「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」56回 軍神

文●ツルシカズヒコ

 紅吉は頑固に黙ってしまった。

 荒木の軽いお調子にもなかなか乗ってはこなかった。

 しまいにはぐったりして、野枝の膝を枕にして寝てしまった。

 哥津はとうとう帰り支度を始めた。

 岩野も先が遠いからと仕度を始めた。

 野枝の膝には紅吉がいたので、野枝はらいてうと一緒に帰ることにして、哥津と岩野は先に座を立った。

 西村は蒼い顔をいよいよ蒼くして、背を壁にもたして荒木と話をしていた。

 とうとう哥津とは言葉もろくに交わさなかった。

 野枝は哥津の優しい心遣いを西村に伝えたかったが、そうしたところでどうにかなるものでもないので、そのままにした。

 しばらく横になっていたらいてうが起き上がり周りを見回しながら、

「岩野さんは?」

「哥津ちゃんと岩野さんはもうお帰りになりましたよ」

「そう」

 らいてうは煙草に火を移しながら、荒木の顔を見た。

 四人はまた話を始めた。

 荒木もらいてうも西村も、まだ酔いはすっかり醒めてはいなかった。

 荒木は歌を歌い出したりした。

 野枝は義歯を取った荒木の顔の変わったさまに見入りながら、時間のことが気になり出した。

「もう遅いから、今夜はこれから私の家に来てお泊まりなさいな、みんないらっしゃいよ」

 荒木はそういって、野枝の家に電報を打つことを勧めた。

 野枝はどうしても電車のなくならないうちに帰りたかった。

「じゃあ、早い方がいいから、お帰んなさい。紅吉は私の膝にとりましょう」

 野枝がぐっすり寝込んでいる紅吉の重い頭を持ち上げて、荒木の膝に移して立ち上がろうとした瞬間、紅吉が仰向いたまま嘔吐を始めた。

 正気を失った紅吉はまるで死人のようだ。

 みんなこの日に飲んだお酒の量を考えた。

 荒木が素早く立ち上がり、手を叩いて、手拭やお湯や雑巾などを頼んだ。

「帰るのなら私たちにかまわず、早くお帰りなさい。もう電車ではちと危ないから俥(くるま)の方がいいでしょう」

 らいてうがそこにいた主人に俥をあつらえさせ、野枝と一緒に下に降りながら、

「気をつけてお行きなさいね。家で何か言ってきたら、私が責任を持ってお詫び申し上げますからね」

 優しくいたわる調子はもう酔いが醒めていた。

 俥が来て野枝が乗ってしまうまで、らいてうは門口に立っていた。

 すっぽり幌を被せて門口を離れるとき、

「さようなら、気をつけて」

 というらいてうの言葉が追っかけて来た。

 俥は夜更けの町を音もなく走り出した。

 万世橋に出たときにはもう往来する電車も途絶えて、アーク燈がさびしく光り、静かにその光を浴びて軍神の銅像が立っていた。

 野枝はそのとき初めてあのいつも雑沓する須田町に、こんな静寂のときがあることを知った。

 昌平橋を渡って松住町(まつずみちょう)の角を曲がるころに赤電車が一台、本郷の方から来た。

 俥に揺られながら、野枝はいろいろなことを考えた。

 哥津と紅吉の不快さを思い遣ると同時に、そういうふたりの前で大ぴらに自分のそばに西村を引き寄せて、頓着なしに自由に自分を振る舞っていたらいてう。

 普通の女にはちょっと真似のできないことではないだろうか。

 らいてうは自分たちよりずっと偉(おお)きなものを持っているに違いないと、野枝は思った。

 悧巧な哥津は、もう体よく西村との関係を打ち切ってしまうだろうが、可哀そうなのは紅吉だ。

 紅吉は先月から新年号の表紙に立派なものを描き、自分で彫るのだと早くから準備をしていたが、なかなか出来上がらなかった。

 野枝は三、四日前にその催促のために、紅吉の家まで出かけて行ったときのことを思い浮かべた。

 紅吉は二階で臥(ふせ)っていた。

 中耳炎で氷嚢を当て、冷やしているという騒ぎだった。

 それでも紅吉はすばらしい表紙について話したが、すぐに疲れたような顔をした。

 野枝がすぐに帰ろうとすると、紅吉は今日はいつまでもいてくれるようにと懇願するので、野枝はそのまま紅吉の枕元に座った。

「茅ケ崎のこと知っている?」

「今日はその話はおよしなさいね。また今度うかがうわ」

「いやだ、今日聞いてくれなくっちゃ、私は話したいんだから、ね、聞いてくれるでしょう」

「少しは平塚さんから聞いて知ってるわ」

「嘘! 嘘! ああ、あの人のいうことなんか信用しちゃ駄目だ。あの人は自分のいいようにしか言いやしない。あなたはそれを信用しているの、駄目だ駄目だ」

「私は知らないんですもの仕方がないわ。まさか平塚さんがそんなにご自分に都合のいいことばっかり、おっしゃりはしないでしょう?」

「いいえ、あなたは知らないんです! きっとあの人は嘘をついたにちがいない。あの人は大人ですよ、私たちのように子供じゃないんだから、あなたは騙された。あなたの聞いたことはきっと嘘だ」

 紅吉は激して目にいっぱい涙をためて滅茶苦茶に泣き声をたてた。

 野枝は紅吉があまりにひとり決めで傲慢なので腹が立ち、面倒くさくなって黙った。

 紅吉も黙っていっぱい涙をためて、枕元に座っている私の顔を眺めた。

 野枝は紅吉のその顔を見ていると可哀そうになって、話を聞いてやる気持ちになった。

 紅吉はらいてうと奥村の最初の出会い、奥村が南湖院に泊まった雷鳴の夜のこと、翌日のこと、そのまた翌日のことを興奮して夢中になって語り続け、涙をボロボロこぼした。

 野枝も引き入れられるように胸に迫ってくるものを感じたが、らいてうや保持からも話を聞いている野枝にとっては、はたしてどれがどうなのかはわからない。

 野枝は夜更けた町を走る俥の上で、らいてうと紅吉と西村と哥津との関係を考え続けていた。

 ――哥津ちゃんはさらりとすべてを捨ててしまえるだろうが、だんだんに進んで行く西村さんと平塚さんの関係を、紅吉がどう見るのだろうか。

 平塚さんは静かな調子で笑いを含んで鷹揚に、紅吉のいかなるところもひっくるめて抱こうとしている。

 紅吉は平塚さんの冷淡さに不平を持っているが、平塚さんに対する愛を放棄する勇気もないのだ――。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、らいてうにとって西村は奥村が姿を消した後に「わたくしの心の隙間へ、一人の青年がすべりこんで来ました」(p411)という存在だった。

 西村は自分が奥村を南湖院に連れて行ったために、騒ぎのもとを作ったことを詫びる手紙をらいてうに書いた。

 そんなことがきっかけで、ふたりの個人的なつき合いが始まった。

「お姉さま」という呼びかけ調の手紙が、おりおり西村かららいてうに届いたという。

 西村陽吉は東雲堂書店の経営者である西村家に養子に入っていて、西村家の美しい娘さんと許嫁の関係にあったので、西村と哥津の関係は「野枝さんなどが想像するようなものではなく、ごく淡いものであったに違いありません」(p412)とらいてうは見ている。

 下町の地理に明るい西村に案内されて、らいてうにとっては珍しい場所をふたりで歩いたという。

 いっしょに浅草を歩いていて、ふと気紛れをおこし、「太陽閣」という温泉料理の大衆娯楽場(?)で、あまり上等の趣味でない場所をのぞいたこともありました。

 いっしょに歩くとき、たまに手をつなぐぐらいのことはあっても、それ以上にこちらの気持ちに踏みこんでくるようなことのない平静な節度のある人でした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p412)

万世橋駅前

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
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