「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」92回 眼鏡

文●ツルシカズヒコ

 一九一三(大正二)年六月三十日の夜十時ごろ、麹町区平河町の荘太の下宿を出た野枝は、半蔵門から市電に乗った。

 早く帰って辻に話したいと思い、電車の走るのももどかしかった。

 北豊島郡上駒込の家に帰ると、辻だけ起きていて何か書いていた。

 野枝が部屋に入りチラっと見た辻の眼は、激しい怒りに燃えていた。

 野枝は体が硬くなり、ひと言も口をきけなかった。

 辻は今まで見たことのない憎々しい眼で野枝を睨みつけていたが、黙って紙に何か書いて野枝に放り投げた。

「おまへはヴハニティーがあるね」

 私は何にも答へる事もが出来ません。続いて

「そう云ふ自覚を持つてゐないとすればおまへは自覚がないのだ」

 それでもだまつてゐました。

 体がブル/\震えるのです。

 何の意味だかまるきり分りません。

「おまへは、今日、校正に行つたのか?」

 尖った、重い、頭をひどく打つやうな声なのです。

「眼鏡は何の為めにかけたのだ」

(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p237/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p65~66)

 野枝は我慢ができなくなった。

 眼鏡をかけたのは今日が初めてではない。

 普段は用いなくてもすむようになったが、以前は眼鏡がなくてはならなかったのも辻は知っている。

 頭の具合が悪いときに使ってもいるし、辻自身がかけろということさえあるのに。

 今日はお湯の帰りに、あんまり眼がチカチカしたので、そうならないようにかけて出たのだ。

 それに木村に初めて会った日も、校正中だったので眼鏡をかけて会った。

 今日かけていっても、そんなに変わった感を与えはしないだろう。

 この男の私に対する愛は些細なこんな事にまで動揺するのかしら。

 あゝ私は何処までもひとりで行ける。

 屹度行つて見せる。

 あの憎らしい目は何だらう。

 あの目が憎らしい目が驚異にみはる程私はこの今のあの男に対する悲憤で自分を育てゝ見せてやる。

(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p238~239/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p66)

 いまいましくなって、野枝はそこに突っ伏した。

 思いつめた野枝の眼から涙が止めもなく流れた。

 野枝は汗ばんだ着物を脱ぎすてて、寝衣に着替えて床の上に長くなった。

 涙目で辻の背後を見つめていると、また、新しい悲しみが湧いてきた。

 今までふたりで歩いてきた道を振り返えると、辻はたったひとりの同情者、たったひとりの道連れだった。

 野枝は許そうという弱い気持ちにもなった。

 やがて、辻は野枝の枕元に書いたものを置いた。

 「私は木村といふ人に対してはなんとも思つてはゐない。

 おまへの態度に就いて非常に不満である、何故今日おまへは母の処に行つてくれないのか、俺が云はなくつても進んで行つてくれさうなものだ、俺はそれを望んでゐたのだ。

 おまへの態度は甚だ不純だと思ふ。

 今夜私はおまへの真実を聞き度いーーおまへは俺に対してハツキリした態度をとつてゐない。

 私は不満である」

(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p239/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p67)

 そんなにまで自分の態度は不明瞭なのだろうかーー不快になった野枝が書いた。

「私は今夜疲れてゐて何も書けません。明日まで待つて下さい。」と書きました。

「明日まで待つてはゐられない。今夜中に今直ぐ書いてくれ。」

「今日木村さんとあなたの間にどんな話があつたのです。」

 私はふと思ひ出してこんな事を書きました。

「そんな事を聞いてはゐない。私は只だ書きかけたものを見せた迄だ」

「私には今夜は到底書けません。

 ……心からにくらしそうに怒つてゐらつしやるあなたに……何を云つても解つては下さらないやうな気がします。

 お母さんの事はすみません。

 早くかへり度いと思つて大急ぎで出かけましたけれども事務所によつたのです。

 崕を歩いてゐますと大変めまいがしましたので……四時すぎまで小母さんの処に休んで、それから小母さんんと一緒に出かけました。

 木村さんの処へ行きますと置き手紙がしてあつて、どうしても待つてゐなければなりませんでしたから、待つてやつと七時頃木村さんは帰つて来たのです。

 お母さんの処へは明日まゐります。」

「母の処へは、今晩妹と二人で行つて来たからもう行く必要はない。多分明日か明後日頃帰つて来るだらう。」

(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p240/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p67)

 野枝は上向きになって、胸の上に手を重ねて目を瞑ってじっと、今朝からのことを考えた。

 辻はしばらく何か書いているようだったが、余程たって辻も横になった。

 野枝は身動きもせずにいた。

 辻はため息をついては動いていた。

 そうしているうちに、野枝はうとうとして、ふいと手を伸ばす拍子に、グイとその手を取られると、全身がブルブル震えた。

「おまえの心が動いてゐるのなら静かに別れやうその方がいゝだらう」

 息づまるやうな声でそつと囁かれると私の全身は電気にでもうたれたやうに手も足も胴も首もまつすぐに硬くなつてしまひました。

「いやだ!いやだ!」

 といふ自身の声さへ二言目には分らなくなつて、息もとまつてしまひ、意識も何も失せてしまふやうな苦しさなのです。

 ……やうやく一息ついたとき、Tのなだめる言葉がやつと耳に入りました。

 だん/\落ち着いて来て、先刻の言葉を思ひ出しますと、またしみ/″\と新らしい涙が浮んで来るのです。

(「動揺」/『青鞜』1913年8月号・3巻8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p241/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p68)

 ここまでの過程での野枝の辻に対する態度と辻の反応について、らいてうはこう書いている。

 木村氏と自分の交渉がT氏にどういふ感じを与えるだらうかといふことは野枝さんの最初からの可愛いい心配だった。

 その心配は事件の発展と共に進んで、見せずに出した二通の手紙のあることに思ひ至つた時、野枝さんはもうまともにT氏の顔を見てはゐられなかつた。

 私はそこに愛するものの心でなく愛されるものの心を見た。

 人を愛さうとするよりも、愛されやうとする野枝さんを見た。

 妊娠してゐる女の弱味といふものも多少手伝つてゐるのかも知れないが野枝さんの中になほ女らしい女の心の多分にあるのを見た。

 殊に手紙に就いて問はれた時、とうと誤魔化して仕舞つて、「別に大したことも書かなかつたやうだ」などと思ひながらいつか眠て仕舞ふあたりは弱者である女の「かよわい強さ」を心憎い程感じさせる。

 あんまり子供らし過ぎるといふより外私には何の言葉も見出し得ない。

 今迄可成り寛大に見過してゐたT氏も、野枝さんの態度を不明瞭と見た時、烈しい嫉妬をもつて対した。

 そして「お前の心が動いてゐるのなら静かに別れやう、その方がいゝだらう」とまで遂に云ひ出すやうになつた。

(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号・3巻11号_p99~100)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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