「詳伝・伊藤野枝」第264回 茶ア公

文●ツルシカズヒコ

 亀戸で『労働新聞』を出していたこのころのある朝の出来事を、野枝は「化の皮」という作品にした。

 朝の七時ごろ、玄関の戸を開けている和田に、取り次ぎを頼んでいる男の声がした。

 野枝と大杉はまだ床の中にいたが、和田が名刺を持って来た。

 「法学士弁護士」という肩書きのYという男の名刺だった。

 野枝は起きるとすぐに台所に立ったので、その男の顔を見なかったが、座敷に入る後ろ姿を見ると、頑丈そうな体を持った男で黒紋付の羽織を着ていた。

 野枝が台所で朝飯を作り始めていると、座敷からチョイチョイ男の声がもれてきた。

 「ぜひ御意見をうかがいに……」

 「ひとつその主義の話をうかがいに……」

 大杉家に突然やってくる訪問者が、よく口にする決まり文句だった。

 野枝は最初、その男になんの注意も払わなかったが、尾行のことをしきりに気にし始めたので、「オヤ」と思った。

 尾行というと何か特別な存在と思いがちだが、普通の訪問者は案外、気にかけないものなのだ。

 その男の気のかけ方には、何かぎこちないものがあった。

 すると、その男はステッキや下駄を木戸の方にまわしてくれと言い始めた。

 大杉家の筋向こうに尾行の溜まり場があり、その溜まり場と大杉家の玄関は向き合っていて、大杉家の勝手口の出入口も、溜まり場から丸見えだった。

 尾行の溜まり場から見えない出入口は、庭の隅にある木戸だけだった。

 ステッキと下駄を持った和田が台所の敷居のところに来たとき、野枝は和田に近づき和田が持っている駒下駄をひっくり返してみた。

 下駄の裏にはKという名前が書いてあった。

 Kが本名なのである。

 野枝と和田は「さては!」という思いでうなづき合った。

 和田はいたずらそうな、嬉しそうな、妙な表情をして少し笑いながら、白い鹿革の鼻緒をすげた平ったい下駄を表へ返したり裏を見たりしていた。

 「じゃあ、私ちょっと知らせるから、ここに置いといて–––」

 和田がその下駄を台所の板の間に置き、野枝は座敷の隣りの六畳に入っていった。

 「あなた……」

 「なんだ」

 「ちょっと……」

 台所に立って来た大杉に、野枝は下駄の裏を返して突き出した。

 「うむ……」

 大杉はちょっとうなづき、すぐにまた座敷に戻った。

 野枝は台所で忙しく手を動かしながら、座敷の話に注意していた。

 十分もすると、大杉がはっきりとした声で切り出した。

「君は僕を初めてだというが、僕は君を知っているんだが。しかも、名刺にある名前でなく、他の名前の人間として……」

 「えっ、ど、どういう名前で……」

 客の声はおびえていた。

 野枝も和田も襖越しに聞いたこの声で、この客が偽名を使っていることを確信した。

 ちょっとの間の沈黙の後、大杉の底力のある声がした。

 「こういう名前で知っている」

 大杉はKの名前を書いた紙を差し出した。

 「どうしてこの名前をご存知ですか? 実に不思議です……」

 しどろもどろになった男を圧するような、大杉の言葉が続いた。

 「君はKに違いないだろう」

 「今はYというんです。Kというのは私の母親の里の姓で、いっときそう名乗っていたこともあるのですけれども。どうして先生がそれを……」

 「古い話は知らない。僕は君をKとう姓で知っているんだ」

 大杉のあくまで圧(おし)の強い声が響いた。

 「実に意外です、先生がどうしてそれを知っているのか。ぜひそれをうかがわさせて下さい」

 「そんなことを言う必要はない」

 大杉がキッパリと極(き)めつけた。

 「は……」

 客の声はだんだん低くなり、情けなくなってきた。
 「じゃ、失礼いたします」

 客が立ち上がりかけると、大杉が大きな声で野枝たちに向かって怒鳴った。

 「帰る? おい、下駄はまわしたか?」

 「いや、けっこうです。なにとぞ、そのままでよろしいのです」

 客がドギマギしてる間に、すばしこい和田が客のステッキと下駄を玄関に戻した。

 客が帰った後、客に少し遅れて来た村木を交え、みんなで大杉の周りを囲んだ。

 「あいつ、Kと書いて見せてやったら、真っ青になって慄(ふる)え出しやがったよ」

 「まさか、下駄の裏からバレようとは思わなかったでしょうからね」

 みんな一緒になって笑い出した。

 「よく、でも気がついたね」

 大杉がそう言うと、野枝と和田は顔を見合わせて笑った。

 机の上にあった客の名刺を手にして、和田が言った。

 「汚い名刺だな。間に合わせに、いい加減な名を刷らしたんですね」

 「あの男どこにいるの?」

 野枝が名刺をのぞくと、それには「吾嬬あづま)村請地(うけじ)」とあった。

 「なあに、これだっていい加減ですよ」

 和田がこともなげに言った。

 「君、ひとつ、つけてみないか。まだそう遠くはないだろう?」

 「そうですね」

 大杉がそう言うと、和田はまたさっきのような無邪気なイタズラ好きの顔つきになって、ちょっと首を傾げた。

 「だけど奴、今、僕の顔を見たばかりだからな」

 「大丈夫だよ、僕のその外套を着て帽子をかぶってみたまえ」

 和田はさっそく体に合わない、大きな引きずりそうな外套を着て帽子をかぶった。

 「わからない、大丈夫」

 村木がそう言うと、和田は木戸口を出て、尾行に見つからないように出て行った。

 「用心しないと、まかれるぞ!」

 木戸を出ようとする和田の後ろから、大杉が笑いながら冷やかした。

 Kの素性を探ろうと筋向かいの尾行の溜まり場に行った村木が戻って来て、懐手をしながら、いつものように静かな調子でゆっくりと話し出した。

 「あいつ、ここの署の奴じゃないようだ。『今来てるKって奴は君の署の仲間か』って聞いたら、『亀有署にはKという姓の者はいません。本庁じゃありませんか』って言ってた。僕が『Kがいじめられているから、もし君らの仲間なら、少しは可哀そうだから助けようと思って聞きに来たんだ』って言ったら、やっぱり『知りませんなあ』なんて顔見合わせていた」

 野枝が大杉に聞いた。

 「私、ちっとも顔も見ないでわかりませんでしたけれど、変な奴だってことはわかっていたんですか」

 「初めはそうも思わなかったけれど、法学士なんて肩書きを持っていながら、あんまり物を知らないから、だんだん変に思い出していたところに、あなたに呼ばれたんだ」

 「そう言えば、ちょっと小耳に挟んだだけだけど、モオラルなんて言葉さえ知らなかったようですね」

 「ああ、それどころか、もっと下らないことを知らないんだ。どうもおかしいと思った」

 「そう、様子は」

 「うん、スパイにしては上出来かもしれない。顔もちょっとそんな風には見えなしい、着物も辻褄の合うものを着ていたよ」

 「きっと、一生懸命になって上等な奴をよこしたんでしょう」

 「なあに少ししゃべらせれば、種の上がるのはじきだ。本当にもっと骨のある、悧巧な奴がたまには来ないかな。少しバレかけると、真っ青になって慄(ふる)えるようなのじゃしょうがないからなあ」

 「どうしてそんなに慄(ふる)えるのでしょう?」

 「どうしてこっちで知っているのか、気味が悪いのさ。何をされるのかわからないくらいに、思ったんだろうよ」

 野枝たちが朝飯をすまして少したつと、和田が下駄をヤケクソに引きずりながら帰ってきた。

 野枝たちはひと目で、和田が尾行に失敗したのがわかった。

 「どうしたい?」

 大杉が笑いながら聞くと、和田がガッカリしたような苦笑いを浮かべて、縁側から上がって外套を放り投げた。

 「見事まかれてしまった!」

 「え、まかれた? そいつはよかった」

 野枝たちは一緒に笑い出した。

 「どこでまかれて?」

 「だいぶ尾(つ)いて行ったんですよ。奴、ずいぶん注意して、振り返り振り返りして行くのをだいぶ尾けたんです。ところがね、茶ア公の奴がいけないんですよ。僕が出るのを見て、一緒にくっついて来たんです。いくら追い返そうとしても駄目なんです。どんどん先に走っちまいやがって。そして男が後ろを振り返るたびに、電柱だのなんかの陰に隠れるようにして立ち止まるでしょう。すると、茶ア公の奴、どんどん後戻りして来ちゃ、僕の前にチャンと腰を下ろして僕の顔を眺めるんです。仕様がありやあしない。もう向こうの奴に勘づかれたと思いましたけれど、とにかく天神様のそばまで行ったんですよ。そしてあの芸者屋なんかがある、あのへんの四つ角まで行くと、奴がこっちを向いて立っているんで、こりゃいけないと思って四、五引き返して、間をおいてまた行ってみると、もういないんです。馬鹿みちゃった。忌々(いまいま)しいなあ」

 「いいじゃありませんか、たまにはまかれるのも。あなたは毎日、尾行を忌々しがらせているんだから」

 野枝はそう言って笑った。

 「いや、本当に馬鹿見ちゃった。茶ア公の奴がついて来さえしなきゃ、うまくいったんだがなあ」

 「今ごろ、向こうじゃ、うまくまいてやったなんて大いに痛快がっているぜ」

 大杉と村木は和田にそんな嫌がらせを言って笑った。

 茶ア公とは、私の家の飼犬でポインタア種の大きな犬です。

 その時、朝飯前の散歩に連れられて帰って来た時と同じ調子で、前足を縁側にかけて、大きな図体でゐながら おかしい程甘つたれた小犬のような鼻声で食物をねだつてゐるのでした。

(「化の皮」/初出紙誌は不明だが一九一九年一月ごろの執筆と推測される/初収録は大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・1921年3月1日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p70)

 和田は亀戸時代の野枝について、こんな回想もしている。

 野枝さんは酒も少々は呑んだ。

 顔をぽつとさせて、爪引きなんかしてゐる姿を、二三度亀戸で見た事もあつた。

 歌劇の歌のやうな声で『勧進帳』や『槍さび』をうたふのも聞いた事があつた。

(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』1923年11・12月号)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

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