ポチのクレヤン編集長日記:ポチことツルシカズヒコが書く身辺雑記
母の葬儀
宮城県美里町の「やすらぎホールみさと」にて母の葬儀。
以下、喪主である私の挨拶です
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遺族を代表し、みなさまにひと言ご挨拶を申し上げます。私は故・靍師すゑ子の長男・一彦でございます。本日はご多忙中のところ、そして年の瀬の慌ただしい中、ご会葬、ご焼香を賜りまして、心からお礼申し上げます。みな様にお見送りいただき、故人もさぞ喜んでいると存じます。
母・すえ子は大正9年、岩手県唐仁村、現在の釜石市で生まれました。尋常小学校4年生の時に、一家とともに宮城県女川町に引っ越し、高等小学校卒業後、仙台にある東北帝国大学医学部附属医療看護婦養成所に入学しました。同医療看護婦養成所の寄宿舎で過ごした4年間は、日支事変の最中ではありましたが、母にとって青春時代の忘れがたい思い出だったようで、90歳を過ぎてなお、その時代の話をしてくれました。
正看護婦と助産婦の資格を取得し、同医療看護婦養成所を卒業した母の人生は、職業婦人、今でいうキャリアウーマンの人生だったと思います。母は看護婦として約20年間働きました。一時、子育てのために家庭にいた時代もありましたが、昭和49年に父が急死した後も一家の柱として働き、結局、63歳まで現役の看護婦でした。母という人間をひと言で表現するならば「自立心の強い人」と言えると思います。
ボランティア・グループ「かけはし」代表・千葉千代様からいただいた弔辞にもありましたように、母は仕事を辞めた後も、美里町のボランティア活動に積極的に参加しておりました。
元看護婦だったこともあり、健康には人一倍気を使っていた母でしたが、83歳の時に直腸ポリープ切除手術をし、8年前の85歳の時にはS字結腸穿孔の緊急手術をし、その後はストーマをつける生活を続けておりました。そのストーマのケアも可能な限り自分の手でやろうとしていた母の姿には頭が下がる思いでした。
また、そのころから長くに渡り、東京の自宅と美里町の実家を行き来して、母の介護に努めた故人の長女・靍師えい子の苦労もひとかたならぬものがあったと思います。
昨年3月に手術した後、母は入退院を繰り返しておりました。今年の11月半ばに大崎市民病院に入院し、11月末に大崎市の三浦病院に転院。12月24日、午前0時30分に三浦病院で息を引き取りました。享年94歳でした。
これから故人の遺志にそうよう遺族一同、努めていく所存でございます。みな様には、故人同様のお付き合いとご指導を賜りますようお願い申し上げます。
簡単ではございますが、これをもちましてお礼に代えさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。
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