「詳伝・伊藤野枝」第282回 築地署(二)

文●ツルシカズヒコ

 野枝は魔子をしっかりと背負い、服部浜次の次男・麦生と、うまく逃れて来た若い同志の寺田鼎(かなえ)を連れて服部浜次の家を出た。

 野枝たちは途中、おおぜいの検束者への食べ物の差し入れを調達し、走るように築地署に向かった。

 面会を求めた署長はなかなか出て来なかった。

 検束された人々の中には、夕食をすましていない者がかなりいた。

 野枝が時計を見ると、夜の九時をとうに過ぎている。

 野枝はじりじりした。

 無遠慮な巡査たちの視線が、野枝たちに集中していた。

 野枝はそれも不愉快だった。

 「今、ちょっと話し中ですから、それがすめばすぐにお目にかかります」

 しかし、署長はなかなか現われなかった。

 検束されている人たちの食べ物を抱えた野枝も、いつ現われるかわからない署長を、ベンベンと待ってはいられなかった。

 まず食べ物を差し入れたかった野枝は、和服の高等視察らしい男を通じて、署長に交渉させようとした。

 しかし、「承知しました」と言っても、署長室に入って行く気配もない。

 「今、ちょっとお話し中ですから、少々の間お待ちください」

 前と同じことを言って、ぐずぐずしている。

 野枝はみんなが騒いでいるのだと思い、そこにじっと立っていた。

 だいぶたってから、署長室の扉が開いた。

 署長と警部補らしき男が出てきて、ふたりが隣りの応接室に入ると、小使いがお茶を運んだりし始めた。

 署長はそこで食事をするらしかった。

 ふたりは笑いながらテーブルに向かって座っていた。

 しかし、高等視察はまだ署長に近寄れない。

 野枝はじりじりした。

 署長の食事が終わるのなど待ってはいられないと思った野枝は、直談判しようと、応接室の扉口(とぐち)に進んだ。

 こういう場合、案内なしに部屋に近づくことの無作法を、野枝は百も承知していた。

 そこには新聞記者連もいた。

 野枝は彼らの侮蔑のまとになることも平気だった。

「こんなところからはなはだ失礼ですが、あなたは署長さんでいらっしゃいますね」

 野枝は扉口に立って軽く一礼するとすぐに言った。

 署長はかすかに頷いた。

 「私は先刻からお目にかかりたいと思ってお待ちしているのですが、お目にかかるのは後でさしつかえありませんが、実は検束されている人たちがまだ夕食をすましていませんので、食べ物を差し入れたいと思いまして持ってまいりました。なにとぞお許しをいただきとうございます」

 署長は侮蔑を示して、野枝の顔から目を転じ、警部と顔を見合わせてニッと笑って言い合わせたように箸をとった。

 「今、署長はお食事中ですから、ちょっとお待ち下さい。すみましたら、なんとでもお話してあげますから」

 居合わせた巡査や視察が、野枝の前に立ちふさがった。

 署長の侮蔑に引き下がる野枝ではなかった。

 「私はあなた方に云つてるんぢやない。」

 私は巡査をおしのけた。

 「如何です署長さん、いゝんですか悪いんですかきめて下さい。私は待つてゐるんです。あなた方がさうやつて食事をなさるのもおなかゞすいたからでせう。中にはいつてゐるものもおなかをすかしてゐるんです。どうしてくれんです。もう十時ですからね。」

 署長は頑固にだまつてゐた。

 巡査はしきりに私を遮らうとする。

 「いけないんですか、いけなければはつきり云つて下さい。みんなをひぼしにするんですね。返事をして下さいな、返事がなければ分りませんからね。返事も出来ないんですか。」

 巡査はしきりと私をなだめる。

 何時の間にか私の後ろは人立ちで警察の玄関は一ぱいになつてゐた。

 「あなたがそんなに云はないでも、おなかがすいたと云ふのなら警察でいゝやうにしますから–––」

 「警察の世話なんかにはならない。そんな意地悪がしたいのならまあたんとするがいゝ。ひぼしにでもなんでもするがいゝ。今にその大きな顔の持つて来どころをなくさないやうにするがいゝ。」

 私は扉口を退いた出口の処まで来るとH(服部浜次)が、和服姿ではいつて来て入れちがいに視察達のつめてゐる室に案内されて行つた。

 私は激しいめまいに襲はれて玄関の入口にしやがんでゐた。

(「拘禁される日の前後」/『新小説』1919年9月号・第24年第9号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p90)

 「大杉さんに差し入れというのはなんなんですか?」

 野枝が振り返ると、受付のところに年老いた巡査が立っていた。

 骸骨に皮をかぶせたような、気味の悪いほど痩せた老人だった。

 野枝は服部浜次の次男・麦生に指図して、持って来たものを全部そこに出させた。

 「こんなにたくさん?」

 「だってみんなで十人からでしょう」

 「みんなに入れるんですか?」

 「みんなでなくて誰に入れるんです?」

 「大杉さんひとりということでしたが?」

 「冗談言っちゃいけませんよ。おおぜいで一緒にいるんじゃありませんか。なんだってひとりだけに入れるんです。ひとりに入れるくらいなら、よします」

 「でも、ひとりということでしたが?」

 「ひとりに入って、他の人には入らないんですか、どういうわけです? 私の方でひとりだけになどど、言った覚えはありませんよ」

 「じゃ、ちょっと聞いてみます」

 入れ違いに警視庁の高等課のKという、同志間で憎まない者はいないアバタ顔の視察がやって来て、寺田をとらえて言った。

 「じゃあ、これを君が持って入って、みんなに少し静かにするように言ってくれたまえ。どうもあばれてやりきれないから」

 野枝と寺田は留置場に入って行った。

 中では見回りに来た私服の刑事が何か気にいらぬことをしたというので、みんなで大騒ぎをして押し出そうとしているところだった。

 四つか五つ並んだ檻房の扉はひとつだけを残して、全部開け放されていて十四、五人の同志はみんなタタキの廊下に出て騒いでいた。

 野枝たちは食べ物を分けて、ことづてを聞いて、三十分ほどして外に出た。

 検束された人たちの半数は、その夜のうちに帰されて来た。

 留置場に残留になったのは大杉、荒畑、近藤憲二など十数名だった。

『日録・大杉栄伝』によれば、彼らは深夜三時ころまで革命歌を歌って騒いだという。

 野枝たちが差し入れたのはパンや桃だった。

★大杉栄・伊藤野枝らの共著『悪戯』(アルス・1921年3月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

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