「詳伝・伊藤野枝」242回 夫婦喧嘩

文●ツルシカズヒコ

 『女の世界』一九一七年七月号のアンケートに、大杉と野枝は回答を寄せている。

 『女の世界』同号は「男女闘争号」と銘打ち、目次に「夫婦喧嘩の功過と責任の所在 名流六十家」とある。

 質問一は「夫婦喧嘩の功過」、質問二は「夫婦喧嘩は良人の責か妻の責か」である。

  「社会主義者」という肩書きの大杉は、こう回答している。

 一、

 亭主は女房に出来るだけ甘くして置いて大がいの我儘はうん/\聴いてやるべし

 そして、心棒の出来ぬほどの増長した時には、先づ屁理屈を並べ立てゝ、説服を試み、それでもきかなきや、平手、ゲンコツ、足蹴(あしげ)、力に任せて死なぬ程にぶちのめした上にふだんに増して舐めすり廻してやるべし。

 されば夫婦喧嘩は必ず功ありて過(くわ)なき疑ひなし。

 二、

 何事も女房の方で下に出て、ハイ/\さへ云つて居(を)れば、夫婦喧嘩の起(おこ)るきづかひなし。

 従つて夫婦喧嘩の責(せめ)が女房にあるは云ふまでもなし。

(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p84)

 大杉が野枝に暴力を振るっていたとは考えにくいので、大杉の回答はウケ狙いの冗談であろう。

 「栄氏同棲者 新らしい女」という肩書きの野枝は、こう回答した。

 一、

 夫婦喧嘩のときには、私は出来るだけ何時でも、強情を張ります、男はさう云ふ場合には意久地(いくじ)のないものです。

 尤(もつと)も男に云はせれば面倒くさいからと云ひますけれども何でもかんでも、此方(こちら)から頭を下げないでもすみます。

 喧嘩をしてゐる時には出来るだけ強情を張るのが一番いゝ方法です、向こうから仲なほりの申出があつたら、出来るだけしをらしくあやまるのです、そして甘へます。
 
 それですつかり仲直りは出来ます。

 喧嘩の仲直りをした後で損をしたやうな気のした事はまだ一度もありませぬ。

 だから喧嘩は必要なものとおもひます。

 仲直りをした後で笑ひながらめい/\の気持をはなしたりすれば、一層親しみを増します。

 二、

 場合による事でせう。

 しかし大抵は、男のむかつ腹から、此方もむつとする位の処ですね、まあこれは、五分五分でせうね。

(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p85~86/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p429)

 ちなみに「社会主義者」山川均は、こう回答している。

拝復、小生儀(ぎ)目出度く華燭の典を挙げ候てより、日尚浅く、不幸戦機未だ熟せずして、花々敷き一戦に良人(をつと)の威光を発揮せし程の武勲も無之(これなく)、誠に汗顔の至りに御座候(ござそろ)。

 御提示の問題に就いては固(もと)より大いに抱懐する所有之(これあり)候へ共、生兵法にして兵を語るは大創(きず)の元、何(いづ)れ幾実戦を経たる上重ねて貴問に拝答するの光栄と機会を待ち候(そろ)。

 匆々頓首

(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p78)

 「均氏夫人 新らしい女」山川菊栄は、こう回答している。

 拝復、折角(せつかく)のお問合せではございますが、私方(わたしかた)は平和主義者非戦論者の集りなので、健国(けんこく)以来太平のみ打(うち)つゞき、仲人の立て甲斐が無くて誠に気の毒に存じて居ります位

 随(したがつ)て御返事の材料に苦しみます。

 追而(おつて)時代の推移と共に戦国時代に入りましたら夫妻共著の参戦実記でもお目にかけることゝ致しませう。

 夫婦喧嘩の功過並に責任の帰着点如何(いかん)は同書講和会議の後(のち)に依(よつ)て明かに知ることゝ存じます。

(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p78~79)

 ついでに「画家」岡本一平の回答。

 一、功過相半(あひなかば)す

 二、良人より申せば妻の責(せめ)、妻より申せば良人の責。

(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p88~89)

 「一平氏夫人 新らしい女」岡本かのの回答。

 一、岡本一平氏の説と同じ。

 二、同上。

(『女の世界』1917年7月号・第3巻第7号_p89)

 八月十三日、野枝は妹の武部ツタ宛てに手紙を書いた。

 宛先は「大坂市西区松島十返町 武部種吉様方」。

 発信地は「東京市外巣鴨村宮仲二五八三」。

 お手紙拝見。

 大坂に来てゐると云ふことはやつと半月ばかり前にききました。

 東京に来たのだつたら尋ねて来ればよかつたのに。

 本郷の菊富士ホテルと云ふことは今宿のうちでも代のうちでも知つてゐる筈、一寸きいてから来ればよかつた。

 うちからは四五日前たよりがあつた。

 突然に、盆前に金を送つてくれるやうにとの事だつたけれど、もう日数がないから、とりあえず手許にあつた拾円だけ送つておきました。

 私も毎月でも送りたいと思ふが、流二を他所に預けて、その方に毎月十円近くとられるので、三十円や四十円とつた所でどうすることも出来ないのに、この二三ケ月は体の具合がわるくて少しも仕事をしないで遊んでゐるので一層困ります。

 出来さえすればどうにでもするつもり。

 今宿へは今年一杯はかへれないと思ふ。

 来年になつたら早々にかへります。

 大阪には、もうよほどお馴れか、少しは知つた人が出来ましたか。

 私も時々はたよりをするから、そちらでも時々はハガキ位は書いて欲しい。

 こちらに用があつたら、面倒な事でなかつたら足してあげる。

 入用なものでもあつたら、とゝのへてあげる。

 大阪では、国とも大分遠いから、体を大切にして病気になんかならぬようになさい。

 私のことは心配しなくても大丈夫だから。

 そのうち大阪にでも行つたら会ひませう。

 大坂(ママ)は特にあついから本当に体を大事におしなさい。

 野枝

 津た子どの

「書簡 武部ツタ宛」一九一七年八月一三日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p430)

 『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、この書簡は封書で、松屋製二百字詰め原稿用紙三枚にペン書き。

 封筒(一九五×八五ミリ)の表には「6.8.14/前10-12」、裏には「6.8.15/前8-9」の消印。

 つまり、表の消印は大正六(一九一七)年八月十四日午前十〜十二時、裏の消印は同年八月十五日午前八〜九時ということである。

 封筒裏には直筆で「十三日」とある。

 ツタは書簡本文では「津た子」、封筒表には「津多子」と書かれている。

「代のうち」とは当時、大阪に住んでいた代準介の家のこと。

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

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