伊藤野枝 1895-1923 第1回「伊藤野枝誕生」 文・ツルシカズヒコ 


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伊藤野枝は1895年(明治28年)1月21日、
福岡県糸島郡今宿村大字谷1147番地
(現・福岡市西区今宿1126番地)で生まれた。
戸籍名は「ノヱ」。

とりあえず、
野枝生誕から彼女が勤務先の今宿郵便局を辞めて
上京するまでを追ってみたいのだが、
主に以下の資料を参照引用しながら進めてみたい。

●岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社/1963年1月5日)

●瀬戸内晴美(寂聴)『美は乱調にあり』(角川書店/1969年8月20日)
これは『文藝春秋』の連載(1965年4月から12月)が単行化(1966年)、
さらに文庫(1969年)になったものである。

●井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房/1979年10月30日)

●松下竜一『ルイズーー父に貰いし名は』(筑摩書房/1982年3月10日)

●『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林/2000年12月15日)

●矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房/2012年10月30日)

野枝が生まれる直前の伊藤家の家族構成は、
父・亀吉(29歳)、母・ムメ(28歳)、
長男・吉次郎(5歳)、次男・由兵衛(3歳)、
祖母(亀吉の母/53歳)・サト。

しかし、亀吉は前年8月に始まった日清戦争に
軍夫として徴用されていて不在だった。

『自由それは私自身』によれば、
野枝が生まれたときの様子を
王丸留意(野枝の四女・ルイズ/離婚後、伊藤ルイに改名)が
井出文子に語っている。
王丸留意は祖母・ムメから伝え聞いていたのである。

〈母が生まれた夜はとても寒い晩でみぞれまじりの雪がふっていました。
祖父はいなくて産婆さんも呼べなかったので、
祖母はひとりで母を産んだそうです。

そのときの産声があまりにに大きかったので、
祖母はたぶん男の子だろうと思ってほうっておいたのだそうです。
男の子はもうふたりもいましたし、
暮しもらくでなかったからどうでもいいという気持ちだったのでしょう。

そのあとで男の子に呼ばれて祖母の姑になる曽祖母がきてくれて、
よくみますと赤子は女の子だったので、
曽祖母ははじめての女子じゃとよろこび、
産湯をつかわしたりして、
それで赤子は生命(いのち)をまっとうしたのだそうです。〉

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』の「月報1」には、
野澤笑子(えみこ/野枝の三女・エマ)の
「子供の頃の母」と題する一文が掲載されている。
大杉栄らの墓前祭実行委員会編『自由の前触れ』
関東大震災70年・大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺記念誌、
『沓谷だより』特別号(1993年9月)より転載されたものである。

〈母、伊藤野枝が生まれたのは……
当時でも珍しい大雪の未明であった。
……びっくりする程大きな産声をあげた。

……昔の人は暢気なもので祖母のサトは、
「又、男ぢゃろう、夜が明けてから産婆を呼べばいい」と言う。

それでも母親のムメはそっと蒲団を持ち上げて見て、
女の子であることを告げると素破一大事とばかり、
祖母はとび起きて産婆へ走るやら、
お湯を沸かすやら大騒ぎを演じたという。〉

野枝の遺児たちが
母親が生まれたときのことを知っているのは、
大杉栄と野枝が虐殺された後、
遺児たちが野枝の今宿の実家に引き取られ、
そこで育ったからだ。
野枝の母・ムメは娘(野枝)の
子供のころの出来事を、
孫たちに繰り返し語って聞かせていたのである。

伊藤野枝 1895-1923 index

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