「詳伝・伊藤野枝」第189回 両国橋駅

文●ツルシカズヒコ

 辻の家を出た野枝は、とりあえず神田区三崎町の玉名館に身を落ちつけた。

 玉名館は荒木滋子、郁子姉妹の母が経営する旅館兼下宿屋である。

 荒木滋子は七年後、甘粕事件で野枝が虐殺された直後にこう回想している。

 いつでしたか、ずつと以前に、私の処へ突然にお出でになつていろ/\T氏との家庭のもた/\をお話しになつたことがありました。

 其節O氏とのいきさつもお話し下すつて一旦自分一人国へ戻らうかとも思ふが、出来ることなら帰国せずに、何処かへ一人静かに潜んで読書したい、と云ふことでしたので私も、野枝さんが、あの若さで–––その頃の野枝さんは、未だほんとにお若かつたし、T氏と御一緒になられた当時は私が始めて野枝さんにお目に懸つた頃なのですが、初々しい表情の豊かな、一寸(ちよつと)西洋人形のやうな感じのあつた方なので–––世帯(しよたい)の苦労や、一人一人増えて来るお子さんの世話やきやらで、いつぱしの世話女房らしい世間通(とでも云ひますか)に、なつて行(ゆ)かれることが、惜しいやうな気がしてゐましたので、「もし私の位置が、あなたの向上の為めに役立つなら、御利用下すつてよござんす」と、申したことでした。

 私は、その時、旅館を営業してゐた母の家に食客をして居りましたから。

 と、それから四五日程すると、「たうとう御厄介になりに来ましたよ、T氏とは、すつかり了解を得ましたし、当分少し落着かせて下さいね」とのことでした。

 と、後から、たうとうO氏も一緒に住まはれることになつてしまつて、(私としては、O氏が私の家に一緒に住まはれると云ふことは、少し不意だつたので、ちつと面喰ひました)なんでも十日ばかり御一緒に居りました。

 一緒と云つても、野枝さんは二階の向ふの方の部屋、私は階下の反対の方へ向つた一番隅つこの部屋と云ふわけで、一日一ぺん位しか顔も合せず、それも、ほんの十五分位お天気の挨拶でもする位なものでした。

 野枝さんは、ちつとは飲(い)けたでせうが、O氏はちつともお酒を上らず、それに、O氏とは、其時が初対面でもあり、私は大抵自分の部屋に引き込みきりで、時間に倦(あ)きて来れば、一人で少しづゝお酒を呑んだりしてゐましたから、野枝さんの方の動静は、ちつとも分らなかつたわけです。

 と、もう一つ野枝さんの部屋を訪(たづ)ねなかつたわけは、O氏が家へ来られた三日目頃に、憲兵屯所からと云ふて、私のことを大変委しく調べに来たことでした、生憎(あいにく)と私が留守の時で、母が応対しました為めに、母に非常な心配を懸けてしまつたのです。

 母はおろ/\になつて、私の家の所轄署の高等係りに懇意の方がある、その方を母は態々(わざわざ)呼びにやつて、その方から、私のことを、いろ/\陳弁して貰つた、とか云ふことを、私は母から、くど/\聴かせられて了つたのです。

 どうせ話半分に違ひはないのでが、とにかく母の気の痛んだと云ふことは事実でしたので、また其後も、母と私が顔が合ひさへすれば、母はそれを私に責めるので、その度に母子(おやこ)が、苦い言葉争ひになるのが私は面倒くさくなつたので、野枝さんの部屋へも、別に要事もなし、お訪ねするのを母に対して遠慮しました。

 勿論、そんなですから、私と母とは、一日一ぺんも顔を合はさない日すらもありました。

(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p33~34)

 辻の家を出た翌日、四月二十五日の朝、野枝は野上弥生子の家を訪ねた。

 彼女には一昨日の晩のしほれた、哀れげな様子はもう微塵も残つてゐませんでした。

 血色のいゝ元気そうな顔をして、

 「何んだかせい/\したやうな気がしますのよ。」

 と云つて笑つてゐました。

 三年前のあのジプシー・ガールじみた野生美の魅力–––それは久しくその顔から薄れたやうに見えたもの–––が俄かに顔ぢゆうに溢れて来たかの如くでありました。

 伸子はその著しい変化に驚かされました。

 而して目の前の彼女の自由な、気軽そうな様子とは反対に、自分の気持ちはだん/\重く沈み込んで行くのを感じました。

(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p326~327)

 翌日、四月二十六日、野上弥生子は野枝の使者から手紙を受け取った。

 弥生子は野枝から求められた少しの金と手紙を使者に渡した。

 弥生子が野枝に宛てた手紙には「婦人が或る主張、必要に迫られて家を見捨てた時、門の外一歩には何が一番に待つてゐるかを考ふる事は、その際何より大切な事でなければならない」と書かれていた。
 
「ノラはあれから何をして生きただろう。悪くすると売春婦になったかもしれない」

 と書いたある米国の婦人評論家の言葉を、弥生子は痛切に考えていたのだった。

 野枝が千葉の御宿に旅立つことになった四月二十九日、野枝の部屋でささやかな送別会が開かれた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、荒木滋子や五十里(いそり)幸太郎などを交えた宴だった。

 滋子はその送別会の様子をこう記している。

 そんなことで、十日ばかり、だら/\と過ぎてしまつたのですが、野枝さんはO氏と千葉県の方へ暫く静養に行(ゆ)かれることになつて、いよ/\旅行仕度と云ふ日でした。

 その日は、私も朝から野枝さんの部屋へ這入(はい)りきりで、皆さんと、いろんな興駄(よた)話をしてゐました。

 その時野枝さんが、名古屋から到来物だと云つて、私に巻絵(まきえ)のお重箱を下さらうとしたのです。

 と、O氏が「この人に、そんなもの上げたつてだめだ、世帯(しよたい)持ぢやあるまいし重箱なんか要るものかね、」と、その『ね』だけは口で云はずに、くり/\とした目で私の方へ向けられたのでした。

 と、「いゝんです。お重箱だつて、模様がよけりや、部屋へ置いて、気持ちが好(い)いわ、ね」と、野枝さんも、その『ね』だけは私の方へ目で話したわけなのです。

 それから、荷づくりと云ふ段取りになつてO氏が、それは、それ、これは、これ、と目見当をつけてゐる間(あいだ)を野枝さんは、赤ちやん(これはT氏との赤ちやんでした。野枝さんは、この赤ちやんを、最初から連れておいででした)に、おつぱいを飲ませながら、横になつて肘枕の上で、呑気さうな顔ににこ/\して居ました。

 と、Oさんが、

 「君、縄は、もう用意してあるんでせうな」

 「まだ」

 「なに?まだ?何故買はせて置かなかつたの、そんなこつちや、君との間も長いこつちやないね、せい/″\一年位続くかな」

 O氏は、少し吃り、吃り、そんな冗談を云つて、笑つてでした。

 野枝さんは、済まして、赤ちやんの方へにこ/\してゐました。

(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p34~35)

 滋子は野枝が滞在したのは「十日ばかり」と記しているが、四月二十四日から四月二十九日までの滞在だとすると五泊六日である。

 玉名館で送別会が開かれた日の夕刻、『万朝報』の記者が野枝と大杉に面会に来た。

 野枝に「あなたの態度は若い婦人たちにとっても打撃でしょう」と問うのに、「え、打撃? 私のほうはそうは思いません」と言うや、すぐ大杉が引き取った。

「打撃だってぇ、馬鹿にしてらぁ。打撃どころか眠っている婦人界の目を覚ましてやるんだ。礼を言われてよいはずだよ。ああ、東京はうるさい、うるさい。こんな所にいられないから逃げていくのさ。まあ新婚旅行だよ。」

(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p183)

 大杉や五十里(いそり)は野枝を両国橋駅まで見送った。

 当時、総武線は隅田川の西岸と接続しておらず、総武線の西の始発・終着駅は両国橋駅だった。

 両国橋駅が両国駅に改称されるのは一九三一(昭和六)年、路線が隅田川を渡り御茶ノ水駅まで延線開業するのは一九三二(昭和七)年である。

 両国橋駅から総武線に乗った野枝は千葉駅から房総線(現・外房線)に乗り換えた。

 房総線の車両には野枝を含めてふたりの乗客しかいなかった。

 四時間汽車に揺られて深夜、御宿駅に着くと、雨が振り出した。

 風も強く淋しい夜だった。

 野枝が歩いて向かったのは、千葉県夷隅郡御宿の上野屋旅館だった。

 かつて、らいてうが奥村と長逗留した旅館である。

 らいてうから話を聞いた野枝は、一度、行ってみたかったのだろう。

 御宿の停車場のすぐ近くだと聞いていたが、少し離れていた。

 海の近くだった。

 かなり広い旅館で、野枝は一番奥の中二階のような四畳半の部屋に通された。

★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

上野屋旅館

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