「詳伝・伊藤野枝」第241回 伊藤野枝論

文●ツルシカズヒコ

 『新日本』一九一七(大正六)年七月号・八月号に平塚明「伊藤野枝さんの歩かれた道」が掲載された。

 『新日本』はらいてうに「伊藤野枝論」を書いてほしかったのだという。

 『新日本』は野枝が同誌四月号に寄稿した「平塚明子論」の対になるものを、らいてうに寄稿してほしかったのだろうが、らいてうはそれをやりたくなかったので、野枝が歩んで来た道を自分の知っている範囲内の事実によって書いたという。

 らいてうが「伊藤野枝論」を書きたくなかったのは、野枝の思想や生き方が自分にとって論じるに値しないと考えていたからであろう。

 しかし、「伊藤野枝さんの歩かれた道」は野枝を全面否定する、らいてうの「伊藤野枝論」の体をなしている。

 前半部分を抜粋要約、引用をしてみる。

●『青鞜』に野枝が寄稿した文章はともかく、実生活の野枝は人格的訓練のまったく欠けた、生理的なものに支配される多血質の婦人であり、一時的な感情に左右される軽率な無思慮で無反省な行動がかなり多い人です。

●理智の光も意志の力も、彼女の熾烈な本能や衝動の前には役立ちません。

●そこには一貫した、統一された真の強い自我生活などとうてい見出すことができません。

●野絵さんは非常に粗野で、欠点の著しい、隙だらけな、矛盾の多い生活をしている婦人として、あるいは始末にを得ないほど無責任で、信頼することのできない婦人として、私の眼に映ることがあります(その顕著な具体例として「動揺事件」を挙げている)。

●青鞜社に浴びせられた非難攻撃に激昂し、熱心に反駁したのも野枝さんでしたが、彼女自身の積極的な考えやその主義主張が語られていないので、なんの効果もなかったと思います。

●らいてうは野枝の書いた「S先生に」を具体例に挙げ、こう書いている。

 一体、野枝さんの思想は(否その行為も)かうしたは反駁文の場合のみに限らず、その性格の自然の結果として、総てがしかも最初から、そして今日もなほ、破壊的な消極的な方面の要素が多分で、いつまで行つても建設的な積極的な方面に出ないやうであります。

(「伊藤野枝さんの歩かれた道」/『新日本』1917年7月号・8月号/『らいてう第三文集 現代の男女』_p331/「伊藤野枝さんの歩いた道」と改題『女性の言葉』に収録/『平塚らいてう著作集 第2巻』_p309 ※引用は『現代の男女』から)

●野枝さんは道徳を破壊した後のことは少しも述べていません。

●野枝さんには道徳本来の意義や起源や歴史についての知識がまったくありません。

●野絵さんは無道徳世界の出現を望み、憧憬しているのでしょうか。

●新道徳の建設の意志、道徳改善の要求などの研究をまるでしない野枝さんに、私はいつも物足りなさを感じています。

●野枝は『青鞜』をらいてうから引き継ぐにあたり、すべての規則をなくしたが、これを例に挙げ、こう書いている。

 彼女が感情的なばかりで……理知的方面を備へてゐない……知識の光がない……やうに思はれます。

 ……単なる破壊は情熱のよくするところですが、建設は情熱の上に……知識–––
殊に客観的な科学的な–––にまたなければならないのですから。

 ところが野枝さんのやうな感情の動揺のはげしい人は、落着いた観察や研究や冷静な討究や、論理などとは到底容れなのでありますから。

 この点から見ても彼女の思想行為はまだ空想の域に止まつてゐると言つても差支ありますまい。

 なほ同様の意味から野枝さんは他日或は単なる革命家となり得るかも知れませんが、真に人類に、文明に何ものかを貢献する社会改造家と成る素質に至つては今日までのところでは全く欠けてゐると言はなければなりません。

(「伊藤野枝さんの歩かれた道」/『新日本』1917年7月号・8月号/『らいてう第三文集 現代の男女』_p333~334/「伊藤野枝さんの歩いた道」と改題『女性の言葉』に収録/『平塚らいてう著作集 第2巻』_p310~311 ※引用は『現代の男女』から)

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、七月六日、大杉と野枝は本郷区菊坂町九十四の下宿から、北豊島郡巣鴨村宮仲二五八三(現・豊島区北大塚三丁目三十一番地付近)に転居した。

 家賃は月十三円五十銭。

 板橋署の専属の刑事三人が始終見張っていた。

 巣鴨の家と云ふのは、実は、ほんの半年から一ケ月かのつもりで借りたんだ。

 板橋ではそれを知らないもんだから、さあ大変な奴が来た、何んとかして遂つぱらはなくちやと云ふんで、ひつこした翌朝早々先づ家主をおどかした。

 それから出入りの商人等を門前で喰ひとめた。

 僕等のやうな、時々、と云ふよりもしよつちゆう、財布のからな人間には、本当にいい責めかただ。

 で、こつちは少々癪にさはつたもんだから、とうたう半年あすこにゐてやつた。

(「亀戸から」/『文明批評』1918年2月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』※引用は『大杉栄全集 第四巻』から)

 新居は当時、『東京日日新聞』記者だった横関愛造の家と一丁と離れぬところにあった。

 横関が大杉、野枝夫妻と親密なつき合いをするようになったのは、このころからだった。

 神近市子氏に切りつけられた傷あとが、まだなまなましく首すじに残っていた。

 巣鴨新田の細い道に面した、三室ほどの家の前には、見張りの尾行のたまり場があり、大杉家に出入りする人物を、いちいち点検し、人によっては、その後を追って、住所姓名を誰何(すいか)されたものである。

 ……家にかえると直に尾行してきた私服がやってきた。

「何の用事で大杉にいきました」

「そんなこと君に報告する義務はない」

「しかしお隠しになるとタメになりませんが、いいですか」

「どうぞ御自由に……」

(横関愛造『思い出の作家たち』_p254)

 横関愛造の家も近所にあり、大杉の家と横関の家と岩野泡鳴の家は、一丁ほどの距離で等辺三角形の位置にあった。

 泡鳴は当時、正妻の遠藤清子と離婚訴訟中で、愛人の蒲原英枝と同居していた。

 ある日、横関の家で野枝を伴った大杉と泡鳴がバッタリと顔を合わせた。

「ホー、あなたが野枝さんですか、聞きしにまさる別嬪だなア」

 顔を合せて、お互いにあいさつしたと思ったとたん、泡鳴は無遠慮に野枝女史をつかまえてこう感嘆した。

 さすがの野枝女史もテレくさそうに顔を赤くしていたが、そばから大杉が吃りながらニヤッと笑って、

 「君にほめられちゃア本望だろう、せいぜい大事にするか、ね」

 と、これを笑殺してしまった。

(横関愛造『思い出の作家たち』_p193)

『改造』と横関愛造

★『らいてう第三文集 現代の男女』(南北社・1917年12月24日)

★『女性の言葉』(教文社・1926年9月10日)

★『平塚らいてう著作集 第2巻』(大月書店・1983年8月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★横関愛造『思い出の作家たち』(法政大学出版局・1956年12月5日)

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