ふもれすく年譜 1941年(昭和16年)


【2月】
●2/18
平塚らいてうの父・定二郎、脳溢血で急逝。
83歳。

【3月】
●菊富士ホテル、
軍需会社(旭電化)の寮として売却される。

【4月】 
●辻潤、淀橋の木村鉄工所内の
西山勇太郎方にしばらく寄寓。

同月二十、二十一日ころは
杉並区辺りを転々する。

【6月】
●辻潤、東京のあちこちを転々とする。
大田区馬込の添田知道、尾崎士郎、
室生犀星ら方にもしばしばあらわれる。

また木挽町五丁目の片柳忠男、戸田達雄、
矢橋丈吉らのオリオン社や
その出版部をたずね、
尺八を吹いて聴かせる代わりに
昼飯をおごらせる。

【7月】
●辻潤、大阪を転々する。

【8月】
●辻潤、七日から津市極楽町の今井方に寄寓。

●8/2
大丸留意子、牡丹江市で長女・恵子出産。
『ルイズーー父に貰いし名は』p153

●8/14
らいてう、博史との婚姻届を出す。
奥村姓になる。
長男・敦史に幹部候補生
試験受験資格を与えるため。
非嫡出子にはその受験資格がない。

【11月】 
●辻潤、小田原の我乱洞方に寄寓。

【12月】
●辻潤、十二月五日ころ気仙沼の菅野青顔方に、
手足にヒビをきらし、汚れきった十徳姿で訪れる。
(菅野青顔の手紙(三島寛『辻潤 その芸術と病理』))

青顔の家は、家族が十人で、
一階は六畳の茶の間に八畳の店
(青顔の妻がミシンを踏んだ)、
二階は八畳間で、辻は昼間は二階の部屋に
こもって読書の生活を送る。

夜は青願ら妻子と雑魚寝同然の明け暮れを送った。
(菅野青願「我が人生の教師よ」
及び三島寛『辻潤 その芸術と病理』)
 
●12/8
辻潤「真珠湾奇襲」の
大勝利万歳!を聞きながら
暗然として「日本必敗」を予言。

青顔の勤務先の町立気仙沼図書館を訪れ、
日本の敗戦を予言する。
町立気仙沼図書館の看板を揮毫する。
(菅野青顔の手紙(三島寛『辻潤 その芸術と病理』)
(辻は戦争反対を公言したらしいが、
取るに足らない人物として警察の追求を免れたらしい。)

●12/30
同地の河原田の画家・広野重雄方に寄寓。

※この年
荒木郁子、愛国婦人会の事務員になる。
らいてう、会いに行く。
➡『「青鞜」の火の娘』p119

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