「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」112回 妙義神社

文●ツルシカズヒコ
 一九一四(大正三)年六月、らいてうと奥村は北豊島郡巣鴨町一一六三番地から、北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地に引っ越した。

 青鞜社の事務所の住所もここに移ったことになる。

 野枝の家とは道路ひとつ隔てた妙義神社前の貸家だった。

 野枝が家事の苦手ならいてうに、炊事を引き受けてもよいと申し出たからである。

 らいてうが月十円の実費を持ち、野枝のところに昼と夜の食事をしに行くことになった。

 そのころ辻と野枝は辻の家族とは別居し、一(まこと)との三人暮らしだった。

 辻はいつも三畳の書斎の真ん中に机を置き、スピノザの石版刷りの額の下で翻訳のペンを運んでいた。

 辻の息抜きは尺八を吹くことだった。

 あのころ、辻さんのお母さんたちとは……別居していたからでしょうが、家のなかには、炊事道具などほとんどなく、金盥(かなだらい)がすき焼鍋に変わったり、鏡を裏返して、俎板(まないた)代わりに使われたりしていました。

 茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯の盛りつけです。

 野枝さんは、料理が下手というより、そんなことはどうでもいいというふうで、コマ切れのシチューまがいのものを、ご飯の上へかけたものなど、得体の知れないものをよくつくりました。

 仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気です。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p518)

 野枝の手料理はともかく、食後の会話は盛り上がった。

 辻は音楽や絵画にも造詣が深かったので、奥村ともよく話が合った。

 帝劇の女優と結婚した原田潤も巣鴨に越してきて仲間に加わり、座は盛り上がった。

 ……こんなとき、野枝さんは大きくふくらんだ白い胸元をひらいて、赤ちゃんにお乳をふくませながら、みんなの話に大きな声でよく笑い、また、よく怒ったものでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p519)

 しかし、らいてうと野枝の共同炊事は一ヶ月も続かなかった。

 生まれつき肉嫌いで、食べ物の好き嫌いが激しい奥村が我慢しきれなかったからである。

 野枝は『青鞜』六月号に二本の原稿を書いた。

●「S先生に」

「S先生」は上野高女の教頭・佐藤政次郎(まさじろう)である。

 佐藤は野枝の上野高女五年時の担任・西原和治とともに、このとき(一九一四年)上野高女にまだ奉職していた(ふたりは同校を一九一五年三月に退職)。

 当連載の第三十五回「出奔(七)」に「S先生に」の主旨を記したが、野枝は恩師であった佐藤を批判した。

 私はあの事件で子供から一足とびに大人になました。

 私は学校で先生方に伺つたお講義が何の役にも立たないことを確かめ得ました。

(「S先生に」/『青鞜』1914年6月号・第4巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p80)

●「読んだものから」

 中川臨川「天才と永遠の女性」(『創造』一九一四年五月号)、早川鉄治「現代婦人の欠点」(『婦人評論』一九一四年五月一日)に対する反論である。

 野枝はこの反論の最後をこう結んでいる。

 どの方面に向ふ人にしても、日本人には深刻がない。

 私はそれが一番不満だ。

 根ざしが深くないからだ。

 道徳だつて宗教だつて皆徹底したものは一つもない。

 容易に形式だけは新らいしものをとり入れてゐる。

 内容は依然として旧い。

 そして『調和』してゐると喜こんでゐる。

 私は『調和』を悪(にく)む。

『中庸』を悪む、徹底しなければ力は出ない。

『どつちつかず』には、自己の信条と云ふものがない。

 日本人は日本固有の何物も持たない。

 本当の国民性と云ふやうな何物にも動かない力強い内的特点は一つもない情ない国民だ。

(「読んだものから」/『青鞜』一九一四年六月号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

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