「詳伝・伊藤野枝」第228回 塩瀬の最中

文●ツルシカズヒコ

 日蔭茶屋事件が起きる直前、大杉と野枝の訪問を受けていたらいてうは驚いた。

 神近が『青鞜』から離れて以降、らいてうは彼女と疎遠になっていたが、彼女が大杉が主宰するフランス語教室やフランス文学研究会に参加しているらしいという噂話はどこからともなく聞いていた。

 しかし、らいてうは神近と大杉が傷害事件に発展するような深い間柄であることは、まったく知らなかった。

 こんないたましい破局に、神近さんが、しかも野枝さんの介入によって追いこまれたことを、心から悲しみながら、そのなかでおのずから心に浮かぶのは、初対面のときから強くわたくしの印象に残っている神近さんのあの妖しく光る、神経質なやや血ばしっているような大きな眼でした。

 人相からいえばなんというのだろうなどとそのときからちょっと気になっていたものでしたが、あそこまでやらねばならなかった神近さんの性格をあの眼がすでに物語っていたように思えてならないのでした。

 神近さんとしてはああするよりほかなく、ああしなければ気持の転換はできなかったのでしょうから、神近さんの行為ばかりをむやみに非難しようとは思いません。

 それよりもわたくしは恋愛の自由ということを踏みはずしたあの多角恋愛の破綻が、古い封建道徳に反対し、新しい性道徳を打ちたてようと努力するものの行く手の大きな支障となることを、おそれずにはいられませんでした。

 ……自己革命だけに終始していた「青鞜」の婦人たちも、ようやくいままでの個人的な立場から、目を社会に転じなければならないようになってきました。

 多くの錯雑した、容易に解決しがたい問題が–––少なくとも個人の力ではどうすることもできないような多くの問題が、目の前にむらがってきました。

 こうして、わたくしたちは、大きな壁の前につき当たったのです。

 ここで、わたくしたちの「青鞜」は終わりました。

 そして「日蔭茶屋事件」が、好むと好まざるとにかかわらず、わたくしたちの「青鞜」の挽歌であったことも、いなみ得ないことです。

 同時に、わたくし自身の青春も、このへんで終わったのではないかと思います。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p608~611)

 自由恋愛によって引き起こされた日蔭茶屋事件に関し、らいてうは大杉と野枝を批判した。

 一体恋愛の自由といふことは、氏等が意味するやうな、一種の一夫多妻主義(或時は多夫一婦人ともなり、多夫多妻ともなる)委(くわ)しく言へば、相愛の男女は別居して、各自独立の生活を営み、また若し是等の男女にして他の男女に恋愛を感ずれば、其等とも同時に、しかも遠慮なしに結合することが出来るのみならず、愛が醒めれば、子供の有無に拘らず、いつでも勝手に別れることが出来るといふやうな無責任な、無制限な、従つて共同生活に対する願望も、その永続の意志をも、欠いた性的関係でありませうか。

 これは恋愛の自由の甚しき乱用でなくて何でせう。

 然るにその新婦人と呼ばれる者の中から真の恋愛の自由は……永久の共同生活に対する願望と、未来の子供に対する責任感との伴った恋愛のみにある事を忘れ、自分の愛人の間違った恋愛観を、深き反省も批判もなく受け容れ、それを実行させるやうな婦人を出したといふことは、しかもその果は殺傷沙汰まで引き起したといふことは、どう考へても残念なことでした。

(「所謂自由恋愛と其制限 大杉・野枝事件に対する批評」/『大阪毎日新聞』1917年1月4日/『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p610より引用)

 「オウスギカミチカニササル」という電報を受け取った安成二郎が、逗子の千葉病院に見舞いに行ったのは十一月十二日だった。

 新聞に生命に別状なしとあったので、ゆっくり構えていたのである。

 行って見ると「創(きず)の経過思ひの外よしとて、昼飯の馳走になり、三時間も話した。山崎今朝弥弁護士来り、神近君の弁護の件につき、大杉君が単独で話してゐた。(原因、前夜肉的関係なし)という句がチラと見えた。それは検事の訊問に答へた要領の一つであつた」とその日の私の日記にある。

 それは神近君の弁護をする山崎氏と大杉君が神近君の刑を少しでも軽減するための打合せをしてゐるのであつた。

 私の日記はそれだけで、もつと細かに書いておくべきだつたと今にして思はれる。

 大杉君への見舞に「塩瀬にて栗のきんとんのもなかを買つて行く」とも書いている。

(安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』_p53)

 「塩瀬」の最中は甘党の大杉の好物だった。

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

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