「詳伝・伊藤野枝」第260回 東京監獄・面会人控所(六)

文●ツルシカズヒコ

 やがて村木が帰って来た。

 「どうでした和田さんは?」

 「ええ、元気でニコニコしてましたよ。これからゆっくり勉強するんだなんて言ってました」

 少し話すと、村木は今夜また会うことを約束して、先に帰った。

 野枝のポケットの時計は、もう四時近くを指していた。

 三十分ばかり前から、入口を出たり入ったりしているふたりの男がいた。

 ふたりとも揃いも揃つて、薄い髯がボヤボヤ生え、眼の細い、見るからに成り上がりの小商人らしい狡猾な顔をしていた。

 反っ歯と四角な口を持った三十前後の男ふたりが、村木と入れ違いに野枝のそばに腰を下ろすや否や、傍若無人な態度で話し出した。

 「ねえ君、この地所や建物も大変だが、ここの一日の経費だけだって大したものだろうなあ。それがみんな、吾々の税金にかかって来るんだぜ。泥棒や放火を養っといてやるなんて、実際、馬鹿げてらね。こんなのが全国にいくつあるかしれないが、みんな合わすと大変な額だぜ」

 「仕方がないやね、安寧秩序を保ってもらうために払う税金だあね。これがなきゃ、吾々、安心して生きていけないんだもの。しかし、本当になんだねえ、世の中に悪いやつがいなくって、こんなものもなくなれば、いろんな方面の負担もたいぶ違ってくるね」

 「違うともさ。ところが、悪いやつってものは、だんだん増えてくるんで困るね。ここに入るやつときた日にゃ、ここに入ってる間はこうして国家の経済に影響を与えるしさ、出ればまた物騒なことをして人を苦しめるしーー実際、人間のカスだね。改心するなんてやつは、めったにないようだな」
 
 その横風(おうふう)な人を小馬鹿にしたような態度と、場所をわきまへぬか、あるいは侮視した、不謹慎な話がたちまちに野枝を激怒させた。

 野枝は危うくその男たちの面皮を、はいでやろうと思って向き直ろうとした。

 しかし、ちょうどその斜め向こうに腰をかけていた爺さんの顔を見たときに、爺さんはいかにも皮肉な眼をして、じっとその不謹慎なおしゃべりをしている男たちの顔を見据えていた。

 野枝と爺さんの強い意地張った眼に出遇うと、ふたりの男はあわてて顔を見合った。

 そして急に、チグハグな気持ちをブツつけ合うような間の抜けた他の話を始めた。

 野枝は定められた順番よりはずっと遅れて、五時近くになって呼ばれた。

 例の老看守は野枝が廊下に上がるのを待って言った。

 「これから共犯者申し合わせて面会に来ることは、ならんぞ」

 どんな場合にでもまだ野枝は、そんな乱暴な言葉で扱われたことはなかった。

 そして「共犯者」という耳ざわりな言葉が野枝を怒らせた。

 看守は尋常な答えを野枝に待ち受けていた。

 しかし、彼女は黙ってなんにも答えずにすまして、看守より先に歩き出した。

 「わかったか、共犯者一緒に来ると、会わせないぞ。会わせても遅くなったりするから、そっちの損だ」

 しかし、野枝はなおすまして歩いて行った。

 廊下をすぐ折れ曲がって突き当たったところに、三尺くらいの引き手のついた戸がズラリと並んで、一二三と番号が書いてあった。

 「七十二番は一号の前–––」という指図通りに、その扉の前に立った。

 彼女はポケットから小さな手帳を引き出した。

 それは今、大杉と会って、話し洩らしてはならない用件を書いておいたものだった。

 彼女が静かにその手帳を繰っているうちに、二号では年老いた母親がその息子に会っていた。

 話し声は筒抜けに野枝の耳に聞こえた。

 息子はしきりに母親に詫びて、留守中のことをいろいろ指図していた。

 やがてその話が終わるか終わらないうちに、隔ての戸の閉められる音がした。

 しかし、息子はなお言い残したことを母親に通じさせようとして、大声でしゃべっていた。

 母親も二言三言、返事をした。

 と、荒々しい看守の声がその話を遮った。

 耳の遠い老母はしおしおしながら、その戸を押して出て来た。

 入れ違いに野枝が呼び込まれた。

 そこは三尺四方の薄暗い箱だった。

 その正面の仕切りの向こうに、網を張った郵便局の窓口のようなものがあって戸が閉めてあった。

 その窓口と野枝の入っている箱の間の狭い通路に、部長がひとり立っていた。

 「何番?」

 「七十二番」

 「名前は? あ、なんだ大杉? へえ、大杉さんが、珍らしいな。いつから来てる?」

 部長は意外だという顔をしながら、心持ち親しみを見せながら聞いた。

 「一昨日からでしょう? たぶん」

 「なんで来たんです?」

 「よく知りません。公務執行妨害とかいう話ですけれど」

 「え、ひとり? 他には誰? 久板、和田、知らないな。へえ、大杉さんが来てるとは知らなかった」
 
 部長はしきりに首をかしげていた。

 「まだ来ないな、ちょっと出て下さい、今すぐですから」

 野枝はまた外へ出た。

 しかしすぐ向こうの方に足音がして、大杉の咳をする声がした。

 「よろしい」

 という許しが出て、再び入っていくと部長はすぐその窓口を開けた。

 大杉の眼がギロリと暗い中で光ったと思うと、笑い顔がヌッと前に突き出された。

 「寒くはありませんか?」

 野枝は何から話していいかわらずに、つかぬ口のきき方をした。

 「いや寒くはない。どうしたい、うちには誰かいるかい?」

 「ええ」

 「早く用事を話さないと時間がありませんよ」

 部長はペンを握りしめながら催促した。

 野枝は二、三日間のことをすっかり、それから相談すべきことをすっかり、何もかも果たそうとして急いで手帳の覚え書を見ながら話した。

 大杉は腕組みをして黙って頷きながら聞いていた。

 用事を話してしまうと、野枝は急にこれから何を話そうかというような、ポカンとした気持ちになった。

 いろいろ話したいことがある。

 けれど、どういうことを話したらいいか? 

 時間がないんじゃないか? 

 そう思うとたちまちヂリヂリしてくるのだった。

 やがて、ちょっとどうでもいい話が続いたのを見て取ると、部長はすぐ窓のそばのハンドルに手をかけた。

 「もう別に話すことはありませんか、なければもう閉めますよ」

 「じゃまたね」

 「ああ」

 大杉の笑顔はすぐ隠された。

 「未決のうちは毎日会えますよ、また明日いらっしゃい」

 部長は役目をすますと、いっそうくつろいだ調子で野枝に言った。

 しかし、野枝はその言葉を後ろに戸の外に出た。

 あの冷たい寒い部屋に半日待っての面会としては、あんまり馬鹿馬鹿しかった。

 それに、どこへ行っても誰の前ででも、思うままにむしろ傲慢すぎると見えるほどに自分を振る舞う大杉が、窮屈らしく拘束されているのを見ては、野枝はなんとなく情けないような、憤(いきどお)ろしいような気持ちがしてならなかった。

 しかし、看守に怒鳴られて無理に引き離されて悄々(しおしお)と出て行った老母を思い出すと、まだ手加減をして扱ってもらっただけ、いいとしなければならなかった。

 控所まで来ると野枝は急いで石階を降りた。

 部屋の中にはまだ、五、六人の人々が寒そうに肩をすぼめて話していた。

 外は小暗くなっていた。

 野枝は同志の男たちの手にお守りをされながら待っている、乳呑みの子供のことが焼きつくように思い出されるのだった。

 「ああ、遅くなったーー」

 門を出て小走りに歩き出した野枝の頭の中には、子供の姿と一緒に宅までの長い長い道順が焦(じ)れったく繰り広げられるのだった。

 それと同時に、待たされた半日の時間が忌々しく惜まれるのであった。

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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