「詳伝・伊藤野枝」第179回 日比谷公園

文●ツルシカズヒコ

 一九一六(大正五)年二月上旬、大杉と野枝はふたりだけのデートをし、夜の日比谷公園でキスをした。

 二月のいつであつたか(僕は忘れもしない何月何日と云ふやうな事は滅多にない)三年越しの交際の間に始めて自由な二人きりになつて、ふとした出来心めいた、不良少年少女めいた妙な事が日比谷であつて以来、「尚よく考へてご覧なさい」と云つて別れて以来、それから其の数日後に偶然神近と三人で会つて、僕の所謂三条件たる「お互いに経済上独立する事、同棲しないで別居の生活を送る事、お互いの自由(性的のすらも)を尊重する事」の説明があつた以来君は全く僕を離れて了つた形になつた。

(「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」/『女の世界』1916年6月号/安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』_p64~65/日本図書センター『大杉栄全集 第3巻』)

 ……あの時のあなたのキツスは、随分ツメタかつた。

 『どうしてこんなに冷たいんだ』とも云つて見たやうにも覚えてゐるが。

 本当にあなたは、随分いたづら者なのだね。

 そして反対に僕の事を、あなたをカラカツタのだなぞと、あとで思つてゐたのだね。

 虫のいい、おバカさん。

(「戀の手紙–––大杉から」大正五年六月七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p636/海燕書房・一九七四年十二月十五日発行・大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』九六)

 大杉は野枝と別れたこの夜、その足で麻布区霞町の神近の下宿に行った。

 『けふはきつとあなた、どこかでいい事があつたのね。顔ぢうがほんとうに喜びで光つてゐるわ。野枝さんとでも会つて?』

 或晩遅く彼女を訪ねた時、顔を見ると直ぐ彼女は云つた。

 僕は……さう云はれて始めて、彼女の言葉通りに顔ぢうが喜びで光つてゐるやうな気がした。

 そして実際……今伊藤と会つて来たばかりだつたのだ。

 しかもいつも亭主が一緒なのだが、其日は始めて二人きりで会つて、始めて二人で手を握り合つて歩いて、始めて甘いキスに酔ふて来たのだつた。

 僕は正直に其の通りを彼女に話した。

 『さう、それやよかつたわね、私も一緒になつてお喜びしてあげるわ。』

(「お化を見た話」/『改造』1922年9月号/※大杉の死後、1923年11月に刊行された単行本『自叙伝』には「葉山事件」と改題されて収録、大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』にも「葉山事件」として収録されている。日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』には「お化を見た話」で収録されている)

 大杉は神近が自分と野枝の関係を認めていて、恋愛についての持論に対しても同調していると思い込んでいた。

 ……僕は非常に伊藤を愛してゐる、今かうして相抱き合つてゐる彼女よりも以上に愛してゐる。

 僕は、この事実を偽る事は出来ないと云つた。

 彼女はそれを承認した。

 しかも、ちつともいやな顔は見せないで、笑ひながら承認した。

 『たとへば、僕にはいろんな男の友達がゐる。……甲の友人に対するのと乙の友人に対するのと、其の人物の評価は違ふ。又尊敬や親愛の度も違ふ。しかし、それが僕の友人たるに於ては同一だ。そして皆んなは、各自自分の与へられた尊敬と親愛との度で満足してゐなけれbならない。俺は乙よりも尊敬されないから、あいつの友人になるのはいやだ、などと云ふ馬鹿な甲はゐない。』

 と云ふのが僕の友人観、兼恋愛観だつた。

 が、理屈はまあどうでもいいとして、とにかく彼女は、僕の心の中での彼女と伊藤との優劣を認めたのだ。

 と同時にまた、其の尊敬や親愛の対象となるものの質の違つてゐる事も認めたのだ。

(同上)

 そのころ大杉は行き詰まっていた。

 前年十月に復刊した『近代思想』(第二次)だったが、十一月号、十二月号、一月号と連続して発禁になった。

 発禁にならぬものを出そうと主張する同志と大杉との確執が深まった。

 大杉と荒畑との隔絶が決定的になり、『近代思想』(第二次)は結局、一月号が終刊号になった。

 二度目の『近代思想』を止すと同時に、僕は一種の自暴自棄に陥っていた。

 ……もう何もかも失ったような僕が、その時に恋を見出したのだ。

 恋と同時に、その熱情に燃えた同志を見出したのだ。

 そして僕はこの新しい熱情を得ようとして、ほとんどいっさいを棄ててこの恋の中に突入して行った。

 その恋の対象がこの神近と伊藤だったのだ。

(同上)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記(ざっき)』(新泉社・1973年10月1日)

★『大杉栄全集 第3巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

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