「詳伝・伊藤野枝」第223回 フリーラブ

文●ツルシカズヒコ

 以下、『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に沿って、日蔭茶屋事件を見てみる。

 大杉が初めて麻布区霞町の神近の家に泊まったのは、一九一五(大正四)年の秋だったという。

 私は自分の一生の悲劇は、恋愛というものを、本能によらず、頭の上だけでしていたことにあると思う。

 頭脳が先走っていて、現実というのものが見えなかった。

 いま考えると、私に結婚の意志があることをほのめかした男性たちは、いずれも適当で似合わしい年齢であり、人間でもあった。

 ところが、それがそのころの私には平凡で、考えてみるにも値しなかった。

 しかし、私は大杉氏によって、まったく未知の激しい流れの中に身を躍らせてしまったのである。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p145)

 堀保子という妻がありながら神近との関係を維持しようとする大杉に、神近は何度か絶交を求めたが、大杉を説得することはできなかった。

 神近はふたりだけの愛によって結ばれるか、キッパリ別れるか、どちらかの道を選択したかった。

 しかし、大杉は「フリーラヴ(自由恋愛)」の理論を述べるだけで、神近の追及をはぐらかした。

 大杉が逗子の桜山に引っ越してからは、上京するたびに神近の部屋に泊まっていくようになった。

 翌大正五年二月、伊藤野枝女史とも恋愛関係にはいった大杉氏は、それをあっさり私に告白した。

 驚きもし、悲しみもしたことは事実だが、大杉をこうまで無軌道な行為におとしたのは、自分の幼稚な感傷ではなかったかという反省もした。

 ……大杉氏とのことはなにも一生を貫く関係と考えていたわけではなかった。

 ……異性間の友情と好意とが、自然に性愛を感じさせただけだった。

 自分が男性の単なる好色的な目で見られていたのを、恋愛の感情と即断したのが重大な過ちであった。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p145~146)

 神近はすぐ身を引く決心を固めた。

 新聞記者としてよい職場を持っていたし、仕事に打ち込むことで失恋の痛手を忘れようとした。

 大杉氏は、私があまりアッサリ身を退いたことによって、なにか誇りを傷つけられたような気がしたらしかった。

 同志たちの手前、単なる放蕩だとみられたくない気持ちもあったのだろろう。

 「俺は多角恋愛の実験を試みているんだ。君がついていけないのは、思想的未熟のゆえだ」

 と論難して、私を困らせた。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p146)

 大杉との議論に負けた神近の決心はもろくも覆され、多角恋愛の一員として留まることになった。

 「新聞は公共の仕事ですから、恋愛なんかが問題になります」という、小野賢一郎の言葉に異議を唱えることができなかった神近は、東京日日新聞社をクビになった。

 失職した神近は小野の紹介で、結城礼一郎の私設秘書の仕事をすることになった。

 私と伊藤野枝女史は、ほとんど対蹠(たいしょ)的な過去と性格を持っていた。

 早熟で才気ばしっていて、小さな身体に似ず、思いがけない大胆さを発揮できるのが野枝女史であり、年上で身体も大きいのに、臆病で魯鈍で神経質なのが私だった。

 その二人が困難な関係につながれ、無理なポーズを見せ合わなくてはならないのだから、敵意はたがいに強く、調和できないのが当然だった。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p149)

 神近は問題を解決したい一心で、四谷区南伊賀町の大杉と保子が住む家を訪れ、保子と面会をした。

 保子は一杯の茶も出さず、「お前たちが起こしたことは、お前たちで解決をつけろ」と言った。

 神近はすごすごと帰るしかなかった。

 大杉はフリーラブの主張を繰り返すばかりだった。

 ●おたがいに経済上独立すること

 ●同棲しないで別居の生活を送ること

 ●お互いの自由(性的すらも)を尊重すること

 しかし、病身の保子に経済的な独立を求めることは鼻っから無理であり、乳飲み子の流二を連れて辻の家を出た野枝にも金策の目処がなかなか立たなかった。

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

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