「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」3回 万屋がお

文●ツルシカズヒコ

野枝の風貌や資質は祖母・サト(父・亀吉の母)、父・亀吉の血を受け継いでいた。

 野枝さんのお父さんは……漁、挿花、料理、人形造り、音曲、舞踏等、何れも素人離れがしてゐる程の趣味に富んだ人である。

 就中、音曲に秀で、土地でのお師匠さん格である。

 野枝さんの祖母は、幼少から文学を好み、学制設定前に、夜、付近の子女を集めて、女大学または手習ひを教へてゐたほどであつたから、その薫陶も尠なくなかつたであらう。

 また祖母は音曲に趣味を持ち、老後までもそれを捨てなかつた。

 八十近くなつても、村のお祭りには屋台に上つて真先に踊つたほどであつた。

 従つて野枝さんも、七八歳の頃から音律を解し、三味線を弄んでゐた。

(「伊藤野枝年表」_p3~4/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)

「伊藤野枝年表」を執筆したのは、『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』の編集に携った近藤憲二と思われる。

『炎の女 伊藤野枝伝』の著者、岩崎呉夫が今宿に取材に訪れたのは、一九六二(昭和三十七年)年八月だと推定される。

 岩崎はこのとき、野枝の次兄・由兵衛(当時七十歳)や野枝の叔母・代キチ(一八七六〜一九六六)などに会い話を聞いている。

 代キチは明治九年生まれ(『炎の女 伊藤野枝伝』_p62)なので、当時八十六歳。

 由兵衛もまた野枝の血はサトと亀吉のそれを引き継いでいると語っている。

 亀吉は……生来の芸道楽で、音曲、歌舞、人形つくり、料理などの上手として村内ではその器用さをもてはやされていたという。

 野枝の顔つき、文才、芸才、書の手筋、気質などは、ほぼこの血の流れを受けているようだ。

 サトは今宿の隣りの姪ケ浜村の素封家、藤野武平の二女だが、若いころから文芸趣味にすぐれ、与平に嫁いでからも近所の子弟を集めて習字や勉強をみてやっていたという。

 また芸事も達者で、村の祭りの折などはお師匠さん格であったらしい。

 気性ははげしく、男まさりだった。

 父の亀吉はそのサトの血をうけて、前述したように多芸多彩な器用人で、俳句を巧みにし、この村での師匠格だったという。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p57~p59)

 野枝の父・亀吉は美男子として通っていた。

「万屋(よろずや)がお」と村人たちがいっていたのは、この一族に特有の彫りの深い顔立ちのことである。

 鼻筋がとおっていて、眉と眼がややせまっており、眼のまわりの線がくっきりと黒い南国的な風貌である。

 この顔立ちは野枝の兄妹や、野枝の子どもたちにも伝えられている。

井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p15)

 一九〇〇(明治三十三)年、野枝が五歳のころ、亀吉は家業再興をはかり、農産物加工の事業を始めるが失敗に終わった。

 野枝が小学校に入る頃には谷の家屋敷を手放し、東松原の海沿いの借家に移り、手先の器用な亀吉は近在の瓦工場の職人になった。

 亀吉は生来の芸道楽のうえ、職人としての腕も良かったが、気に染まぬ仕事はしないという人だった。

 そのため一家の生活のほとんどをムメが担っていた。

(「伊藤野枝年譜」/『定本 伊藤野枝全集 第四巻』_p505)

 ムメは家運の没落、夫の出奔、子だくさん、そうした不幸を背負いながら、働きもの、出稼ぎで有名な「糸島女」の名にふさわしく、堤防工事の日雇いや農家の手間仕事などに出て、この一家を支えた(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』p15~16)。

「近在の瓦工場」というのは、今宿瓦を造る工場である。
 

 もともとこのあたりは、伊万里あたりからの技術が伝えられたものか、瓦では全国有数の地であり、かつて皇居造営のさい全国コンクールで「今宿瓦」は第三位にはいった記録が残っている。

(岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』_p58)

 福岡市博物館HPによると、今宿で瓦生産が開始されたのは十七世紀ごろで、福岡城へ献納されるほどの品質の高さだった。

 一八八四(明治十七)年からの皇居造営にあたっても、献上した今宿瓦の見本が高い評価を得た。

 しかし、昭和の初めには二、三軒が瓦の製造を行なう程度になり、一九八〇年代前半に今宿での瓦製造は終わりを迎えた。

 日本の一般家屋に瓦ぶきが普及したのは明治に入ってからで、今宿瓦の最盛期もおそらくそのころだったのだろう。

 福岡市博物館のHPには亀吉が「名人肌」だった鬼瓦の写真も載っている。

 亀吉が今宿瓦の職人だったころのエピソードを、野澤笑子(野枝の三女・エマ)が伝え聞いている。

 サトとムメが台所で亀吉の陰口を言っていると、野枝が「父ちゃんに言い付けてくる」と駆け出したという。

 サトとムメは学齢にも達しない女の子が、一里もある行ったことのない父親の仕事場に行けるわけがないと放っていたが、夕方近くになっても戻ってこない。

 ふたりは不安になったが、野枝は父親に手を引かれ意気揚々と帰って来た。

 野枝が言うにはーー。

「一人で西へ向かって歩いてゆくとだんだん足が痛くなって来た。すると後から荷馬車が来て馬方のおじさんが何処へゆくのかと聞くので、高田の瓦工場へ父ちゃんを向(ママ)かえに行くと言ったら、小さい子供が歩いては無理だと乗せてくれた」

(野澤笑子「子供の頃の母」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」)

同じエピソードを野枝の妹・武部ツタが、井出文子に語っている。

 亀吉の留守をいいことに、祖母と母が世間話のあげく、亀吉の甲斐性なしを嘆きあしざまに罵った。

 そのころ亀吉は村人たちから「甲斐性なしの極道」と呼ばれていたのである。

 野枝は幼いながら父が非難されているのがわかると、父への同情が抑えきれず、家を出て瓦工場に向かった。

 夕暮れもせまって不安になってきたころ、亀吉が帰ってきた。

 亀吉の背には気持ちよさそうにねむりこけている幼い娘がいた。

 その顔をみて、母親はハッと昼間の鬱憤ばらしをおもいだした。

 そして恐いおもいで娘を見直したというのである。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p19)

 井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(p19)によれば、ツタは亀吉が瓦工場の職人だったころのエピソードをもうひとつ、井出文子に語っている。

 亀吉は腕のいい職人で特に「鬼瓦」を作る腕は「名人肌」と言われていたが、気分屋で気が向かないと仕事に出かけないし、給金も自分で取りに行かない。

 瓦工場に給金を取りに行くのは母かツタだったが、野枝も一度取りにやらされたことがあった。

 工場には瓦や粘土がうず高くつみあげられ、暗くしめった土間のむこうには一段と高い座敷があり、四角火鉢のまえに工場主がどっかりと坐り、くわえぎせるで紙でひねった金を投げてよこすのである。

 野枝はその後、二度と瓦工場には行かなかったという。

 井出は亀吉と野枝の関係性を、こう分析している。

 彼女は父亀吉の秘蔵っ子とみなにいわれていた。

 他の男の子たちには気むずかしい亀吉だったが、野枝にだけは怒った顔をみせたことがなかった。

「甲斐性なしの極道」といわれていた亀吉は、己れの感情の自由に生きた人であり、それゆえにそのつけを、貧乏や世間からの悪口などのかたちで受けとらねばならなかった。

 その頑固で悲しいおもいをわかちあってくれるのは、妻でも母でもなく、むしろ幼い娘の野枝であった。

 野枝には父と同質の感受性があり、それゆえ父の感情の内側に入り、いわば同志といってもいい信頼が二人の間でできあがっていたのではなかろうか。

 父親ゆずりのゆたかな感受性を受けついだことによって、野枝は貧しいくらしの中に育ったにもかかわらず、つやと魅力にみちた女として成長した。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p20)

 このころの野枝にとって、男前で器用で芸達者な亀吉は自慢の父であり、尊敬の対象だっただろう。

 しかし、近代化が急激に進捗中の社会では、父のそうした能力は評価されない。

 感受性が強かった野枝は、なにかすっきりしないものを感じ始めていただろう。

 特に今宿瓦の工場主の使用人に対するゾンザイな態度にーー。

 金が人間を支配するようになった世の中にーー。

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★岩崎呉夫『炎の女 伊藤野枝伝』(七曜社・1963年1月5日)

★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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