「詳伝・伊藤野枝」第200回 福岡日日新聞

文●ツルシカズヒコ

 一九一六(大正五)年五月二十日、野枝は『福岡日日新聞』に掲載された「この頃の妾」を脱稿した。

 叔父・代準介に宛てた手紙形式の原稿である。

 『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「この頃の妾」解題によれば、『福岡日日新聞』のはしがきには、こうある。

 「新しい女として知られた雑誌『青鞜』伊藤野枝は五年間の結婚生活を弊履の如く棄て其夫辻潤と二人の子を棄てゝいよ/\新しい女に成り澄ましました。

 斯して彼は何が故に大杉栄の許に走つたか左の一文は其行為に関する内的経過を彼の伯父(※叔父の誤記)なる人に彼女自身書き送つた消息である」。

 お手紙を拝見しますと直に返事を書きたいと思ひながら今日まで失礼いたしました。

 此度の事件の内容は毎日新聞に書きますのに可なり委(くわ)しく書きますが、叔父様には……今迄そのことについて、一口も云つたことはありませんが今夜は少し長く書いて見たいと云ふ気がいたしますから一と通り書きます。

 今更ながら叔父様の寛大なお心に向つては何と云つてよいか分りません。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p385)

 野枝はまず、辻との離婚を考え始めたのは今日この頃ではなく、一年以上前からだったと書き始めた。

 辻には天分があり、今日の自分があるのは彼の助力があったからであり、感謝していたからこそ、野枝はいろいろな苦労を忍べたのだった。

 別れた今となっても、天分を発揮して偉くなることを望んでいると辻への心情を述べた。

 世間も上野高女もそう見なかったが、辻とは家出をするまで肉体関係はなかったこと。

 辻の望みは野枝の天分を伸ばすことにあり、野枝自身もそのつもりだったこと。

 義侠心により辻が失職し、野枝が責任を感じたこと。

 そして生活の窮乏に直面したことなど、順を追って書き進めた。

 ……私が青鞜を引き受けて多少の名を出すやうになりますまでの三年間と云ふものは、それは、お話するさへはづかしいやうな、境遇に居りました。

 母を他所にあづけて、私達二人、丁度一(まこと)坊がおなかにゐます頃、芝の或る家の二階を借りて居りました時分など、私が青鞜の編輯をしてとる、十円ばかりの金の他には何の収入もなくなつて僅かな書物まで売りつくして四ケ月と云ふもの、パンで生活したやうな、みぢめなことさえありました。

 けれども、私たちはそれでも決して失望するやうなことはなくて、一生懸命に勉強し励まし合ひました。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p386)

 そのうち野枝は徐々に名が知られるようになったが、引っ込みがちの辻にはなかなかその機会がめぐって来なかった。

 世間は野枝を褒める一方で辻を蔑視するようになり、野枝は意気地なしの夫に仕えているという風評が立ち、それは野枝にとっても屈辱であった。

 野枝は夫が失職した原因が自分にあると責任を感じていたし、嫁が働き息子に収入がないという状況は姑にも嫁によけいな気を使わせていた。

 義母は息子に働くことをすすめたが、野枝は辻に不本意な仕事でわずかな金を稼ぐことより、自分をしっかり保ち世に名を出してもらいたかった。

 しかし、辻は野枝のそういう願いを冷たい顔で受けるようになった。

「俺はどうせ駄目なのだ」と言っては、自分の才能を隠し強いて下らない人間のように振る舞うようになった。

 辻の才能が世間に認められさえすれば、野枝の侮辱は雪(そそ)がれるはずだった。

 野枝は辻が嘲笑され軽侮される屈辱に耐え、辻をかばい続けたが、辻は野枝が望むような方向から外れていくばかりだった。

 そのうち家の全生活を野枝が背負わざるを得ないようになった。

 一方で野枝も自分のことも考えねばならない大切な時期でもあった。

 私にとつては今、一番大切な時なので御座います。

 今、お調子にのつてうか/\してゐれば、私はそれでもうお仕舞なのです。

『少し何か出来ると思つたけれどあれつきりなのか』と、見捨てられなければならないのです。

 それを考へますと、私はどうしても三十くらいまではまだ/\人一倍の勉強をしなければならないのです。

 殊に、学校を出たまゝの私には、何の智識もないのです。

 組織的な勉強などは何にもしないのですから、本当に心細いのです。

 私は本当に、何故、こんなにはやく結婚生活にはいつたかと後悔ばかりしました。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p387)

 子供ができてから、義母は野枝にいい母であること、いい主婦であることを望んだ。

 子供は可愛かったが、自分を捨てることもできなかった。

 そのうち家事も仕事も中途半端にしかできなくなった。

 野枝は家族のために犠牲にならなければならない状況に追いこまれた。

 私がいまのまゝでゐては、とても、もう働くことも出来なくなつて仕舞ふことは解りきつてゐます。

 何故なら、あの女はもう駄目だ、いゝものは書けないと云ふことになりまりますから。

 本当に考へなければならなかつたのです。

 けれども私は子供の愛や良人の愛に引かされて一刻でもこのことを考へることを避けやうとしてゐました。

 けれども叔父様も既に御承知と存じますが彼の女と、辻の間に妙なことがありましたときは私はすべてをすつかりあきらめて、此度を機会にして一人で生活したいと思ひました。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p388)

 野枝が別居の話を辻にすると、辻はどうしてもそれを許そうとはしなかった。

 野枝が流二を妊娠中でもあり、話はそのまま進展しなかったが、以後、野枝と辻のふたりの生活は少しも潤いのあるものではなくなった。

 野枝は二月に大阪に向かったと書いている。

 代準介のところに金策に行ったようだが、このとき野枝は代に辻との別居のことを切り出すことができなかった。

 けれども、私が、大阪で八十円の金をこしらへるのにどの位つらい思ひをしたかと云ふこと、それからまた、あの叔父様に、あんな苦しいお金まで拝借したことを、話しませうと、大急ぎで帰りましたら、叔父様、まあ何と云ふことでせう、辻は私がたちました夜、お友達を誘つてお酒をのんだり、それから私と一緒になつてからは遂に行つたこともない吉原などへ行きましたさうです。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p388)

 野枝はそれを咎めはしなかったが、野枝の友達は野枝に泣いて別れるように忠告した。

 「あなたのようなお人好しはない、あなたは馬鹿だ」と言って怒った。

 このまま家庭生活を続ければ、自分の持つている天分を殺してしまわねばならないと思った野枝は、家を出る決心をしかけた。

 丁度そのとき、私は大杉栄、と云ふ人–––一二度位は叔父様にお話したことがあるやうにも思ひますが現在の日本で社会主義者の第一人者です、–––に会ひました。

 ずつと前からよく知つて始終遊びに来てゐましたが、そのとき丁度会ひました。

 その人には前から尊敬をもつてゐますし、向ふでも、私を大変に認めてくれましたのでいろ/\なことを話し合つてゐました。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p389)

 野枝と大杉はお互いの家庭のことも話題にした。

 大杉は近いうちに妻と別居することになるだろうと言った。

 そして、妻が自分の仕事に理解のないことなど不満を並べた。

 野枝も自分の家庭のことを少し話した。

 さうして勉強したいと云ふことも云ひました。

 氏は私のこの頃の生活に不安をもつて見てゐること等も話してくれました。

 そうして、私はどうしても大杉氏に引きよせられてゆくことを感じ出しました。

 これからはこの人を頼つて勉強するよりいゝことはないとおもひました。

 大杉氏が、私の将来にかけてゐる望みと、私が大杉氏の事業に向つて持つてゐる渇仰(かつぎょう)と同情が当然今のやうな関係にならなければならないと云ふことは、大杉さん及び私を知つてゐる人達は早くから云つてゐたことださうです。

 私丈けはそれに気がつかずにゐました。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p389)

 野枝は大杉とそういう妙な関係になった時点で、辻とは別れる決心がついたが、大杉との関係ができたから辻と手を切ったという世間の誤解を避けるために、一旦、大杉との関係を絶ち、まずは辻との別居を決行しようとした。

 野枝は大杉に対する自分の感情を辻に話し、さらに野枝、辻、大杉の三人で話したこともあった。

 大杉は野枝が自分の思想や事業のパートナーになってくれることを長い間望んでいたとも言った。

 野枝は苦しんだ。

 大杉との関係にはひとまず距離を置き、自分の感情を冷静に判断する時間を持ちたいと考えていたからだ。

 大杉も野枝が苦しんでいるのを見て、野枝への愛を諦めようとして苦しんでいた。

 野枝は大杉のその苦しむ顔を見て、ついに大杉の愛を断ることができなくなったという。

 さうして私はこれから、大杉氏の伴侶として、勉強することを決心しました。

 さうして、私はそれを直(すぐ)に辻に話して、直ぐにその次の日に家を出ましたのです。

 私の思つたとほりに世間ではいろ/\なことを云ひ出しました。

 誰れ一人として本当のことを云つてゐる人はありません。

 大杉氏は卅二(さんじゅうに)、外国語学校仏語科出身、夫人は四十堀保子と云ふ方です。

 もう一人の女の人は津田英学塾出身神近市子、この間まで東京日々の記者をしてゐました、私が大杉氏に就いて持つ心持は単なる愛と云ふものよりはもう少し違つた指導者と云ふやうなことを考へさせられて居ります。

 私は勿論もう、結婚生活と云ふものゝ中にはいることは出来まいとおもつて居ります。

 これから本当に一生懸命に勉強をしたいとおもひます。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p390)

 子供については、どこか預けられるところを探していると野枝は書いた。

 ……こちらで駄目のやうだつたら九州にに連れてゆかうとおもつてゐます。

 叔父様にはぜひお目に懸りたいとおもひます。

 近いうちに、大阪の方へもゆくことにいたします。

 何しろ、子供の事がどうにかならないうちは誠に困りますので一寸(ちょっと)動けません。

 叔母上様にもよろしく、早岐(はいき)の皆さまおさはり(※ママ)は御座いませんか嘉代子様さぞお可愛ゆくおなりのことゝと存じます。

(五月二十日夜記す)

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p390)

 嘉代子(一九一四年生)は代千代子の長女である。

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

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