「詳伝・伊藤野枝」第192回 蓄音機

文●ツルシカズヒコ

 五月二日、野枝は大杉からの二通目の手紙を受け取った。

 四月三十日、神近が大杉に会いに来て泊まっていったという。

 ●……神近が来た。

 四五日少しも飯を食わぬさうで、ゲツソリと痩せて、例の大きな眼を益々ギヨロつかせてゐた。

 社(東京日日新聞)の松内(則信)にもすつかり事実を打明けたさうだ。

 ●松内の方では、それが他の新聞雑誌の問題となつて、社内に苦情の出るまでは、一切を沈黙してゐるということであつたさうだ。

 ●しかし神近の方では、他に仕事の見つかり次第、辞職する決心でゐる。

 ●もう、あなたからの手紙も、見せてくれとは云はない。また内容を聞きたがりもしない。

 ●只だ僕がそれを読んでゐる間、だまつて眼をつぶつて何事かを考へてゐるようだつたが、その顔には何の苦悶も見えなかつた。このまま進んでくれればいいが。

 ●うと/\と眠つてゐる間にも、眼をさますと、何んだか胸のあたりに物足りなさを覚える。

 そして、只だひとりゐる、あなたの事ばかり思ひ出す。

 神近が来てからも、此の胸の缺カンは、少しも埋められない。

 ●あなたの手紙は、床の中で一度、起きてから一度、そして神近が帰つてから一度、都合三度読み返したのだが、少しも胸に響いてくる言葉にぶつからない。

 早く来い、早く来い、と云ふ言葉にも、少しもあなたの熱情が響いて来ない。

 ●逢ひたい。

 行きたい。

 僕の、此の燃えるやうな熱情を、あなたに浴せかけたい。

 そして又、あなたの熱情の中にも溶けてみたい。

 僕はもう、本当に、あなたに占領されて了つたのだ。

 ●子供の守を頼むという婆さんは、いい婆さんであればいいがね。

 どう?

(「戀の手紙–––大杉から」大正五年五月一日夕/『大杉栄全集 第四巻』_p601~604)

 野枝は大杉の手紙にあった「早く来い、早く来い、と云ふ言葉にも、少しもあなたの熱情が響いてこない」という文面に、腹を立てている。

 ●何故あなたはそんな意地悪なのでせう。

 ●今ここまで書いて、あなたの第二のお手紙が来ました。

 宮島(資夫)さんのハガキと一緒に。

 ●会ひたい会ひたい、と云ふ私の気持がなぜそんなにあなたに響かないでせう。

 ●昨日も一日、焦(じ)れて焦れて暮しました。

 
 ●さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。

 明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな。

 ●神近さんは何んだかお気の毒な気がしますね。

 でも、それが彼(あ)の方の為めにいいと云ふのならお気の毒と云ふのは失礼かもしれませんのね。

 ●其処まで進んでゐらつしやれば、でも、大丈夫でせうね。

 あなたと神近さんの為めにお喜びを申しあげます。

 ●さつき、あんまりいやな気持ですから、ウヰスキイを買はせて飲んでゐるんです。

 ●あさつてはあなたの声がきけるのね。

 何を話しませうね。

 でも、つまらないわね、声だけでは。

 ●婆やは目が少しわるいので困りますが、他には申分ありません。

 子供(辻流二)を大事にしてくれますから。

 でも、あなたは子供の事を気にして下さるのね、いいおぢさんですこと。

 ●あなたの手紙は二度とも六銭づつとられましたよ。

 でも、うれしいわ、沢山書いて頂けて。

(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月二日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p353~354/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)

 宮嶋資夫からのハガキの文面はどんな内容だったのだろうか。

 宮嶋が辻と野枝の中に入り、協議離婚に着地させる労をとっていたのかもしれない。
大正村

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

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