「詳伝・伊藤野枝」第219回 陽が照ります

文●ツルシカズヒコ

 神近は大杉と誠実な話し合いをしたかった。

 その希望が断たれた彼女が床の上に起き上がっていたのは、一九一六(大正五)年十一月九日、零時ごろだったろうか。

 眠ることによってすべてを忘れようと努めたが、どうすることもできなくなって起き上がったのだった。

 カッと炎のような怒りが室内をグルグルと廻っていた。

 あの男はほんとにようく寝て居りました。

 少し熱があったやうでしたが、その為めでせう、蒲団を踏み下げて胸先を出して深い鼾をかいて居りました。

 油汗が額際には滲み出て、仰向けになつてゐる為め余り高くない鼻が扁平になつて、口を少し開きかけて居りました。

 ギロリとした眼に一番利かぬ気を見せてゐる男ですから、眠つてゐるとあの男らしい気分が非常に減じられるのです。

 長い間見慣れてゐるあの男の寝顔を充分の安らかさを持つて見てゐると、私には余り遠くもない過去が甦つて来るのでした。

 『よい友人』同志であつた頃のことがね。

 (神近市子『引かれものの唄』)

 神近の考えは行って帰り、帰って行き、長い間眠らないでいた彼女の考えはフラフラしてくるほどに廻った。

 二度ほどは東京へ帰ろうとも考えた。

 停車場に行って一番電車を待てばいい、そして東京に行って少し金をこしらえて旅行をしてみようか……。

 けれど–––。

 「世が明ければ、また昨日のような今日のような苦しい日が限りもなく続く」

 「それではこの男を起こして私の今の気持ちを話して、私が悪ければいくらも謝る、考え違いがあれば考え直しもしよう、そしてようく話し合って、別れるものならどっちにも無理のないように別れよう、でなくては私の立つ瀬がない」

 しかし–––。

 「眼が覚めたら、あの男はせせら笑うだろうな。そして、そして……その先には何もなし」

 その時、チン、チン、チン、と、どこかで柱時計が鳴りました。

 三時が鳴れば間もなく一番鶏がなく、そして四時がなる、その次には五時がなる、そして夜があける、そして陽が照る、……私はフラ/\と立ち上つて、着物をかけてあつた足元の衣桁(えもん)に近づきました。

 えゝ、相憎(あいにく)と久しく使わなかつた手提袋の中に、短刀が入つて来てゐたのです。

 さうですね、一番力強く私に『死』の齎(もたら)す凡ての恐怖と偶像とを打破させたものは『やらなきやゐられなかつた』ことでした。

 簡単でせう。

 旨くそれを説明して御覧なさいと仰有(おつしや)るのですか。

 さうですね、こんな風に云つたらどうでせう。

 陽が照ります、風が吹きます、波が打ちます、花が咲きます、そして私は『やらなきやゐられなかつた』と。

 (神近市子『引かれものの唄』)

 神近が短刀で大杉の首を刺したその瞬間の記憶は、彼女自身にはまったくないという。

 直後、神近は寝床の上に座っていたつもりだったが、大杉によれば寝床の上に彼女が立っていたという。

 あの男はフト眼を開いて居りました。

 そして『ウ、ツ』と云つて左の手を伸ばして傷口にあて、電気にすかして血を見ると、

 『ウワーッ』

 と叫んで立ち上りました。

 私はその時迄ほんとにボンヤリと立つてゐたのでせう。

 あの男が立ち上るのを見ると、私は床の間の方に短刀を投げつけたやうでした。

 そして私の後方(うしろ)になつてゐる縁側の障子をあけて、何とも云へない長い、そして大きな/\叫び声を叫んだと記憶します。

 それは長い/\間の苦悩を意味する憤りを発した後の安心と、深い/\悲しみと、目前の血の驚愕とが一になつて、悲しいやるせのない叫び声であつたのです。

 ほんとうに久しい間、強い意志の働きで注意深く畳み込まれ折り込まれてゐた感情が、堰を破つて流るゝ春先の大河(おほかわ)の様に、一度にドツと流れ出したのでせう。

 (神近市子『引かれものの唄』)

 そして、神近は階段を下りて長い廊下を表口に駆け出した。

 『許して下さい、許して下さい』

 と云つてる事に気がつきました。

 獣の様なあの男の泣声に、私はあの男が私の後に続いてゐることを知りました。

 (神近市子『引かれものの唄』)

★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版/『神近市子著作集 第一巻』・日本図書センター・2008年)

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