良なT先生を貶めているS先生に、野枝は驚いて言葉を失った。

 野枝が周船寺小学校を卒業して時が経ち、野枝はS先生の嘘は忘れかけていたが、校長にまで叱責されたことの理不尽さは消えなかった。

 野枝はあるときふっと思いついて、S先生も校長もH先生もT先生もよく知っている人に、このことを話をしてみた。

 その人は突然、皮肉な声で哄笑しながら言った。

「ああSですか、なに、あの女の例のやきもちからさ。あなたはまだ小さくてわからなかったろうがいい迷惑さね。あなたがあの女には大人並みに見えたまでさ。ハハハハハハ、いい目にあいましたね」

 嘲るような目つきをその人はした。

 これを聞いて、野枝の心中に刻まれたS先生の嘘の不快な印象はさらに深みを増した。

 すべてに淡白でたいていのことは忘れてしまう野枝だったが、S先生の嘘だけは一生涯忘れ去ることができないものになった。

 嘘とは、本当のことを言うと叱られるので叱責を逃れるために、子供がない知恵を絞って大人に吐く他愛のないものだと、幼少期の野枝は考えていた。

 しかし、いやしくも学校の教師でありながら、度外れの嘘言を弄して生徒や同僚教師を貶める「大人の嘘」に直面した野枝は、大人の汚い心をまざまざ見せつけられ、小さい心は怒りと驚きとに震えた。

 なお野枝は「遺書の一部より」「背負ひ切れぬ重荷」でもT先生に言及している。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の「背負ひ切れぬ重荷」解題(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p442)によれば、T先生は野枝が周船寺高等小学校四年時の担任「谷先生」である。

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」9回 波多江

2025年4月25日 金曜日

文●ツルシカズヒコ

 代一家の上京により、長崎から今宿に戻った野枝は、一九〇八(明治四十一)年十一月、家から三キロほど離れた隣村の周船寺(すせんじ)高等小学校四年に転校した。

 周船寺高等小学校には一年から三年まで通っていたので、転校といっても勝手知ったる古巣に戻ったようなものだ。

 野枝がこの周船寺高等小学校四年在学中に起きた、忘れがたき出来事について書いたのが「嘘言と云ふことに就いての追想」(『青鞜』1915年5月号・第5巻第5号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p202~212)である。

 西山女児高等小学校では、受持教師が生徒を自由にさせてくれる教育方針だったので、生徒は教師に干渉されることなく無邪気に飛んだりはねたり腕白をしていた。

 それに比べて田舎の周船寺高等小学校の校風は質素で、野枝は違和感を持ったが、長崎時代と同様に無邪気に過ごしていた。

 生徒の中で校長室や職員室にずかずかと入っていけるのも野枝くらいのものだった。

 先生の多くはその快活さを可愛がってくれたので、野枝も多少増長していたところがあったかもしれない。

 しかし、高等小学校の最高学年である四年生にもなれば、ひとり前の大人の女であってしかるべきと考える女の先生からは、慎みのないお転婆な娘として睨まれてもいたようだが、当時の野枝はそういうことに無頓着だった。

 周船寺高等小学校四年の受持の先生は、Tというやさしい先生だった。

 野枝のおしゃべりや歌やお転婆な行動をいつもニコニコ笑って見守っているような先生だったので、野枝だけでなく級(クラス)のみんながT先生に親しみを持っていた。
 放課後、野枝は一週間に一、二回、周船寺高等小学校から半里ほど離れた波多江(はたえ)というところの小学校に遊びに出かけていた。

 その波多江の小学校の校長は、野枝が西山女児高等小学校に転校する以前、周船寺高等小学校に在学していたときに同校に赴任していたH先生だった。

 野枝が今宿尋常小学校一年のときに教わったことがあり、野枝の家の近所に住むKという女の先生も、その波多江の小学校で教員をしていた。

 野枝はH先生やK先生とテニスをしたり、オルガンを弾いたりするのが楽しかったのである。

 その日も野枝は波多江の小学校に遊びに行った。

 しばらくすると急に天気が悪くなり嵐になってしまった。

 二、三間先も見えないほどひどい雨が降り、風がピューピュー唸っている。

 嵐が止むのを待っていると、夜になってしまった。

 家までは二里以上の距離があり、もう歩いては帰れないので、H先生は学校の宿直室に泊まり、女のK先生と野枝は学校のそばの先生たちの知り合いのYという家に泊まった。

 野枝の家には翌日、K先生が事情を説明に行き詫びることにした。



 翌日、野枝はいったん家に帰り、それから登校しようと思っていたが、寝坊をしてしまい宿泊先から直接、登校した。

 その日は図画の授業があり、その準備をしてくることができなかった理由を野枝がSという女の図画の先生に説明すると、S先生は男のH先生と外泊したのではないかと勘ぐった。

 野枝は子供ながらも無礼なS先生に激しい憤りを覚えた。

 S先生は学校の規則に非常にやかましい人だったが、野枝は落とし物や忘れ物が多い横着者だった。

 S先生は日ごろから野枝に睨みをきかせていた。

 野枝もS先生の気に障るようなことを無意識に意地悪くしていたかもしれない。

 放課後、野枝が帰りかけると、他の級の生徒が来て、担任のT先生のことづけを伝えた。

 少し用事があるから残っていてほしいとのことだった。

 当番の手伝いなどをして待っていたが、T先生はなかなかやってこない。

 野枝はT先生がことづてを忘れたのかと思い、教室を出て職員室に向うと、T先生が向こうから歩いてきた。

 T先生は野枝を廊下の角に待たせ、職員室に入り火鉢を抱えて出てきて、ふたりは二階の講堂に行った。



 がらんとした広く寒い講堂に入るなり、野枝は泣き出したくなった。

 野枝は今までさんざん待たせたあげく、こんなところに連れ込んだT先生に腹が立った。

 T先生によれば、S先生は野枝が料理屋だと知っているのに嘘をつき、家の許しも得ないで外泊したと主張しているという。

 野枝が泊まった家は料理屋のようだったが、野枝は知らないことだった。

 野枝は涙がこみ上げてきた。

 H先生とK先生のところに遊びに行っただけで、ひどい嵐が夜になってもやまず、乗り物もなく寂しい道を二里以上も歩いて帰宅することはできないから、やむを得ず、すすめられるままに、不安ながら泊まっただけだ。

 それがどうしていけないことなのか、野枝にはどうしても理解できなかった。

 野枝は理由もなしに虐待されていると思った。

 S先生の憎々しい様子を思い出さずにはいられなかった。

 日ごろ、やさしいT先生まで一緒になって叱っていることが悲しく腹立たしかった。

 膝の上に置いた野枝の手の甲に涙がボタボタ落ちた。

 火鉢を見ると、T先生の目からも涙がポトリポトリ続けさまに灰の中に落ちていた。

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」8回 長崎(二)

2025年4月23日 水曜日

文●ツルシカズヒコ

野枝の長崎時代について、叔母・代キチは岩崎呉夫にこう語っている。

 さようでございますね、近ごろのボーイッシュ・ガールってとこでしたでしょう。

 あんたはアメリカへでもいけば上等なんだけど、日本じゃお嫁の貰い手がないよ。

 よくそんな冗談を申しました。

 はじめのうちは千代子と張合ってムキに自分を主張しようとしていました。

 躾けのことで喧(かまびす)しくいうと、すぐふくれて泣くのです。

 声は決してだしませんで、ただポロポロ涙をこぼしましてね。

 けれどとにかくハキハキして、役に立つ子でしたよ。

 五つ六つのときから肩や胸なんかが、こう男の子みたいに張りましてね、固ぶとりで、着物が似合わないかわりに洋服だとぴったりするような子でした。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p61~62)

 キチは瀬戸内晴美(寂聴)には、こう語っている。

 あの子は長崎にわたくしどもがおりました時、家が貧しゅう子だくさんでありましたのでうちへまいりました。

 気のつよい、きかん気のごついおなごでござりましたが、泣き虫でもありました。

 野枝はわたくしの身内でござりますもの、野枝のつらがるがごと、あるはずのありましょうことか。

 本を読むのが大好きで、掃除とか裁縫とか女らしいことは好きではありませんようにござりました。

 それでも女のつとめだからと申して、千代子と交替でむりにやらせるようにしたものでござります。

(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p22~23・岩波現代文庫)

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』には、こう記されている。

 キチ曰く、「ノエは、あまり掃除やお裁縫が得手でなく、女子の務めとして、千代子と共に、無理にでもやらせましたよ」

「千代子の真似ばっかり、する子でした。千代子の読む本を読み、千代子と同じ髪型にし、二人とも水練が達者でしたので、よく鼠島に泳ぎにいってましたよ」

「手先の不器用な娘でしたので、女の勤めとしての針仕事は、とくにきつく教えました。聞かぬ気のところがあり、機嫌をほどくのに、苦労をしました。暇さえあれば書庫に篭っていました」

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p36~37)

 野枝が西山女児高等小学校四年に在籍したのは、一九〇八(明治四十一)年四月から十一月までだったが、甘粕事件後に『長崎新聞』に載った記事の中で、同校校長が同校在学時の野枝についてコメントをしている。

 見出しは「西山女児校にゐた伊藤野枝 成績は殆ど『甲』だつた ーー既に思想がませて大人染みてゐた 暑中休暇の日誌は実に美事なもの」。

 ……第一学期の成績は修身、国語、算術、歴史、地理、理科、手工、唱歌、体操の各教科は全部甲で唯図画、裁縫と行状が乙で学業成績は極めて優秀の方であつた、

 当時の身長は四尺六寸九分、体重十貫十五匁、胸囲二尺二寸七分、背柱は正しくて体格は随分丈分であつた、

 四月以降十月迄に僅三日間事故欠席したのみで熱心に能く勉強してゐた、

 容貌はどちらかと云へば好くない方であつたが非常に文才のあつた事は未だに記憶してゐる、

 野枝は当校在学当時から何となく思想がませて大人染て子供らしい処がなかつた、

 夏季休業中の日誌を担任教師の吉田弘文氏(現活水女学校教師)に出したのを一読してみたが実に軽妙な書振で到底十四五歳位の小娘の書いた文章とは思へない程に巧く書いてあつた……

(『長崎新聞』1923年10月6日・4面/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』資料篇_p435)

 野枝の容貌について「どちらかと云えば好くない方であった」と校長はコメントしているが、叔母・代キチは「きれいでござりましたとも。はっきりした顔だちのよか女でござりました」と語っている(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p23)。

 十三歳の野枝の身長は一四一センチ(四尺六寸九分)、体重は三十八キロ(十貫十五匁)、胸囲は六十八センチ(二尺二寸七分)である。

 ところで、野枝が不器用で裁縫が不得手だったという叔母・キチの発言があり、学校の裁縫の成績も「乙」であるが、野枝は本当に不器用で裁縫が苦手だったのだろうか。

 まず、祖母・サトと父・亀吉が手先が器用で、野枝がその血を受け継いでいるとすれば、不器用でない可能性が高いのではないか。

 そして、野枝は後年、ミシンを購入し洋服作りにハマっている。

 野枝は裁縫が不得手だったのではなく、良妻賢母教育の一貫として押し付けられる裁縫に反発していたのだろう。

『長崎新聞』によれば、野枝は一九〇八年四月九日に西山女児高等小学校に転校し、同年十一月二十六日に退学。

 同校を退学したのは、代一家が東京で事業を始めるため、上京することになったからである。

 野枝は今宿の実家に帰り、周船寺(すせんじ)高等小学校に戻った。

 西山女児高等小学校四年の二学期途中で今宿に帰ることになった野枝だが、その胸中はいかなるものであっただろうか。

 翌年の三月には高等小学校卒業である。

 卒業後の進路のことも考えなければならなかったはずだ。 

 井出文子は野枝の覚醒をこう捉えている。

 今宿では、貧しくとも家族との一体感のなかにスッポリと浸っていられた。

 父も祖母も兄妹も野枝の力量をみとめ……彼女はその小宇宙の女王様だった。

 何ごとも自分の考えで自由にきめ、ものをいうことができた。

 だが長崎ではそうはいかなかった。

 親分肌の叔父と頭の切れる叔母、叔父が溺愛していた一人娘の千代子……野枝は不安定な他所(よそ)者だった。

 一片の疑いもなく愛情の一体感で暮してきた肉親も、離れてみれば他人と同じである。

 ここで大切にされているのは自分ではなく、千代子である。

 自分はある意味で差別のただ中にいる。

 この嫉妬と屈辱のどうしようもない悲しさのなかで、はじめて野枝に知覚されるのは、誰でもない「自分」であり、このとくべつの「自分」を知り、愛(いと)おしむのも「自分」でしかなく、その未来に責任をもち、その運命を背負うのもまた「自分」をおいていない。

 ……このときから野枝の内部に不敵な魂が根をおろしはじめる。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p26~27)

 矢野寛治はこう指摘している。

 この家では最も大事にされるのは千代子、ノエ自身は今宿の家とは違って中心になれない。

 それは何のせいなのか。

 自分が悪いわけではない。

 貧しさか、ノエはこの代の家で新聞を、雑誌を、ほかの多くの本を読み下し、世の中、社会、お金というものを考えた。

 今は居候の身にて、従順にしておかなければならない。

 我慢と辛抱と没自我だが、唯一自我の発露は成績だった。

 先ず勉強で千代子に優ること。

 千代子は……気立て温厚温雅。

 ……模範の姉だったが、ノエの心の中に生まれついて何の苦労もしていない者への嫉妬が、その底の方で憎しみにもなっていた。

 ……千代子を面従腹背で当面の敵とした。

 ……代準介は境遇の悪さから賢(さか)しらになっている小娘ノエの根性を気に入っていた。

 自分も十三歳から商売をし、生き抜いてきた男だからである。

 ノエの余儀のない捻じ曲がりは、もちろんノエのエネルギーになっていく。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p39~40)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」7回 長崎(一)

2025年4月22日 火曜日

文●ツルシカズヒコ

国勢調査以前の日本の人口統計」によれば、一九〇八(明治四十一)年末の日本の都市人口の上位五都市は以下である。

 ●東京市 1,488,245人

 ●大阪市 1,226,647人

 ●京都市  442,462人

 ●横浜市  394,303人

 ●神戸市  378,197人

 
 九州の上位五都市は以下である。

 ●長崎市  176,480人

 ●佐世保市  93,051人

 ●福岡市   82,106人

 ●鹿児島市  63,640人

 ●熊本市   61,233人

 
 当時、長崎が九州随一の都会だったことがわかる。

 神近市子が、郷里、長崎県北松浦郡佐々(さざ)村(現・北松浦郡佐々町)から長崎市の活水女学校に入学するために、長崎市にやってきたのは一九〇四(明治三十七)年だった。

 後に神近と野枝の間にはただならぬ因縁が生じることになるが、このとき十六歳の神近は、生まれて初めて見る長崎市内のにぎわいに歓喜して、「ああ、長崎」と叫びたいような興奮にかられたという。

 異国情緒たっぷりの町並みにはいっていくと、お祭りのような人の波が押し寄せる。

 都会の繁栄とはこれほどめざましいものかと、私は何度も溜息をついた。

「随一の大都会にして、電信電話の線、蜘蛛の巣を張りたるごとし」

 小学校の地理の教科書では、町の賑やかさを教えるのにこれがきまり文句であった。

 私は、先生がそのくだりを読みあげるたびに、一瞬都会の目まぐるしさを想像して、からだを緊張させたものだった。

 ところが、いま私の頭上にはその文章のとおり無数の電線が交錯している。

 私は夢を見ているような心地がした。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p62~63)

 野枝の長崎滞在は八か月(一九〇八年四月〜同年十一月)ほどだったが、このとき二十歳の神近は活水女学校中等科二年生〜三年生(活水女学校は九月入学制)である。

 ふたりは長崎市内のどこかで、すれ違っていたかもしれない。

 当時の代一家は代準介が四十歳、代キチが三十二歳、代千代子が十五歳。

 千代子は野枝より二歳年長だが、野枝は早生まれなので学年では千代子は野枝の一学年上である。

 千代子は当時、長崎市内の女学校の二年生だった。

 女学校名は不明。

 親分肌の代準介は天下国家を論じ、友人知己、商売上の来客も多く、代家も時代感覚に敏感な活気のある家だっただろう。

 裕福な代家には新聞、雑誌の類いが豊富にあった。

 野枝は千代子の蔵書を読みあさり、街の本屋で立ち読みもしたことだろう。

 そこにはつばを飲みこむほどの雑誌や書籍がならんでいた。

 年よりませた野枝のことだから……女学生むけの雑誌などに手をだしたにちがいない。

 本屋の棚にはおそらく『女学世界』(一九〇一年刊)、『女子文芸』(一九〇六年刊)などが並んでいた。

 これらの雑誌は当時の少女たちに「投稿」をさそっており、それは野枝に対してどれほど心はずむ未知の世界をかい間みせてくれたことだろう。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p28)

『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』「伊藤野枝年表」(p5)によれば、野枝は「この頃から文学を好んでゐたが、十二三歳頃からしきりに少女雑誌文芸雑誌等へ作文和歌等を投書して、数回賞品を貰つた事もある」という。

 野枝自身は当時のことをこう書いている。

 ……小さいうちからいろいろな冷たい人の手から手にうつされて違つた風習と各々の人の異つた方針に教育された私はいろ/\な事から自我の強い子でした。

 そして無意識ながらも習俗に対する反抗の念は十二三才位からはぐくんでゐたので御座います。

 私は生まれた家にも両親にも兄妹にも親しむ事の出来ない妙に偏つた感情を持つてゐるのです。

(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p174/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p33)

 後に野枝はコンベンショナル(因習的)なものと闘う「新しい女」の看板を掲げることになり、その視点を強調した屈折した書き方をしているが、自分の人生を切り拓いていく上で、家族など何の頼りにもならいないという認識はこの時点ですでに明確になっていたのは事実だっただろう。

 野枝より二歳下の妹・武部ツタは、女姉妹同士ということもあり、子供のころから野枝とは隠し隔てのない仲だった。

 瀬戸内晴美(寂聴)『美は乱調にあり』のツタの発言は、歯切れのよいカラッとした辛口発言がいい味を出しているが、野枝の長崎時代についても一刀両断にこう断言している。

 姉が長崎の叔母の家へいったのも、ただ自分が勉強したいからで、うちより叔母の家の方が勉強するのに都合のいい環境だったからでしょう。

 叔父や叔母にいじめられたみたいなことを書いているのはまったく、でたらめですよ。

 叔母のところでだって、お千代さん同様、ずいぶん我まま勝手にしていたようです。

(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p36・岩波現代文庫)

 ツタによれば、野枝は子供のころから自分のことしか考えず、自分さえ勉強ができればよく、母親が困ろうが兄や弟や妹が泣こうが平気で、嫌いなことは一切せず、同じ年ごろの子どもと遊ぶというようなことも嫌いで、いつもひとりで何かしているような子供だった。

 おかげでツタは損な役目ばかり引き受けさせられた。

 物心ついたころには、父が家に寄りつかず、母が近所の畑仕事や賃仕事をして子供を養っていたので、ツタは子供のときから母を何とか助けようとしたが、野枝は一向に知らん顔をしていた。

 成人してからもなんの親孝行もしていない母にさんざん迷惑をかけ通した野枝は、得な性分の人で、野枝が生きてる間じゅう迷惑のかけられ通しだったという。

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」6回 代準介

2025年4月21日 月曜日

文●ツルシカズヒコ

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p506)によれば、一九〇八(明治四十一)年三月、周船寺高等小学校三年修了後、野枝は長崎に住む(長崎市大村町二十一番地)叔母・代キチのもとへ行き、四月、西山女児高等小学校四年に転入学した。

 野枝、十三歳の春である。

 代キチは野枝の父・亀吉の三人の妹の末妹だが、妹の中で一番のしっかり者だった。

 キチの夫・代準介(一八六八〜一九四六)は実業家として財をなし、代一家は裕福な暮らしをしていた。

 代準介の先妻・モト子(一八七〇〜一九〇五)は一粒種の長女・千代子(一八九三〜一九二六)を生んだが、千代子が十二歳のときに病死した。

 代準介と野枝の父・亀吉は幼なじみであり、その縁で野枝が長崎に来る二年前に、キチが代準介の後添えに入ったのである。

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p24~25)は、野枝が長崎に来た時期を一九〇四(明治三十七)年秋としているが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p37)は代準介がキチと再婚した時期などの状況から判断し、一九〇八年春が「正しいと考える」と指摘している。

 矢野寛治の妻・千佳子は代準介の曽孫にあたり、『伊藤野枝と代準介』は代家に伝わる代準介の自伝『牟田乃落穂』のデータを駆使して書かれている。

 野枝が代一家のもとに身を寄せることになったのは、叔母・キチの采配だった。

 ノエの叔母であるキチは、実家の困窮を常に気にかけており、夫・代準介にノエの扶養を願い出ている。

 代も長女・千代子(先妻・モト子との間の子)が一人娘ゆえに、ほぼ一歳違いのノエを姉妹同様に育てることに同意する。

 この頃、父・亀吉は家を捨て、懇ろの女性と行く方をくらましていた。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p30~31)

 野枝のその後の人生において、叔父・代準介はキーになる人物のひとりである。

 代準介とはいかなる人物だったのか。

『伊藤野枝と代準介』(p222~228)に収録されている「代準介・年譜」を、野枝が長崎に来る前年までたどってみる。

●1868年(慶応4年・明治元年)
福岡県糸島郡太郎丸村で生まれる。

●1880年(明治13年)12歳
周船寺(すせんじ)高等小学校卒業。父が長崎に出たので、家業を継ぎ、日用雑貨業および穀物買入業を営む。同時に貸本業も営む。

●1887年(明治20年)19歳
九州鉄道株式会社社員に推挙。

●1888年(明治21年)20歳
市町村制度実施となり、太郎丸村一帯の村役場収入役に当選する。

●1890年(明治23年)22歳
収入役を辞任。実業家に転じるべく父のいる長崎へ。高島炭鉱小曽根商店に入る。

●1891年(明治24年)23歳
貿易商で廻漕業の相良商店の娘モトを妻に迎え、妻の実家の家業を手伝う。

●1894年(明治27年)26歳
日清戦争開戦により、海軍から旗艦松島・厳島・橋立の三艦の酒保用達を命じられる。

●1895年(明治28年)27歳
相良商店を離れ、独立する。海軍の仕事を第一として事業を発展させていく。

●1898年(明治31年)30歳
ロシア艦隊ウスリー号、平戸生月島に座礁。これを三萬円(現価格およそ4億5千万円)で買収。ウスリー号引き揚げ途中で売却。

●1900年(明治33年)32歳
三菱長崎造船所の用達となる。木材納入と古鉄の払い下げを引き受ける。

●1901年(明治34年)33歳
以降、三菱からの仕事が殺到する。事業順調にして、長崎一流人とのサロンを作る。茶道に熱中し書画骨董を蒐集する。

●1904年(明治37年)36歳
木材納入のため、全九州はもとより、四国、大阪、名古屋、北海道を視察。

●1905年(明治38年)37歳
三菱におもに槻(けやき)を納入する。

●1907年(明治40年)39歳
上京して宮崎滔天の取り次ぎで頭山満を訪ねる(初対面)。長崎東洋日の出新聞社社主・鈴木天眼、主筆・西郷四郎の選挙運動をして衆議院議員に当選させる。

 地方都市の叩き上げの実業家である。

 人脈があり機を見るに敏だったのだろう。

 海軍と三菱財閥との太いパイプによって、日清日露戦争をうまくビジネスにつなげ財を成した。

 政治やジャーナリズムにも一家言のある親分肌の国士風実業家だった。

『伊藤野枝と代準介』によれば、「代商店」は三菱長崎造船所の御用達として木材の納入をおもな商いとし、代準介は「代商店」の社長として良材を求めて日本全国を奔走していた。

『牟田乃落穂』によれば、代準介は鈴木天眼の選挙運動の際、「予、選挙事務長となり、社員三、四十名、草履がけにて運動に従事せしめ」(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p45)とあるので、「代商店」の従業員は三、四十人ぐらいだったようだ。

 三菱長崎造船所は一九〇八年に世界最高クラスの豪華客船「天洋丸」を造る技術を備えた、東洋最大の民間造船所となっていた。

 玄洋社の総帥・頭山満は代の遠縁にあたり、代は頭山を一族の英傑として幼き日より霊峰富士の高嶺を仰ぎ見るように、畏怖畏敬、憧れを抱いていた。

 頭山に面会した代は頭山の大アジア主義に共感した。

 頭山の謦咳に触れ、お金や書画骨董、茶会だけの生き方を恥じた。

 代は有為の子弟の育英も実践していて、多くの不遇であるが有為の子弟の学費の援助をしている。

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」5回 能古島

2025年4月17日 木曜日

文●ツルシカズヒコ

 伊藤家は窮乏を極めていたが、野枝はいじけず伸び伸びと育った。

 ……毎日働きにでている母親から逆に独立心を学んだのと、彼女の周辺に美しい自然があったことがあげられよう。

 家の裏木戸をでれば、ただちに白い砂浜と荒い玄界灘の波立つ海がせまっている。

 両手をひろげたように東西から妙見崎と毘沙門山が今津湾をつつんでいる(ママ)。

 蒼い水平線のむこうは大空にとけ、白い入道雲がわきのぼっている。

 手まえには能古島が雄牛がうずくまったように横たわっている。

 野枝は海にでておもうさま泳ぎまわった。

 沖へでると海辺の家は遠くみえなくなり……頭上にはぬけるような大空が広がる。

 波間にからだをうかしてゆさぶられていると、少女のこころは何ものにもとらわれない自由さにとき放たれていくのだった。

井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)

 幼少時の野枝が泳ぎが得意だったことはよく知られていて、海岸から四キロほどの距離にある能古島までも泳げたという。

 野枝の泳ぎについて野枝の叔母・代キチの証言がある。

 これは瀬戸内晴美(寂聴)が『文藝春秋』に「美は乱調にあり」を連載するため、福岡市に取材に訪れたときのものであろう。

 瀬戸内は西日本新聞社の紹介で野枝の長女・魔子(真子に改名)に会い、魔子の案内で代キチ、四女・ルイズ(留意子に改名)、次兄・由兵衛、妹・ツタに面会している。

 瀬戸内が来福したのは「桜が咲く」ころだったが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p32)によれば、それは一九六四(昭和三十九)年である。

 このとき、風邪気味で床についていた代キチは八十八歳、前年に脳溢血で倒れてベッドに仰臥していた由兵衛は七十二歳、ツタは六十七歳、魔子は四十七歳、ルイズは四十二歳である。

 
 泳ぎでござりますか。

 はあそれはあんた海辺育ちのことゆえ、河童(かっぱ)のごと上手でござりました。
 
 型は抜き手でござります。

 わたくしなども、子供のころから、学校をぬけだして日がな一日、泳いで暮しておりました。

 陽の当る材木の上に寝ころんで濡れた髪を干し、半分乾いたのをごまかして結いあげ、内緒のつもりでござりますから無邪気なものでござりましたよ。

 はあ、そりゃもう、下ばきなんどというものをはきましょうかいな。

 誰しもすっぱだかで泳ぎます。

 野枝は飛びこみなど好きでござりましたが……。

 わたくしどもの子供のころと、野枝の子供のころとのくらしは、ああいう田舎町ではさして変っていたとも思われません。

(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p23~24・岩波現代文庫)

 青鞜時代、野枝は仲間たちに自分の幼少時のことを話すことはほとんどなかったようだが、珍しく話したのが水泳のことだった。

 平塚らいてうは飛びこみの話が印象に残ったという。

 海国に育つた野枝さんは水泳が上手で男子に交つて遠泳の競争も出来るのださうだが、殊に眼まひのする様な高い櫓(やぐら)から水の中に飛び込むことの出来るといふことは野枝さんの……得意としてゐる処らしい。

 最初それを練習する時はいくら飛び込まふ/\と思つても足がすくむでどうしても思ひ切つて飛び込めない。

 けれど一旦櫓に登つたが最後もう梯子を取られて仕舞ふから二度と下りてくることは出来ないことになつてゐるので、死んだ気になつて飛び込んで仕舞ふのだといふやうな話をいつか野枝さんから聞いたやうに記憶してゐるが、どうも野枝さんのやる処を見てゐるとそれによく似た処があるやうなのは面白い。

(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号_p83~84)

『青鞜』の編集部員仲間だった小林哥津(かつ/一八九四〜一九七四)は、野枝から聞いた幼少時の逸話を記憶に残していて、井出文子に話している。

 野枝の家の隣りに八幡神社があり、そこは子供たちの遊び場だった。

 ある日、遊びの中でひとりの子が「首つり」の真似をしてみせた。

 松の枝に縄をかけてぶら下がっているうちに、本当に首が締められて、その子がもがき始めた。

 おもしろがって見ていた子供たちは急にゾッとして、クモの子を散らすように逃げて行った。

 首をしめてしまった子が助かったか、死んでしまったのかはわからない。

 けれどその動機の無邪気さと、事実の残酷さで、小林哥津にとってはやり切れない物語だった。

 ところが野枝はその話をむしろ明るい調子で笑いとばしながら語ったというのである。

 都会育ちで、繊細な神経の持ち主であった哥津にとっては、その笑いが不可解でなんともイヤーな気持になったと、彼女はわたしに話したことがある。

 この話は、わたしの心にも深く残っている。

 たぶん野枝の笑いは、この無慈悲な記憶を遮断するための表現であったのではなかろうか。

 野枝の笑いのなかには、あまりにもありありとその日の情景、空の色、雲の形、松風のざわめき、子どものゆがんだ表情と自分たちの驚きや胸ぐるしさが記憶されていたのにちがいない。

 野枝は、それを生ぬるい感傷などでは語れなかったのであろう。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p23~24)

「首つり」といえば野枝の創作に「白痴の母」(『民衆の芸術』1918年10月号・第1巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)という作品がある。

 野枝が今宿の実家に帰省中に、実際に起きた事件をリポートしているような創作である。

「野枝の実家」の隣家に住む母とその息子。

 汚い身なりの母は八十歳をすぎている。

 五十歳をすぎている息子は白痴である。

 近所の子供たちにからかわれ、腹立ち紛れに子供たちを追い回す白痴の息子は地域の問題児である。

 野枝が小学生だったころから、白痴の息子は地域の問題児だった。

 ある日の夕方、白痴の息子が逃げる子供を石段から突き飛ばし、怪我をさせてしまう。

 それから三、四日して、老母の死体が発見される。

 老母は裏の松の木に紐をかけ首つり自殺をしたのだった。

 野枝が二十三歳のときに発表した作品だが、病苦や生活苦のために首つり自殺をする人がいるという現実は、幼いころから彼女の中にインプットされていたのだろう。

 今宿にかぎらず、当時の日本の貧しい村落に共通することだっただろう。

 ついでながら、野枝の幼児期の今宿のことが垣間見える創作がもうひとつある。

「火つけ彦七」という作品である。

「今から廿年ばかり前に、北九州の或村はづれに、一人の年老(としと)つた乞食が、行き倒れてゐました。」

 という書き出しなのだが、この原稿執筆時の野枝は二十六歳、その二十年ばかり前というのは野枝が六歳のころということになる。

 子供たちは白髪の下から気味の悪い眼を光らせて睨み据える乞食の彦七が怖いのだが、怖いもの見たさで覗きに行く。

 ……若(も)しも恐い事があつて、逃げるときに、逃げ後れるものがないやうに、めい/\の帯をしつかりつかみあつて、お宮の森をのぞきに出かけました。

 ……子供たちの眼にまつさきに見えたのは、お宮の森で一番大きな楠の古木の根本に盛んに燃えてゐる火でした。

 そしてその次ぎに見えたのは、その真赤な火の色がうつつて何とも云へない物凄い顔をしたあの乞食でした。

『ワツ!』

 子供達は……悲鳴をあげてめい/\につかまえられてゐる帯際の友達の手を振りもぎつて、駆け出して来ました。

(「火つけ彦七」/『改造』1921年7月夏期臨時号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p479~480/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p364)

 このあたりの細かい描写は、この作品がフィクションだとしても、野枝が小さいころに同様の体験をしたことを下敷きにしているかのようだ。

 度胸のいい野枝のことだから、逃げ腰の仲間に発破をかけて、先頭に立って覗きに行ったかもしれない。

 この乞食は村の家につけ火をし、放火犯として逮捕される。

 彼は三十年前に村から逐電したのだが、村への復讐の念に燃えて村に舞い戻って来たのだった。

 被差別部落問題をテーマにした重い作品である。

 乞食は若いころ、町外れの瓦焼き場の火を燃す仕事にありついたが、これは野枝の父・亀吉が職人として雇われていた今宿瓦の工場をモデルにしているのであろう。

★井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」4回 ノンちゃん

2025年4月16日 水曜日

文●ツルシカズヒコ

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)によれば、一九〇一(明治三十四)年四月、野枝は今宿尋常小学校に入学した。

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(p62)と井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p62)は、野枝の今宿尋常小学校入学を一九〇三(明治三十六)年としているが、「伊藤野枝年譜」を信頼したい。

 今宿尋常小学校に入学した四月、野枝は満六歳だが、早生まれなので問題はないだろう。

 野枝は毎朝おばあさんにお下げ髪や、当時たばこ盆といわれた髪型(頭の真ん中をとりあげて紐でむすぶ)に結ってもらい、手織木綿のつつ袖のキモノに、石版と読本と行李がたの弁当箱を風呂敷につつんで背にしばり、兄や妹と学校にでかけるのだった。

 家から約二十分ぐらいの学校への道は、たんぼの畦道で、春はタンポポやレンゲの花が咲き、夏にはカエルや虫がとびだし、たのしい秋祭りがおわると、校庭の銀杏の葉は黄金色にいろづき、やがて鉛色の空からシベリア渡りの北風の吹く冬がやってくる。

 野枝は頭からスッポリと赤いケットをかぶって妹と一緒にくるまりながら、風におわれるように道をいそぐのだった。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)

石版」は昔のノート、その上に鉛筆代わりの「ろう石」で書き取りを行った。

「石版」「ろう石」は大正時代ぐらいまで使用されたようだ。

 井出文子は「野枝がかよった今宿小学校は、現在も町はずれに建っている」と書いている。

 井出が記している「現在」は一九七〇年代と思われるが、二〇一七年現在も福岡市立今宿小学校は現存している。

 地図で調べてみると、今宿小学校は野枝一家が住む東松原の海沿いの借家があったあたりから、南の丘陵の方角、約一キロに位置している。

「家から約二十分ぐらいの学校への道」と井出は書いているが、子供の足で一キロ歩くのに二十分は妥当だろう。

「今宿小学校ホームページ」によれば、同小学校は一四〇年の歴史がある。

 これが「作詞・野坂治 作曲・津留崎浩行 」の校歌 である。

 一.渚を守る 松原の
  松の雄々しさ父として
  歴史はるかにしのびつつ
  みんなで励もう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に力あれ

 二.緑したたる高祖山
  山ふところを母として
  希望はるかに仰ぎつつ
  みんなで伸びよう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に栄あれ

 三.雲わきあがる玄海の
  潮の香りを友として
  理想はるかに望みつつ
  みんなで進もう明るく強く
  ああ 今宿
  今宿校に光あれ

(「今宿小学校ホームページ」より)

 もしこの校歌が野枝が卒業する以前に作られたものだとしたら、野枝も大声で歌っていたはずだ。

 今宿尋常小学校に入学したころの野枝は、相当やんちゃだったようだ。

 この頃から、ひどい負け嫌ひであつた。

 兄達は極くおとなしかつたので、時に朋輩からいぢめられる事があつたが、野枝さんはそれを見ると承知しなかつた。

 往々、思ひ切つた乱暴な加勢さへした。

(「伊藤野枝年表」_p4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)

「ノンちゃん」というのが野枝の呼び名だった。

 友だちから「勝気な子」といわれていた野枝は、気の弱い兄をいじめっ子からかばうというふうだった。

 学校の勉強ができるというより、知的好奇心のつよい子といってよかった。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p21)

 ……兄の由兵衛が内気な性格で近所の悪童連にいじめられて泣いていると、野枝は飛んでいって悪童連と取っ組合いの喧嘩をするほど勝気だった。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p61)

「伊藤野枝年表」(p5)によれば、十代のころの次兄・由兵衛は「貧困の中にあつて平然として発明考案に耽り、既に特許権を得たもの五六件あるが、製品販売力がないので何れも他に譲与して、ただ考案にのみ専念」していたという。

 どうやら、次兄・由兵衛は今でいうオタク体質だったようだ。

 野澤笑子(野枝の三女・エマ)が、小学校時代の野枝のエピソードを書き記している。

 小学校に上がって平がなが読めるようになるとこんなことがあった。

 言い付けておいた用事をやらないので懲らしめに押し入れに閉じ込めると、暫らく泣いていたがいつか静かになっている。

 泣き寝入りしたのかと思ってそっと襖を開けてみると、何時の間に持ち込んだのか蝋燭に火を点して、壁に張った古新聞のかな文字を熱心に読んでいた。

 昔の新聞はすべての漢字にかなが付いていたのを私も覚えている。

 もう少し長じて、暇さえあれば手当たり次第に本を読んでいる娘に、少しは掃除を手伝いなさいと叱りつけると素直に「はい」と返事をして、勢いよくパタパタとはたきをかけていたのが、これも暫らくすると音が止んでいる。

 もう終わったのかと来てみると、何と右手にはたきを持って突っ立った侭(まま)左手に本をかかえて読み耽っている。

 そんなことは始終だったという。

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」_p4)

「伊藤野枝年譜」(p505)によれば、一九〇四(明治三十七)年六月、野枝は今宿尋常小学校四年途中で叔母・マツの養女になり、榎津(えのきづ)尋常小学校に転校した。

 野枝の父・亀吉にはマツ(一八七一〜)・モト(一八七四〜)・キチ(一八七六~一九六六)、三人の妹がいたが、マツは長妹である。

 山本直蔵・マツ夫妻は三瀦(みずま)郡大川町大字榎津六二〇番地(現・福岡県大川市若津西浜町)に住んでいた。

 直蔵は商いをしていたらしいが、「博打うち」との説もある。

 直蔵とマツ夫婦に子供がなかったこともあるが、困窮していた伊藤家の口減らしの養子縁組だった。

 一九〇五(明治三十八)年三月、榎津尋常小学校卒業。

 マツが離婚したためマツとともに今宿の家に帰り、四月から約三キロ離れた隣村の周船寺(すせんじ)高等小学校に入学した。

 当時の学制は尋常四年・高等四年で、尋常六年・高等二年になるのは一九〇七年(明治四十年)からである。

 福岡市立周船寺小学校も現存している。

 ウィキの同校の「著名な出身者」は三嶋一輝(横浜DeNAベイスターズの投手)などだが、伊藤野枝の名前も記されている。

 このころ、伊藤家の窮乏はマックスに達し、父・亀吉、長兄・吉次郎は満州に渡り、次兄・由兵衛も佐賀に出ていたと言われている。

 外に働きに出て行った母が、夕暮れになっても帰宅しなかったことがあった。

 妹・ツタがこう回想している。

 
 妹ツタと二人で留守番をしていた野枝は、心細さもましてくるとともに、どうにも腹が空いてたまらなくなってしまった。

 ーーそれで、台所の戸棚をさがして冷飯をみつけて塩で握って食べようと姉がいいました。

 わたしはその飯が今夜の分だとわかっていたので、「お母さんの分をのこしておこうよ」と姉にいったのですが、姉は耳もかさず、「お腹が空いたのだからしかたがない」といって平然とあまさず食べてしまいました。

 ツタはそのときの姉の情のこわさが忘れられなかったと回想している。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」3回 万屋がお

2025年1月18日 土曜日

文●ツルシカズヒコ

野枝の風貌や資質は祖母・サト(父・亀吉の母)、父・亀吉の血を受け継いでいた。

 野枝さんのお父さんは……漁、挿花、料理、人形造り、音曲、舞踏等、何れも素人離れがしてゐる程の趣味に富んだ人である。

 就中、音曲に秀で、土地でのお師匠さん格である。

 野枝さんの祖母は、幼少から文学を好み、学制設定前に、夜、付近の子女を集めて、女大学または手習ひを教へてゐたほどであつたから、その薫陶も尠なくなかつたであらう。

 また祖母は音曲に趣味を持ち、老後までもそれを捨てなかつた。

 八十近くなつても、村のお祭りには屋台に上つて真先に踊つたほどであつた。

 従つて野枝さんも、七八歳の頃から音律を解し、三味線を弄んでゐた。

(「伊藤野枝年表」_p3~4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)

「伊藤野枝年表」を執筆したのは、『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』の編集に携った近藤憲二と思われる。

『炎の女 伊藤野枝伝』の著者、岩崎呉夫が今宿に取材に訪れたのは、一九六二(昭和三十七年)年八月だと推定される。

 岩崎はこのとき、野枝の次兄・由兵衛(当時七十歳)や野枝の叔母・代キチ(一八七六〜一九六六)などに会い話を聞いている。

 代キチは明治九年生まれ(『炎の女 伊藤野枝伝』_p62)なので、当時八十六歳。

 由兵衛もまた野枝の血はサトと亀吉のそれを引き継いでいると語っている。

 亀吉は……生来の芸道楽で、音曲、歌舞、人形つくり、料理などの上手として村内ではその器用さをもてはやされていたという。

 野枝の顔つき、文才、芸才、書の手筋、気質などは、ほぼこの血の流れを受けているようだ。

 サトは今宿の隣りの姪ケ浜村の素封家、藤野武平の二女だが、若いころから文芸趣味にすぐれ、与平に嫁いでからも近所の子弟を集めて習字や勉強をみてやっていたという。

 また芸事も達者で、村の祭りの折などはお師匠さん格であったらしい。

 気性ははげしく、男まさりだった。

 父の亀吉はそのサトの血をうけて、前述したように多芸多彩な器用人で、俳句を巧みにし、この村での師匠格だったという。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p57~p59)

 野枝の父・亀吉は美男子として通っていた。

「万屋(よろずや)がお」と村人たちがいっていたのは、この一族に特有の彫りの深い顔立ちのことである。

 鼻筋がとおっていて、眉と眼がややせまっており、眼のまわりの線がくっきりと黒い南国的な風貌である。

 この顔立ちは野枝の兄妹や、野枝の子どもたちにも伝えられている。

井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p15)

 一九〇〇(明治三十三)年、野枝が五歳のころ、亀吉は家業再興をはかり、農産物加工の事業を始めるが失敗に終わった。

 野枝が小学校に入る頃には谷の家屋敷を手放し、東松原の海沿いの借家に移り、手先の器用な亀吉は近在の瓦工場の職人になった。

 亀吉は生来の芸道楽のうえ、職人としての腕も良かったが、気に染まぬ仕事はしないという人だった。

 そのため一家の生活のほとんどをムメが担っていた。

(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)

 ムメは家運の没落、夫の出奔、子だくさん、そうした不幸を背負いながら、働きもの、出稼ぎで有名な「糸島女」の名にふさわしく、堤防工事の日雇いや農家の手間仕事などに出て、この一家を支えた(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』p15~16)。

「近在の瓦工場」というのは、今宿瓦を造る工場である。
 

 もともとこのあたりは、伊万里あたりからの技術が伝えられたものか、瓦では全国有数の地であり、かつて皇居造営のさい全国コンクールで「今宿瓦」は第三位にはいった記録が残っている。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p58)

 福岡市博物館HPによると、今宿で瓦生産が開始されたのは十七世紀ごろで、福岡城へ献納されるほどの品質の高さだった。

 一八八四(明治十七)年からの皇居造営にあたっても、献上した今宿瓦の見本が高い評価を得た。

 しかし、昭和の初めには二、三軒が瓦の製造を行なう程度になり、一九八〇年代前半に今宿での瓦製造は終わりを迎えた。

 日本の一般家屋に瓦ぶきが普及したのは明治に入ってからで、今宿瓦の最盛期もおそらくそのころだったのだろう。

 福岡市博物館のHPには亀吉が「名人肌」だった鬼瓦の写真も載っている。

 亀吉が今宿瓦の職人だったころのエピソードを、野澤笑子(野枝の三女・エマ)が伝え聞いている。

 サトとムメが台所で亀吉の陰口を言っていると、野枝が「父ちゃんに言い付けてくる」と駆け出したという。

 サトとムメは学齢にも達しない女の子が、一里もある行ったことのない父親の仕事場に行けるわけがないと放っていたが、夕方近くになっても戻ってこない。

 ふたりは不安になったが、野枝は父親に手を引かれ意気揚々と帰って来た。

 野枝が言うにはーー。

「一人で西へ向かって歩いてゆくとだんだん足が痛くなって来た。すると後から荷馬車が来て馬方のおじさんが何処へゆくのかと聞くので、高田の瓦工場へ父ちゃんを向(ママ)かえに行くと言ったら、小さい子供が歩いては無理だと乗せてくれた」

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)

同じエピソードを野枝の妹・武部ツタが、井出文子に語っている。

 亀吉の留守をいいことに、祖母と母が世間話のあげく、亀吉の甲斐性なしを嘆きあしざまに罵った。

 そのころ亀吉は村人たちから「甲斐性なしの極道」と呼ばれていたのである。

 野枝は幼いながら父が非難されているのがわかると、父への同情が抑えきれず、家を出て瓦工場に向かった。

 夕暮れもせまって不安になってきたころ、亀吉が帰ってきた。

 亀吉の背には気持ちよさそうにねむりこけている幼い娘がいた。

 その顔をみて、母親はハッと昼間の鬱憤ばらしをおもいだした。

 そして恐いおもいで娘を見直したというのである。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p19)

 井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p19)によれば、ツタは亀吉が瓦工場の職人だったころのエピソードをもうひとつ、井出文子に語っている。

 亀吉は腕のいい職人で特に「鬼瓦」を作る腕は「名人肌」と言われていたが、気分屋で気が向かないと仕事に出かけないし、給金も自分で取りに行かない。

 瓦工場に給金を取りに行くのは母かツタだったが、野枝も一度取りにやらされたことがあった。

 工場には瓦や粘土がうず高くつみあげられ、暗くしめった土間のむこうには一段と高い座敷があり、四角火鉢のまえに工場主がどっかりと坐り、くわえぎせるで紙でひねった金を投げてよこすのである。

 野枝はその後、二度と瓦工場には行かなかったという。

 井出は亀吉と野枝の関係性を、こう分析している。

 彼女は父亀吉の秘蔵っ子とみなにいわれていた。

 他の男の子たちには気むずかしい亀吉だったが、野枝にだけは怒った顔をみせたことがなかった。

「甲斐性なしの極道」といわれていた亀吉は、己れの感情の自由に生きた人であり、それゆえにそのつけを、貧乏や世間からの悪口などのかたちで受けとらねばならなかった。

 その頑固で悲しいおもいをわかちあってくれるのは、妻でも母でもなく、むしろ幼い娘の野枝であった。

 野枝には父と同質の感受性があり、それゆえ父の感情の内側に入り、いわば同志といってもいい信頼が二人の間でできあがっていたのではなかろうか。

 父親ゆずりのゆたかな感受性を受けついだことによって、野枝は貧しいくらしの中に育ったにもかかわらず、つやと魅力にみちた女として成長した。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p20)

 このころの野枝にとって、男前で器用で芸達者な亀吉は自慢の父であり、尊敬の対象だっただろう。

 しかし、近代化が急激に進捗中の社会では、父のそうした能力は評価されない。

 感受性が強かった野枝は、なにかすっきりしないものを感じ始めていただろう。

 特に今宿瓦の工場主の使用人に対するゾンザイな態度にーー。

 金が人間を支配するようになった世の中にーー。

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」2回 日清戦争

2025年1月17日 金曜日

文●ツルシカズヒコ

 野枝が生まれた一八九五(明治二十八)年、辻潤は十一歳である。

 ネットサイト「辻潤のひびき」の「辻潤年譜」と『辻潤全集 別巻』(五月書房)の「辻潤年譜」によれば、辻は一八八四(明治十七)年十月四日、東京市浅草区向柳原町で生まれた。

 父・六次郎(〜一九一〇)と母・美津の第一子、長男である。

 辻は浅草区猿尾町の育英小学校尋常科に入学したが、十一歳のころは三重県津市にいた。

 野枝が生まれた一八九五年一月、辻は津市内の尋常小学校四年である。

 辻一家が東京から津に移住したのは、父・六次郎が親戚筋の三重県知事を頼り三重県庁に奉職したからである。

 辻一家は津には三年ほど滞在したようだが、そのころ辻は賛美歌に惹かれてキリスト教の講義所(教会)に通っていた。

 やがて日清戦争というものが始まった。

 国民の排外熱は恐ろしく炎え立った。

 恐らく自分の中にも愛国的熱情が萌したものか、あるいはクラスメートの迫害が恐ろしくなったのか、いつの間にか私は講義所通いを中止にした。

 一家が再び東京へかえったのは、たぶん明治二十七年、戦争中の間だと記憶する。

(「ふりぼらす・りてらりや」/『辻潤全集 四巻』_p271)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉栄は一八八五(明治十八)年一月十七日、父・東(あずま/一八六〇〜一九〇九)と母・豊(とよ/一八六三〜一九〇二)の第一子として香川県丸亀町で生まれた。

 父・東は丸亀十二連隊の陸軍少尉であったが、大杉が生まれた年の六月ごろ近衛三連隊に転属になり、大杉一家は東京市麹町区番町に移り住んだ。

 大杉は三歳のころ、東京府立麹町区富士見小学校付属幼稚室に入っている。

『日録・大杉栄伝』(p13)によれば、大杉が富士見小学校付属幼稚室で「六ケ月保育ヲ受ケタルヲ証ス」保育証書が保存されていて、一九八七(昭和六十二)年の同幼稚園創立百周年記念祭で展示されたという。

 一八八九(明治二十二)年、大杉が四歳のとき、父・東が歩兵十六連隊へ異動になり、大杉一家は新潟県新発田本村(ほんそん)に移住した。

 大杉の父・東は第二大隊副官(中尉)として日清戦争に出征、威海衛攻略で功を収めた。

 威海衛での激戦があったのは、一八九五(明治二十八)年一月末〜二月初めであり、ちょうど野枝が生まれたころだったが、大杉はこのとき十歳、新発田本村尋常小学校四年である。

 新発田本村尋常小学校は、現在の新発田市立外ヶ輪(とがわ)小学校であるが、ウィキの「著名な出身者」に大杉栄の名前はない。

 大杉は父・東から母・豊に宛てた威海衛の激戦を伝える手紙について、こう記している。

 或日僕は学校から帰つて来た。

 そしていつもの通り『たゞ今』と云つて家にはいつた。

 が、それと同時に僕はすぐハツと思つた。

 母と馬丁のおかみさんと女中と……長い手紙を前にひろげて、皆んなでおろ/\泣いてゐた。

 僕はきつと父に何にかの異状があつたのだと思つた。

 僕は泣きさうになつて母の膝のところへ飛んで行つた。

『今お父さんからお手紙が来たの。大変な激戦でね、お父さんのお馬が四つも大砲の弾丸に当たつて死んだんですつて。』

 母は僕をしつかりと抱きしめて、赤く脹れあがつた大きな目からぽろ/\涙を流して、其の手紙の内容をざつと話してくれた。

(大杉栄「自叙伝・最初の思出」・『改造』1921年9月号/大杉栄『自叙伝』_p34・改造社/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p34 ※引用は改造社『自叙伝』)

 ちなみに『日録・大杉栄伝』の著者、大杉豊(一九三九〜)は大杉栄の次弟・勇の子息である。



 平塚らいてうは一八八六(明治十九)年二月十日、会計検査院勤務の父・定二郎(一八五九〜一九四一)と母・光沢(つや/一八六四〜一九五四)の間に、東京市麹町区三番町で生まれた。

 らいてうは第三子、三女だったが長女が夭折、らいてうよりひとつ年上の次女の名は孝(たか)、らいてうの本名は明(はる)。

 天皇崇拝者であった父・定二郎が孝明天皇の名にあやかり、次女に「孝」、三女に「明」と命名したのである。

 一八九〇(明治二十三)年、四歳のらいてうは富士見小学校付属幼稚室(幼稚園)に入園しているが、大杉は前年に同園を卒園しているので、らいてうと大杉は一年違いの同窓ということになる。

 一八九四(明治二十七)年、平塚一家は本郷区駒込曙町一三番地に移転したので、らいてうは富士見小学校から誠之(せいし)小学校に転校した。

 日清戦争が終結したとき、らいてうは誠之小学校尋常科四年だったが、クラス担任の二階堂先生という青年教師が黒板に書いた文字が、忘れがたい記憶として残ったという。

 ……露、英、仏の三国干渉のため、戦勝日本が当然清国から割譲されるべきであった遼東半島を熱涙をのんで還附したことの次第を、わかり易く、じゅんじゅんと語り、「臥薪嘗胆」を子供心に訴えられたことでした。

 教室には極東の地図がかけてありましたが、それはいうまでもなく遼東半島のところだけ赤く塗りつぶしたものでした。

 話しながら先生が黒板に、特に大きく書かれた「臥薪嘗胆」の文字は今も心に浮びます。

(平塚らいてう『わたくしの歩いた道』/『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』_p27~28)

 誠之小学校は現在の文京区立誠之小学校であり、ウィキの「主な出身者」にはらいてうの名も連なっている。




 
 日清戦争が終結して朝鮮から帰った野枝の父・亀吉は、女児の誕生に喜び、野枝は父親の秘蔵っ子になった。

 野枝はやんちゃで元気がよかった。

 野枝の三女・野澤笑子(エマ)が書いている。

 ……自分の気に入らないと大声で泣き喚く。

 大きな口を横にひらいて丁度七輪の口のような形になるので、二人の兄は「ほーら、七輪が熾(おこ)ってきたぞ。団扇持って来い」と、泣いている妹の口もとでバタバタと煽いでからかっていた。

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)

★『辻潤全集 別巻』(五月書房・1982年11月30日)

★『辻潤全集 四巻』(五月書房・1982年10月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16)

★大杉栄『自叙伝』(改造社・1923年11月24日)

★大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』(1925年7月15日)

★平塚らいてう『わたくしの歩いた道』(新評論社・1955年3月5日)

★『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(日本図書センター・1994年10月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」1回 今宿

2025年1月15日 水曜日

文●ツルシカズヒコ

 伊藤野枝は一八九五(明治二十八)年一月二十一日、福岡県糸島郡今宿村大字谷一一四七番地で生まれた。

 現住所は福岡市西区今宿一丁目である。

 戸籍名は「ノヱ」。

 野枝が生まれる直前の伊藤家の家族構成はーー。

 祖母(父・亀吉の母)・サト(五十三歳)

 父・亀吉(二十九歳)
 
 母・ムメ(二十八歳)

 長男・吉次郎(五歳)

 次男・由兵衛(三歳)

 五人家族だが、野枝が生まれたこのとき、父・亀吉は不在だった。

 前年八月に始まった日清戦争に軍夫として徴用され朝鮮にいたからである。

 野枝の四女・王丸留意(ルイズ/離婚後、伊藤ルイに改名)は、祖母・ムメから伝え聞いていた話を、井出文子にこう語っている。

 母が生まれた夜はとても寒い晩でみぞれまじりの雪がふっていました。

 祖父はいなくて産婆さんも呼べなかったので、祖母はひとりで母を産んだそうです。

 そのときの産声があまりに大きかったので、祖母はたぶん男の子だろうと思ってほうっておいたのだそうです。

 男の子はもうふたりもいましたし、暮しもらくでなかったからどうでもいいという気持ちだったのでしょう。

 そのあとで男の子に呼ばれて祖母の姑になる曽祖母がきてくれて、よくみますと赤子は女の子だったので、曽祖母ははじめての女子じゃとよろこび、産湯をつかわしたりして、それで赤子は生命(いのち)をまっとうしたのだそうです。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p12)

 野枝の三女・野澤笑子(えみこ/エマ/一九二一〜二〇一三)はこう記している。

 母、伊藤野枝が生まれたのは明治二十八年一月、当時でも珍しい大雪の未明であった。

 父親は日清戦争に出征中で、びっくりする程大きな産声をあげた。

 上に二人の男子がおり、昔の人は暢気なもので祖母のサトは、「又、男ぢゃろう、夜が明けてから産婆を呼べばいい」と言う。

 それでも母親のムメはそっと蒲団を持上げて見て、女の子であることを告げると素破一大事とばかり、祖母はとび起きて産婆へ走るやら、お湯を沸かすやら大騒ぎを演じたという。

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)

 野枝の遺児たちが母・野枝が生まれたときのことを知っているのは、大杉栄と野枝が虐殺された後、遺児たちが野枝の今宿の実家に引き取られ、そこで育ったからだ。

 野枝が虐殺されたとき、三女・エマは二歳、四女・ルイズは一歳だった。

 母・野枝についての記憶がまるでない孫たちに、ムメは野枝の思い出を繰り返し繰り返し語って聞かせていたのである。

 それは無意識だったとしても、野枝の記憶を風化させたくないという、ムメの願いがあったからなのだろう。

 野枝の父・亀吉と母・ムメの間には野枝の下にも四人の子供が生まれた。

 祖母・サト(一八四二〜一九二二)
 
 父・亀吉(一八六六〜一九三六)
 
 母・ムメ(一八六七〜一九五八)

 長男・吉次郎(一八九〇〜一九〇八)
 
 次男・由兵衛(一八九二〜一九六七)
 
 長女・野枝(一八九五〜一九二三)
 
 次女・ツタ(一八九七〜一九七八年六月)

 三男・信夫(一九〇六/夭折)
 
 四男・清(一九〇八〜一九九一)
 
 五男・良介(一九一六/夭折)

 伊藤家は祖母・サトを入れて総勢十人家族ということになるが、三男・信夫と五男・良介は夭折し、長男・吉次郎も野枝が十三歳のときに満州で病死(十八歳)しているので、野枝が成人した後の伊藤家は七人家族であった。

 祖母・サトは野枝が虐殺される前年、一九二二(大正十一)年に八十歳で死去。

 父・亀吉=七十歳、母・ムメ=九十一歳、次男・由兵衛=七十五歳、次女・ツタ=八十一歳、四男・清=八十三歳。

 伊藤家の人々が永眠した年齢を見ると、多産多死時代の「多死」を逃れた面々は総じて長寿だった。

『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』、井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、 伊藤家は海産物問屋・諸国廻槽問屋を営む「萬屋」(よろずや)という屋号の旧家であり、幕末から明治初期にかけての曽祖父・儀八(一八〇六〜)の代に、主要な貢米取扱地だった今宿において家業は最盛を迎えた。

 しかし、祖父・與平(一八三五〜一八八四)の頃から没落し始め、父・亀吉の代になってからいよいよ家業は思わしくなくなっていた。

 長女に「ノヱ」と命名したのは、伊藤家の家業全盛時に生きた野枝の曽祖母・ノヱにあやかり、家業再興の願いがこめられていたからである。

 野枝の曽祖父・儀八は、九州男児の度胸一本で荒海に乗り出し財を成した。

 松原に茶室を設けたり、他に土地や船なども持っていた……。

 しかし、政治、社会の変革はこの商家の繁栄を奪い、儀八の死後与平が相続し、またその六年後一八九一(明治二十四)年に家督を野枝の父亀吉が継いだときには決定的に家は没落した。

 戸籍をみると亀吉の相続と前後して、亀吉の妹マツ、モト、キチの二十歳をかしらにした三姉妹は、熊本、三池などに分家または養女として離籍されている。

 これは彼女たちが結婚してのことではなく、おそらく一家の窮乏を救うためのものらしい。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p14)

 亀吉は家督を継ぐとともに、今宿村の農民・若狭伊平(伊六ともある)の次女・ムメと結婚した。

 今宿村について、野枝はこう記している。

 私の生まれた村は、福岡市から西に三里、昔、福岡と唐津の城下とをつないだ街道に沿ふた村で、父の家のある字(あざ)は、昔陸路の交通の不便な時代には、一つの港だつた。

 今はもう昔の繁栄のあとなど何処にもない一廃村で、住民も半商半農の貧乏な人間ばかりで、死んだやうな村だ。

 此の字は、俗に『松原』と呼ばれてゐて戸数はざつと六七十位。

 大体街道に沿ふて並んでゐる。

(「無政府の事実」/『労働運動』1921年12月26日・3次1号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p654/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p310)

「無政府の事実」冒頭のこの文章の初出は、一九二一(大正十)年発行の『労働運動』なので、野枝が二十六歳のころの今宿である。

 街道とは唐津街道のことだ。

 野枝は明治維新から半世紀余を経た大正末期に、昔、つまり江戸時代の繁栄のあとなどどこにもない一廃村で死んだよう村だと今宿のことを書いているのである。

 ウィキペディア[今宿村(福岡県)]によれば、今宿村が発足したのは一八八九(明治二十二)年四月、今宿村が近隣と合併して糸島郡に編入されたのが一八九六(明治二十九)年四月。

 福岡市へ編入されたのは一九四一(昭和十六)年十月である。

 野枝の出生地は「糸島郡今宿村」とされているが、彼女の出生時には今宿村はまだ糸島郡に編入されていない。

 今宿の没落については井出文子の説明がわかりやすい。

 徳川幕藩体制のもとでは、この村は藩内交通の結節点として港を持ち、また唐津、長崎へむかう街道の宿場としても繁盛していたのである(糸島郡教育会編『糸島郡史』)。

 だが廃藩置県、経済流通経路の変化、鉄道の開通はこの村の繁盛をおき去りにした。

 明治中期にはいり北九州一帯の石炭産業の興隆をそばにみながら、この村はいわば陥没地帯として、今宿瓦などのささやかな産業をのぞいてはなにもない一寒村となっていった。

(井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p12)

 岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』によれば、福岡県糸島郡教育会編『糸島郡誌』は一九二七(昭和二)年に発行されているが、今宿村についてはこう記されている。

 今宿村は……現在戸数五〇〇、現在人口二、九四五なり。……明治四十三年北筑軌道敷設せられ、また大正十四年四月十五日北九州鉄道開通し交通大いに便なるに至れり。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p54)

 野枝の生家と育った家の現況(二〇一五年現在)については、田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(p114~)に詳しい。

 同書によれば、野枝の生家は現在「唐津街道……に面した住宅で、そこには製畳店の看板がかかっている。……生家の道路を挟んだ向かい側に役場」があるという。

 一九八五年ごろまで、野枝の育った家の木戸近くに「伊藤野枝生誕の地」という標柱があったが、郷土史家・大内士郎の調査により、それは野枝の生家ではなく育った家であることが判明した。

 野枝の育った家には現在、伊藤義行(野枝の甥/父は野枝の次兄・由兵衛?)が暮らしているという。

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」(學藝書林・2000年3月15日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★田中伸尚『飾らず、偽らず、欺かずーー菅野須賀子と伊藤野枝』(岩波書店・2016年10月21日)

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