「詳伝・伊藤野枝」第165回 フランス文学研究会

文●ツルシカズヒコ

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『平民新聞』を出せなくなった大杉と荒畑は、そのころサンジカリズム研究会を発展させた平民講演会を主宰していた。

 平民講演会は労働者を引きつけ新入会者を受け入れ、運動を前進させる橋頭堡だった。

 大杉らは平民講演会の会場を確保するため、水道端の大下水彩研究所を借りて平民倶楽部と命名。

 大杉が大下水彩研究所の家賃を稼ぐために始めたのが、「仏蘭西(フランス)文学研究会」だった。

 ……生徒に宮嶋夫妻、神近市子、青山菊栄、尾竹紅吉、西村陽吉、山田吉彦(きだみのる)らがいた。

 ……十月ころ、慶応の学生・野坂参三が、サンジカリズム研究のためにフランス語をマスターしようと……研究会に出席している。

(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p156)

 神近は当時、『東京日日新聞』社会部の記者だった。

 その職を得たのは前年(一九一四年)、紅吉と文学雑誌『蕃紅花』(さふらん)を創っているころだった。

 『神近市子自伝 わが愛わが闘争』によれば、神近は紅吉の紹介で『東京日日新聞』小野賢一郎記者に会い、ジャーナリズムの道を歩むことになった。

 神近が大杉と初めて面会したのは、新聞記者としての取材だった。

 宮嶋資夫夫人の麗子(旧姓・八木)は『蕃紅花』時代の同人仲間だったので、宮嶋夫妻の家に出入りしているうちに、神近は次第に社会主義に興味を持ち始めた。

 そのうち宮嶋夫妻と一緒に平民講演会やフランス文学研究会にも参加するようになったのである。

 山川(青山)菊栄が「フランス文学研究会」の回想をしている。

 ある日神近市子さんが来て、大杉さんのフランス語の夏期講習会に出てみないかと誘われ、私はその前から独学でフランス語を少しかじっていたのでいくことにしました。

 クラスは二つ。

 上級には私のほかに一人か二人の男の学生。

 テキストはフランスの社会学者タルドの『ロア・ド・ソシアール』でしたが、下読みをしていくのは私ひとり、ときどき、ここはこれでいいのかしらと思って大杉さんにたしかめると、居眠りから目をさまして、どこだ、どこだというしまつ。

 足をはこぶだけばからしいので会期の二週間を待たずにやめました。

(山川菊栄『女二代の記–––わたしの半自叙伝』/山川菊栄『おんな二代の記』_p214)

 山川はこの年(一九一五)の秋、神近に誘われて平民講演会にも参加した。

 大杉、神近両氏は入口でチラと見えたきりきえてしまい、六畳くらいのすすけた室に知らない男の人ばかり十五、六人もいたでしょうか。

 みな和服で、講師の荒畑氏の話に熱心に耳をかたむけ、話がすむとあちこちから質問が出、まじめでなごやかな、気持のいい会合でした。

 狭い座敷に人が多く、タバコの煙がたちこめたので、少しあけてくれ、という声がして縁側に向かった障子があけられる、まもなく誰かが「寒い、しめてくれ」といったので、「利害の一致はむつかしいなあ」というと皆が笑い出す。

 この夜の講演は階級的利害の一致による労働者の団結権、団体交渉の問題だったからでした。

(山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』/山川菊栄『おんな二代の記』_p214~215)

 野坂参三は友人に誘われ、その友人と「フランス文学研究会」に二回くらい参加した。

 二階に上がると、八畳の座敷の真ん中には、写真で知っている大杉栄がすわっていて、すでに二人の若い女性と一人の男性とが、彼をかこむようにして雑談をしていた。

 わたしは、友愛会に関係を持つ学生で、フランス語の勉強をしたい、と自己紹介すると、彼は特徴のある大きな目をパチクリさせ、すこしどもりながら、歓迎する、といった。

 そして、先客の三人の相弟子を紹介した。

 二人の女性は神近市子、青山菊栄(のちに山川)だった。

 二人とも、顔立ちはしっかりしていたが、凄味が感じられた。

 男性は、当時帝大学生だった秦豊吉(のちに帝国劇場の社長)であった。

 大杉の講義は、ABC(アベセー)……の発音からはじまり、一人ひとりに発音させて、それをていねいに直してくれた。

 なかなか厳格だった。

 たしかソレルのものの抜粋を……テキストにしたが、きわめて難解でチンプンカンプンだった。

 第一回目も第二回目も、教室内の雰囲気が、わたしには異様に感じられた。

 そのうえに、大杉栄や二人の女性たちから、わたしたちが何か異邦人のように見られているのに気がついた。

 しかし、わたしの方も、彼女たちが、煙草(シガレット)をプカプカふかし、男のようなしゃべり方をするのが、気にくわなかった。

 当時の「新しい女性」にありがちな、たかぶったところも感じられた。

(野坂参三『風雪のあゆみ(一)』)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』(日本評論新社・1956年5月30日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★野坂参三『風雪のあゆみ(一)』(新日本出版社)

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