「詳伝・伊藤野枝」第221回 短刀

文●ツルシカズヒコ

 大杉が書いた「お化を見た話」が掲載されたのは『改造』一九二二年九月号だったが、この「お化を見た話」の反論という形で神近が書いたのが「豚に投げた真珠」で、同誌の次号(一九二二年十月号)に掲載された。

 「豚に投げた真珠」に沿って日蔭茶屋事件を追ってみたい。

 「豚に投げた真珠」によれば、神近は十一月七日、午後三時くらいの汽車で葉山に向かった。

 裁判では神近は野枝が日蔭茶屋に来ていることは知らなかったということで通したが、実は大杉が野枝と一緒に来ていることも、大杉に金が入ったことも知っていた。

 一九一六(大正五)年五月以降、神近は大杉に八十円の金を都合している。

 野枝が御宿の上野屋旅館を引き上げることができず、当惑していたときに、その四十円の金も神近がこしらえた。

 野枝の二度の大阪行きの旅費をこしらえたのも、神近だった。

 野枝と下宿にゴロゴロしていた大杉の身の回りと小遣いの一切を用立てていたのも、神近だった。

 葉山に出かけるとき、神近はすでに自殺を覚悟していた。

 大杉氏の嘲笑をうけるやうになつたことは、私には全く意外であつた。

 私は彼に同情と思ひやりをこそ予期すれ、彼によつて嘲笑を加へられやうとは覚悟してゐなかつた。

 私はこの怨念を長く黙して魂の奥深く蓄へてゐた。

 死を決した時、私は心がカラツとして此上もなく愉快であつた。

 只残つている問題は彼を殺して置いて、自首するか一人で死ぬかその問題だけであつた。

(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p86~87)

 神近は当初、兇器としてピストルを使用するつもりだったという。

 ピストルを入手してくれたのは甥(従姉の子)だった。

 甥は私に発射の仕方を教へる為めに、ある晩私を程近くの青山の墓地に連れ出した。

 そして墓地の奥で私は大地に向かつて発射した。

 けれどあの仰山な音響がタツタ一度で私の神経を極度に興奮させて了つた。

 私は手が震えて二度と発射することが出来なかつた。

(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p87)

 神近が犯行に使用した短刀は「生毛屋」のものだった。

 十一月八日の午後、神近は日蔭茶屋の裏山に登って、手許が狂わぬように大型のハンカチを短刀の柄に結びつけた。

 神近はその日、これが最後の夜と考えて湯に入った。

 清潔な下着に着替え、入浴前に身につけていた下着は日が暮れてから海に捨てた。

 床につこうとすると、大杉は神近に戯れようとするほど機嫌がよかった。

 神近が発している殺気を緩和するための方便のように、彼女は感じた。

 軽い愉快な気持ちにはなれない神近が黙って寝床に入ると、大杉も続いて床についた。

 神近は蒲団の中で懐ろの短刀の鞘を払って、そっと敷き布団の間に入れた。

 そして、大杉に訊ねた。

 「あなたは私に何か話をしたいことはありませんか」

 彼女はこのころずっと続いていた大杉の不誠実さの説明を、本人の口から聞きたかったのだ。

 「あなたの方から何か話してくれることはないかという請求がある以上、何かあなたの方に聞きたいことがあるというのだろう」

 「ありますとも。あなたは一人の男を挟んで、二人の女が昨日からのような気持ちで暮らすことは、浅ましくいやなことだとは思いませんか」

 「浅ましいと思うよ」

 良心に触れられた大杉は、開き直って傲慢を装った。

 「浅ましいと本当に思うなら、浅ましくないようにすれば出来るのではありませんか」

 神近はさらに、大杉の急所を突いてきた。

 「私があなたに出した金があるからって、私の言うことを誤解なさっては困りますよ。どんな気持ちで、私が金を出したかそれはあなたも忘れはなさらぬでしょう。あなたはこれまで野枝さんと一緒にいるのは二人とも金がないからで、金さえ出来ればその日のうちにでも別になるのだと長いこと私にいっておいでになった。その金は一週間前に出来ているのに、あなたはそんなことは夢にもいったことはないような風をしていらっしゃる……」

 疲労と興奮のためにウトウトした神近が目をあけると、大杉は雑誌を読んでいた。

 神近にはもうひとこと言うべきことがあった。

 「あなたは仲直りをしようとはいわないでしょうね」

 「そうさ、自分が勝手なことを言って他人を怒らしておいて、仲直りしようとは思わないかもないもんだ。もうあなたとの恋愛はおしまいだ」

 「私の言ったことは、あなたにそんなに勝手なことに聞こえましたかね。けれどどうしてそんなに怒ってしまったんです」

 「なぜ怒るって。君が金がどうした、とか言ったろう。僕の金の貸しがあるからそう言うのだろう」

 「それは違います。私は、ただ金がないときに、金があればああするこうすると言っていらしたことを、金ができてもあなたにはする考えがないでしょうと、あなたに確かめたかったのです……」

 神近の言葉を遮るように、おっかぶせるように、大杉が言った。

 「何にしても金の話まで出ればたくさんだ。金は明日返す」

 いよいよ最後が来たことを知った神近は、敷き布団の下の短刀を探っていた。

 短刀を握ったまま、彼女は三時まで待った。

 大杉はスヤスヤとよく眠っていた。

★『神近市子文集1』(武州工房・1986年11月3日)

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