「詳伝・伊藤野枝」第220回 私は何もしない

文●ツルシカズヒコ

 日蔭茶屋の道に面した棟に到達した神近は、その一階から二階に通じる階段を駆け上がった。

 日蔭茶屋の出入口はこの棟の二階にあったからである。

 とつ付の部屋には二三人で飲食したらしいチヤブ台が、その儘(まま)残してありました。

 その台を隅に楯に取つて、私とあの男とは始めて正面に顔を合わせました。

 若い女中達が二人、その廊下をけたゝましく叫んで、無意識に袖屏風を私達の方に造り乍ら、奥から階段口の方に逃げ出しました。

 あの男はやり所のない怒りと悲しみとに包まれて居りました。

 あの男はせぐり上げやうとする嘘泣をこらへて、口を曲げて居りました。

 クツツと見開いた眼は、四月の南国の海面のやうに淡い浅黄(※筆者註/浅葱が正しいのではないか)に隅どり、黒眼はとび出る様に怒りに食(は)み出されて居りました。

(神近市子『引かれものの唄』)

 神近は再び表棟の二階の階段を降りて、廊下を奥に行き、便所の前に座り込んでしまった。

 疲れたからというよりは、歩く意志を失ったからだ。

 彼女は大杉の顔を正視することができなかった。

 そして、そこに突っ伏した。

 私はあの男は私を打(ぶ)つだらう、蹴るだらう、或は喰ひつくであらうと予期しました。

 けれど。

 あの男は、只だ私の上に折り重なつて背中あたりに頭を当てゝシク/\と泣きました。

 血がポタ、ポタ、ポタ、と私の寝着(ねまき)の左の袖に落ちました。

 底の底から湧き出てくる悲しみで、私はワーツと泣き出しました。

(神近市子『引かれものの唄』)

 大杉が立ち上がり、廊下を折れてもと来た方向に歩いて行った。

 大杉の影が廊下に消えるとともに、神近は立っていられないほどの戦慄(ふるえ)を感じた。

 そして光が輝いてゐる湯殿に入つて内庭に出ねばならないことを考へて、あの着物部屋の硝子窓を叩き砕(こは)さうとしました。

 けれどフト鉄格子のついてゐることを見出すと、他の出口を探し廻りました。

 三度目の戸が容易に開いて暗い外に出た時、私は直ぐに内庭に出やうと考へて溝の中で踵に大きな傷を作(こさ)へ乍ら岩と湯殿の間に身をはめ込んで居りました。

 そしてそこを抜けられないことに気が付くと、外庭に出て、若木の柵に躓いてゐる自分を見たやうでした。

(神近市子『引かれものの唄』)

 たくさんの針が足の裏を突くように傷めた踵が痛んだ。

 平屋造りの家屋の低い柵に右腕をのせて顎を支えていると、ウトウトと睡魔に襲われそうになった。

 雨が降っていた。

 神近はもと来た道を帰ろうと歩き出したが、すぐに立ち止まった。

 「あの人は死んでいる、あの人の眼はもう静かに閉じられている!」

 「なんということを私はしたものだろう、済まない、許して下さいまし」

 神近は床の上で蒼ざめていく大杉のことを想像し、東京の町を小刻みに駆け出している堀保子や、大杉の死体に涙して男泣きに泣いている宮嶋資夫のことを考えた。

 「すべての人々の好い友達を、私の手が奪った」

 神近は土の上に伏して号泣していた。

 しかし、極度の疲労も悲しみも彼女を長く土の上に伏したままにしておくことを許さなかった。

 神近はまた方向を変えて逗子(三浦郡田越村)の方に駆け出した。

(神近市子『引かれものの唄』)

 逗子の町に入ると、昼間、俥(くるま)で来たときに目にした「逗子郵便局」という街燈が目に入った。

 私は一分(いちぶん)の猶予もなく、その硝子の戸を砕ける程に叩きました。

 好い睡眠時を起されて、驚きと怒りとに焦々(いらいら)とさせられた青年が、最後の私の哀願に答えて出て参りました。

 『一寸お伺ひ致します』

 私はお召しの着物を上も下もチヤンと着て、何か重大な用件で、侯爵様の御門や貴い外賓の御宿を東京の街(みち)で訪ねている時のやうな、丁寧さと慇懃さとをその青年の前に払ひました。

 そして、それでもその人の好意に支払ふには足りないことを気付くと、私は血と雨とに濡れしたゝつた宿の寝着(ねまき)を前にキチンと合せ、顔にかゝる髪を後に撫で上げ、幾度も雨と闇の中に深々(しんしん)と頭を下げました。

 『お休み中お騒がして相済みません、少し急ぎの用事が出来ましたのに警察がどこにあるのかわかりませんので、それをお伺ひしたいのですが』

 けれども、その人は音高い舌打をしました。そして

 『そこです、そこの左側です』

 と、云つて終ふと凄じく障子を閉(た)てゝ了ひました。

 これは私に取つては、ほんとに最後の努力であり、最後の緊張であつたのです。

 それでこの明らかに示された怒りと侮蔑との前に、私は一たまりもなく引き倒されて了ひました。

 私は又そこの土の上に倒れて了ひました。

 『私は何もしない、愛することより外には何もしない、何の悪い事もしないのに私だけが一人何時も/\侮られ笑はれ指さゝれ怒られねばならない、争と苦痛と悲哀とが、私の歩く一歩々々について来る』

(神近市子『引かれものの唄』)

 警察と思われる建物の前まで来ると、それを確かめるために、彼女は門にかけてあった掛札(かけふだ)を燈光(とうこう)の近くで見るためにもぎ取った。

 そして微かに場所を告げている文字を読み取ることができた。

 その札をそこに置くと、門の石の上に腰を下ろした。

(神近市子『引かれものの唄』)

★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版/『神近市子著作集 第一巻』・日本図書センター・2008年)

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