「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」18回 遺書

文●ツルシカズヒコ

 一九一一(明治四十四)年四月末、下谷区下根岸の代家に野枝宛ての一通の分厚い手紙が届いた。

 この時、野枝は上野高女五年生である。

 差出人は周船寺(すせんじ)高等小学校の谷先生だった。

 それは長い長い手紙だった。

 書き出しはこうである。

 もう二ヶ月待てばあなたは帰つて来る。

 もう会えるのだと思つても私はその二ヶ月をどうしても待てない。

 私の力で及ぶ事ならばすぐにも呼びよせたい。

 行つて会ひたい。

 けれども、もう廿二年の間、私は何一つとして私の思つた通りになつたことは一つもない。

 私の短かい二十三年の生涯に一度として期待が満足に果たされたことはない。

(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p119)

 自分の細かい近況、野枝に会いたくてたまらないこと、仕事が本当につまらなくなったこと、先のことを考えると何もする気にもなれないことなど、自分の最近の感情を打ち明けたものだった。

 暑中休暇に福岡に帰省する野枝に会う楽しみが、駄目になるかもしれないという。

 ーーあと二、三か月もすれば会えるけれど、それまでとても待てそうもない。だから、野枝に会ったら話さなければならないと思っていたことをここに書きます。あなただけに話しておきたいことを書きますーー。

 そういう前置きで書いてあったことは、彼女のここ数年の「苦しみ」だった。

 それを読んだ野枝は理解に苦しんだ。

 なぜなら、谷先生は他人に誉められたり尊敬されたりすることに苦しんでいたからだ。

 谷先生は小さいころから他人の機嫌を損ねるようなことのない人だった。

 大人に誉められれば誉められるほど控えめで、大人はさらに感心したが、彼女はそれをうれしいと思ったことはなかった。

 苦しくなってきたのは、小学校の教師になったころからだった。

 子供のころは他人の意志を尊重していればよかったが、教師になると自分の意志で決定決断しなければならないことがあるからである。

 しかし、子供のころからの習慣で他人を不愉快にしたり、怒らせたりすることがいやで、ついつい自分を引っこめてしまう。

 だが、自分のやり方が正しいと思うのなら、反対されようと、自分の意志を貫くべきではないかという自責の念にもかられる。
 谷先生は基督教の説教を聴くようになった。

 他人に対する寛大さや、愛他的な気持ちや、犠牲行為は、彼女にとってなんでもないことだったので、立派な信者だと誉められた。

 しかし、彼女はもっと深い力強い何かを教えてほしかった。

 彼女の苦しみは深くなった。

 自分の意志を尊重すると、他人の意志と衝突し、すべての人を敵にするようなハメに陥ったからだ。

 谷先生は勇気を持って謀反を起こせばよいのだと思うが、誉められるのも嫌だが、憎まれるのも恐いから、それができない。

 自分の不徹底と卑怯を嘲り、憤り、悲しむ。

 そして死ぬよりほかに道はないと思うほど、卑怯物で悪者で浅ましい人間だという。
 一字一句も読み落とすまいとして、貪るように読み進んでいくうちに、野枝には何だかわからないような(悲しいような、恐いような気のする)ことが書いてあった。

 私は毎日教壇の上で教へてゐる時、又職員室で無駄口をきいてゐる時、私が今日死なう明日は死なうと思つてゐる心を見破る人は誰もない。

 恐らくは私の死骸が発見されるまでは誰も私の死なうとしてゐる事は知るまい、と思ひますと、何とも云へない気持になります。

「それが私のたつた一つの自由だ!」と心で叫びます。

 本当に私のこの場合ひにたつた一つたしかめ得たことは、人間が絶対無限の孤独であると云ふことです。

 私の死骸が発見された処で人々はその当座こそは何とかかとか云ふでせう。

 けれども時は刻一刻と歩みを進めます。

 二年の後、三年の後或は十年の後には誰一人口にする者はなくなるでせう。

 曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです。

 よりよく生きた処でわづかにタイムの長短の問題ぢやありませんか。

 人間の事業や言行など云ふものが何時まで伝はるでせう。

 大宇宙!

 運命!

(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p120~121)

 そして、野枝には強者として生きてほしいという切なるメッセージが連ねられていた。

 たゞ私は最後の願ひとして、私は本当に最後まで終(つい)に弱者として終りました。

 あなたは何にも拘束されない強者として活きて下さい。

 それ丈(だ)けがお願ひです。

 屈従と云ふことは、本当に自覚ある者のやることぢやありません。

 私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。

 忘れないで下さい。

(「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p121~122)

 谷先生の長い長い手紙は、こう結ばれていた。

 よく今迄私を慰さめてくれましたね、本当に心からあなたにはお礼を申ます。

 随分苦しい思ひもさせました。

 すべて御許し下さい。

 混乱に混乱を重ねた私の頭です。

 不統一な位は許して下さい。

 ではもう止します。

 最後です。

 もう筆をとるのもこれつきりです。

 左様(さよう)なら。

 左様(さよう)なら。

 何時迄もこの筆を措(お)きたくないのですけれど御免なさいもう本当にこれで左様なら。

 (「遺書の一部より」/『青鞜』1914年10月号・第4巻第9号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p122)

 不安になった野枝は大急ぎで返事を書いた。

 夢中になって長い返信を書いた。

 何を書いたか覚えてないほど興奮して書いた。

 自分が帰省するまでは、どんなことをしても無事でいてくれるようにと何度も何度も書いた。

 一九一一年四月末、谷先生からのこの手紙を受け取った野枝が、「遺書の一部より」と題して『青鞜』に掲載したのは一九一四年秋だった。

 さらに、野枝がこの手紙について言及した「背負ひ切れぬ重荷」(『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)が、『婦人公論』に掲載されたのは一九一八年の春である。

「曾(かつ)て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです」と谷先生は書いたが、野枝が残した文章により、彼女の存在は永遠に記憶に留められることになった。

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

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