「詳伝・伊藤野枝」第237回 三月革命

文●ツルシカズヒコ

 一九一七(大正六)年三月五日、横浜監獄の未決監に収監されている神近に、横浜地方裁判所は懲役四年の判決を下した。

 神近は即、控訴した。

 三月六日、『東京日日新聞』社会部記者の宮崎光男が、大杉に取材するために菊富士ホテルを訪れた。

 宮崎は東京日日新聞社に移る以前は実業之世界社にいたが、日蔭茶屋事件が起きる二ヶ月前に、東京日日新聞社に入社していた。

 実業之世界社時代から大杉と親交があった宮崎は、その知己を利して大杉に直接会って日蔭茶屋事件の記事を書くことができた。

 この日、宮崎が大杉に面会に来たのは、前日、横浜地裁で神近に懲役四年の判決が出たので、大杉のコメントを取るためだった。

 大杉は宮崎を菊富士ホテルの食堂に案内し、夕食をともにしたり、印度人革命家(シャストリー)を宮崎に紹介したりした後、神近の件について話し始めた。

『少しの懲役は、彼女のためにも修養になつていゝかも知れんが、三(ママ)年の懲役は薬がきゝすぎて気の毒だ』とか何んとか、相変らず人を食つたことをいつて『時にだね君。新聞記者はだね。僕がだね。事件を提供して、それで食はしてるやうなものなんだからだね。どうだい相談だが、そのお礼にモナカ、それも鹽瀬のをだよ。モナカの一折も買つて来ないか』と、うそらしくほんとうらしくいふのである。

 僕はそれを『これは面白い。お安い御注文だな。心得た』と、故意にもまにうけて、その翌日、社の近くの鹽瀬から、三円ほどを買つて持参した。

 すると彼は『この相撲は僕が負けだ』と笑ひこけたのであつた。

(宮崎光男「反逆者の片影ーー大杉栄を偲ぶ–––」/『文藝春秋』1923年11月号_p55)

 「塩瀬」のモナカについては安成二郎も触れているが、甘党の大杉はこのモナカが大好きだったようだ。

 三月七日、神近が保釈され横浜監獄を出獄、宮島資夫、麗子夫妻の家に引き取られ後、宮島家の近くの滝野川中里の下宿屋の二階に下宿して、『引かれものの唄』の執筆に取りかかった。

 神近は高木信威(たかぎ-のぶたけ)との間に生まれた子、礼子を郷里に預けていたが、保釈直後に礼子が死去したことは、彼女にとって痛恨の出来事だった。

 三月八日、ロシアの首都ペトログラード(後のレニングラード、現・サンクトペテルブルク)で、食料配給の改善を求めるデモ、暴動が起きた。

 三月十五日にはニコライ二世が退位し、三百年続いたロマノフ王朝による帝政が崩壊した。

 いわゆる、三月革命である。

 春もまだ浅い三月中旬ごろだった。

 近藤憲二久板卯之助と本郷帝大前の銀杏並木を歩いていると、大杉が古ぼけた筒袖のドテラを着て散歩しているのに逢った。

 大杉に誘われ、近藤と久板はすぐ近くの菊富士ホテルに行った。

 それが近藤と野枝の初対面だった。

 日蔭茶屋事件以来、同志の多くから爪弾きにされていた大杉は、野枝との「愛の巣」に近藤と久板を案内すると、人懐かしがってよく話した。

 「愛の巣」とは言え、村木源次郎が見かねてよく食事を運んだほどの貧乏のどん底時代だったが、近藤と久板は大きな立派な蜜柑をご馳走になった。

 大杉が近藤に言った。

 「いつぞやは逗子へ来てくれたんだってね」

 これは大杉が刺されて逗子の病院へはいったとき、私が見舞いに行ったことをいったのである。

 すると野枝さんが急に困ったような顔をした。

 「ほんとうに、あのときは済みません。私は雑誌社の人だとばかり思いまして……」

 そのとき私は雑誌の肩書のある名刺を出したので、出てきた野枝さんが突ッけんどんにいって、あっさり追っぱらったのである。

 そういえば、そのときの方が初対面だったともいえるのだが、野枝さんは、このことをいつまでも気にしていたのか、その後も幾度かわびた。

 あれでなかなか、そんなことを気にする人であった。

(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p119)

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝が下宿代が払えず菊富士ホテルから追い立てを食って、近くの下宿(菊坂町九十四)に移ったのは三月二十四日だった。

★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

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