ポチのクレヤン編集長日記:ポチことツルシカズヒコが書く身辺雑記

大杉栄&伊藤野枝の関東大震災


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本日は関東大震災が起きて91年目。

昨日は「平塚らいてう&神近市子の
関東大震災
」を書きましたが、
本日は大杉栄&伊藤野枝夫妻編です。

主な参考文献は以下です。

●矢野寛治『伊藤野枝と代準介』
(弦書房/2012.10)

●大杉豊編著『日録・大杉栄伝』
(社会評論社/2009.9.16)

●松下竜一『ルイズー父に貰いし名は』
(講談社/1982.3.10)
 
Kanto_Great_Earth_Quake_Nippori_Station_another_version
日暮里駅から地方へ避難する人々
From Wikimedia Commons
 
大杉栄(38歳)&伊藤野枝(28歳)夫妻は
8月5日、豊多摩郡淀橋町字柏木三七一番地に
引っ越してきたばかりだった。

内田魯庵の家も同番地で現在の
新宿区北新宿1-16-27にあたる。

大久保百人町にあった安成二郎
(読売新聞編集記者)の家も
300メートル足らずの距離にあった。

豊多摩郡淀橋町という住所だが、
当時の東京はまだ東京都ではなく
東京府である。

東京府の中に東京市(15区)と
東京市に隣接する5郡があり、
それが「大東京」といわれる
東京の中心地域だった。

平塚らいてう一家が住んでいた
千駄ヶ谷も当時は豊多摩郡である。

Tokio_Eingemeindungen_1932-1936
From Wikimedia Commons

大杉夫妻が引っ越した二階建ての
借家の家賃は月八十五円。
八十五円というのは今だったら、
どれぐらいの金額なんだろうか。

これを参考にしてみたが、
1円は今の5000円ぐらいなのかな。
よくわからないけど、
かりにそれぐらいだとすると、
家賃は月42万円。
かなりの豪邸だったのかもしれない。
 
Temporary_houses_in_Yasukuni_Shrine_after_Great_Kanto_earthquake
震災後の靖国神社境内に建てられた仮設住宅
From Wikimedia Commons
 
野枝は一男三女の母だった。

長女・魔子(6歳)、
三女・エマ(2歳)、
四女・ルイズ(1歳)、
長男・ネストル(生後23日)。

次女・エマは大杉の妹の
養女(笑子に改名)になっていた。
長男・ネストルは
8月9日に生まれたばかりだった。

このほかに2人の同居者がいた。
野枝の叔母・坂口モト、
伊藤家の親戚の娘・水上雪子(18歳)。
幼子を抱え産褥中だった
野枝の助っ人として、
野枝の故郷福岡から
上京してきていたのである。

大杉&野枝一家の
被害はどうだったのか。

野枝は9月3日付けの
手紙を2通書いている。
1通は福岡今宿に住む父・亀吉に。
もう1通は福岡市に住む
叔父・代準介(野枝の叔母キチの夫)に。

父・亀吉宛ての手紙。

〈大変な大地震でしたが
私共は幸いみんな無事でした。

東京中は三日にもわたって
目貫きのところが
全部焼けてしまいました。

全くの焼け野原です。
私共の方は市外なので
火事をのがれたので
無事にすんだのです。

それでもまだ揺れはやみません。
二日は外にいましたが
今日は昼から雨で家の中にいます。
もう心配あるまいとおもいます。(略)〉

矢野寛治『伊藤野枝と代準介』から引用




 
叔父・代準介宛ての手紙は、
前半の文面は父宛てのとほぼ同じだが、
後半は米の発送を無心している。

〈(略)怖いのは食物がない事です。

お米はもう玄米しかなく、
それをやっと二斗、
手には入れましたが、
それさえもあとはもうないのです。

一升八十銭とか九十銭とか
云っているそうです。

(略)御都合がつきますなら
出来るだけ早く白米を
二三俵か四五俵、鉄道便で送って
頂き度うございます。(略)〉

矢野寛治『伊藤野枝と代準介』から引用




 
この2通の手紙が野枝が書いた
最後の手紙になった。

叔父・代準介に米を無心しているのは、
野枝の実家が貧しく、
叔父・代準介が裕福だったからだ。

思えば、野枝は最後まで
叔父・代準介にサポートを求めた。

福岡から上京して
東京の上野女学校で学べたのも、
主義者としていつも金欠生活だった
金銭のサポートを
してくれたのも代準介だった。

代準介は頭山満と昵懇の仲で、
思想的には右なのだが、
大杉&野枝夫妻の理解者だったのだ。

松下竜一『ルイズー父に貰いし名は』によれば、
ルイズと水上雪子は
関東大震災から半世紀後、
感動の再会をしている。

震災時、
ルイズ1歳、雪子18歳だったので、
再会した時はルイズが50代前半、
雪子は60代後半と思われる。

〈あの大地震のとき、
とっさにルイズを抱きかかえて
イチジク畑に走り込んだのも雪子だった。

「ルイちゃんを連れ出したあと、
あっ、ネストルちゃんが二階に
寝ていたと気づいて、
慌てて駆け上がったんですよ。

ほんとに間一髪でした
運び降ろしたとたんに、
階段が崩れ落ちたですからね。

ーーええ、あの日は魔子ちゃんはいなくて、
エマちゃんはモトおばさんが
抱いて連れ出したから」〉

●松下竜一『ルイズー父に貰いし名は』より引用
 
Internment_Camp_for_protected_Koreans,_13_Seprember_1923
警視廳保護鮮人収容所 (目黑競馬場)
From Wikimedia Commons
 
魔子は近所の安成二郎の家に
遊びに行っていたのである。
その魔子を尻っぱしょりで
連れ帰ったのは大杉だった。

〈その魔子を連れ、ルイズを抱いて、
近隣の人が集まっている
ところへ避難すると、
内田魯庵がいて、
「どうだったい。
エライ地震だネ。
君の家は無事だったかネ?」と訊く。

「壁が少し落ちたが、
大した被害はない。
だが、びっくりした。
家が潰れるかと思ったよ」

余震が続き、
(略)小一時間もいると、
安成がカメラを提げてやって来た。

自宅前の避難所に戻って、
野枝と二人で撮ったのが
最後の写真になる。〉

大杉豊編著『日録・大杉栄伝』より引用

安成が撮った大杉&野枝の
最後のツーショット写真は
おそらく残っていないのだと思う。

ふたりはどんな表情をしていたんだろう。
たぶん笑っていたな。
あのふたりはそういう夫婦なのだ。

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