「詳伝・伊藤野枝」第279回 トスキナ(二)

文●ツルシカズヒコ

 ピアノ独奏の沢田柳吉はベートーヴェンの「ムーンライト・ソナタ」(月光曲)を弾いた。

 沢田は天才と称され、当時ショパンを弾くピアニストは楽壇では彼一人だと言われていた。

 清水金太郎、山田耕筰、竹内平吉は東京音楽学校の同期生である。

 天才だったが、酒好きでズボラで酔っぱらいのピアニストでもあった。

 『高田保著作集 第二巻』によれば、問題が起きたのは、沢田のピアノ独奏    「ムーンライト・ソナタ」の初日の演奏が終わったときだった。

 「タキシードなどとは民衆を侮蔑するものだ」

 という意見が楽屋からもち上がったのである。

 あれは貴族の服装である、浅草は貴族入ルベカラズの聖天地である、民衆の服をもってせよというわけだ。

 翌日、沢田は着流しで舞台に現われた。

 幕が上ると、上手から飄々とした痩身の沢田がよれよれの袷一枚、よれよれの兵児帯を締め、それも結びっきりに結んだ端をだらしなく下げた格好で現われて、舞台中央にでんと置かれている黒光りするグランド・ピアノの前に座った。

 タキシードのときは正面客席に向かって慇懃に頭を下げたが、それも貴族社会の幇間の風習だというのでやめてしまい、いきなりピアノの前に腰をかけた。

 しゃんと構えて鍵盤を叩き始めたが、格好が格好なので見物たちはきょとんと眺めているしかなかった。

 察しのいい連中は、あれはピアノの調子を直しているのだろう、やがて出て来る演奏者を待っていた。

 しかし、そのうちに沢田は立ち上がり、黙って引っ込み、幕が静かに下りた。

 見物は呆気にとられるばかりで、怒鳴る気にもならなかった。

 三日目、ただの着流しではというので、沢田は大道具方の半纏を羽織って演奏した。

 こんどは見物から弥次りとばされた。

 すると沢田はピアノも弾かずに客席に向ってただ一言「バカヤロウ」と怒鳴って引込んでしまった。

 沢田のこの態度を松本克平は、こう評している。

 官学出の沢田があえて浅草へ出てショパンやベートーヴェンをしかも浴衣がけやハッピ姿で弾いたのも、初めはオーソドックスな音楽の大衆化という沢田なりの意図があってのことが窺われるのである。

(松本克平『日本新劇史–––新劇貧乏物語』)

 この沢田の「バカヤロウ事件」のときの観音劇場の最終演目が『トスキナア』である。

 スリを官許にするという奇想天外なオペレッタ(喜歌劇)である。

合唱

  ソワ、ソワ、誰だ

  ソワ、ソワ、誰だ

トスキナ独唱

  それが泥棒、それが泥棒

  黒いマントに赤い帽子

  服は紫

合唱

  それを見れば判る。それを見れば判る

  直に判るよ。

赤い帽子に黒いマント、紫の服を来たトスキナと称する怪青年がソロを唱いながら舞台の中央に現れる。

  私は官許のスリで赤い帽子に黒いマントは
  
  ご規則通りの制服でございます。

  みなさんお気をつけて下さいよ。

  わたしは免許のスリですよ。

 これが浅草オペレッタの傑作と今なお伝えられている『トスキナア』(二幕)のプロローグである。

 その中に『トスキナの歌』というのがあって、当時のファンにはよく愛誦された。

  島へおいで、島へおいで、

  島は平和だ、

  喧嘩なんかすこしも

  ありませんから……

 それは支配することもされることも嫌うアナーキストの夢をうたったものであった。

(松本克平『日本新劇史–––新劇貧乏物語』)

 佐藤春夫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、武林無想庵、今東光、尾崎士郎、添田唖蝉坊らが応援に駆けつけ、大杉、野枝、近藤憲二、宮嶋資夫らの本物のアナーキストも入れ替わり立ち替わり声援に来ていたという。

 野枝は舞台上の辻を観たのだろうか。

 観たとしたらどの演目だったのだろうか。

 楽屋に行って二言三言、言葉を交わしたかもしれない。

 まったくふたりの関係は断絶していたかもしれない。

 ところで、七十年後の一九八九(昭和六十四・平成元)年、日本はバブルの絶頂期を迎えることになる。

 浅草オペラ全盛期とバブル絶頂期、自棄(やけ)糞なアナーキーなアトモスフェアーがどこか似ているかもしれない。

★『高田保著作集 第二巻』(創元社 ・1953年1月1日)

★松本克平『日本新劇史–––新劇貧乏物語』(筑摩書房・1966年1月1日)