「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」5回 能古島

文●ツルシカズヒコ

 伊藤家は窮乏を極めていたが、野枝はいじけず伸び伸びと育った。

 ……毎日働きにでている母親から逆に独立心を学んだのと、彼女の周辺に美しい自然があったことがあげられよう。

 家の裏木戸をでれば、ただちに白い砂浜と荒い玄界灘の波立つ海がせまっている。

 両手をひろげたように東西から妙見崎と毘沙門山が今津湾をつつんでいる(ママ)。

 蒼い水平線のむこうは大空にとけ、白い入道雲がわきのぼっている。

 手まえには能古島が雄牛がうずくまったように横たわっている。

 野枝は海にでておもうさま泳ぎまわった。

 沖へでると海辺の家は遠くみえなくなり……頭上にはぬけるような大空が広がる。

 波間にからだをうかしてゆさぶられていると、少女のこころは何ものにもとらわれない自由さにとき放たれていくのだった。

井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p22)

 幼少時の野枝が泳ぎが得意だったことはよく知られていて、海岸から四キロほどの距離にある能古島までも泳げたという。

 野枝の泳ぎについて野枝の叔母・代キチの証言がある。

 これは瀬戸内晴美(寂聴)が『文藝春秋』に「美は乱調にあり」を連載するため、福岡市に取材に訪れたときのものであろう。

 瀬戸内は西日本新聞社の紹介で野枝の長女・魔子(真子に改名)に会い、魔子の案内で代キチ、四女・ルイズ(留意子に改名)、次兄・由兵衛、妹・ツタに面会している。

 瀬戸内が来福したのは「桜が咲く」ころだったが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p32)によれば、それは一九六四(昭和三十九)年である。

 このとき、風邪気味で床についていた代キチは八十八歳、前年に脳溢血で倒れてベッドに仰臥していた由兵衛は七十二歳、ツタは六十七歳、魔子は四十七歳、ルイズは四十二歳である。

 
 泳ぎでござりますか。

 はあそれはあんた海辺育ちのことゆえ、河童(かっぱ)のごと上手でござりました。
 
 型は抜き手でござります。

 わたくしなども、子供のころから、学校をぬけだして日がな一日、泳いで暮しておりました。

 陽の当る材木の上に寝ころんで濡れた髪を干し、半分乾いたのをごまかして結いあげ、内緒のつもりでござりますから無邪気なものでござりましたよ。

 はあ、そりゃもう、下ばきなんどというものをはきましょうかいな。

 誰しもすっぱだかで泳ぎます。

 野枝は飛びこみなど好きでござりましたが……。

 わたくしどもの子供のころと、野枝の子供のころとのくらしは、ああいう田舎町ではさして変っていたとも思われません。

(瀬戸内晴美「美は乱調にあり」/『文藝春秋』1965年4月号〜12月号/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・文藝春秋/瀬戸内晴美『美は乱調にあり』・角川文庫/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社/瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』_p23~24・岩波現代文庫)

 青鞜時代、野枝は仲間たちに自分の幼少時のことを話すことはほとんどなかったようだが、珍しく話したのが水泳のことだった。

 平塚らいてうは飛びこみの話が印象に残ったという。

 海国に育つた野枝さんは水泳が上手で男子に交つて遠泳の競争も出来るのださうだが、殊に眼まひのする様な高い櫓(やぐら)から水の中に飛び込むことの出来るといふことは野枝さんの……得意としてゐる処らしい。

 最初それを練習する時はいくら飛び込まふ/\と思つても足がすくむでどうしても思ひ切つて飛び込めない。

 けれど一旦櫓に登つたが最後もう梯子を取られて仕舞ふから二度と下りてくることは出来ないことになつてゐるので、死んだ気になつて飛び込んで仕舞ふのだといふやうな話をいつか野枝さんから聞いたやうに記憶してゐるが、どうも野枝さんのやる処を見てゐるとそれによく似た処があるやうなのは面白い。

(平塚らいてう「『動揺』に現はれたる野枝さん」/『青鞜』1913年11月号_p83~84)

『青鞜』の編集部員仲間だった小林哥津(かつ/一八九四〜一九七四)は、野枝から聞いた幼少時の逸話を記憶に残していて、井出文子に話している。

 野枝の家の隣りに八幡神社があり、そこは子供たちの遊び場だった。

 ある日、遊びの中でひとりの子が「首つり」の真似をしてみせた。

 松の枝に縄をかけてぶら下がっているうちに、本当に首が締められて、その子がもがき始めた。

 おもしろがって見ていた子供たちは急にゾッとして、クモの子を散らすように逃げて行った。

 首をしめてしまった子が助かったか、死んでしまったのかはわからない。

 けれどその動機の無邪気さと、事実の残酷さで、小林哥津にとってはやり切れない物語だった。

 ところが野枝はその話をむしろ明るい調子で笑いとばしながら語ったというのである。

 都会育ちで、繊細な神経の持ち主であった哥津にとっては、その笑いが不可解でなんともイヤーな気持になったと、彼女はわたしに話したことがある。

 この話は、わたしの心にも深く残っている。

 たぶん野枝の笑いは、この無慈悲な記憶を遮断するための表現であったのではなかろうか。

 野枝の笑いのなかには、あまりにもありありとその日の情景、空の色、雲の形、松風のざわめき、子どものゆがんだ表情と自分たちの驚きや胸ぐるしさが記憶されていたのにちがいない。

 野枝は、それを生ぬるい感傷などでは語れなかったのであろう。

(井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』_p23~24)

「首つり」といえば野枝の創作に「白痴の母」(『民衆の芸術』1918年10月号・第1巻第4号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)という作品がある。

 野枝が今宿の実家に帰省中に、実際に起きた事件をリポートしているような創作である。

「野枝の実家」の隣家に住む母とその息子。

 汚い身なりの母は八十歳をすぎている。

 五十歳をすぎている息子は白痴である。

 近所の子供たちにからかわれ、腹立ち紛れに子供たちを追い回す白痴の息子は地域の問題児である。

 野枝が小学生だったころから、白痴の息子は地域の問題児だった。

 ある日の夕方、白痴の息子が逃げる子供を石段から突き飛ばし、怪我をさせてしまう。

 それから三、四日して、老母の死体が発見される。

 老母は裏の松の木に紐をかけ首つり自殺をしたのだった。

 野枝が二十三歳のときに発表した作品だが、病苦や生活苦のために首つり自殺をする人がいるという現実は、幼いころから彼女の中にインプットされていたのだろう。

 今宿にかぎらず、当時の日本の貧しい村落に共通することだっただろう。

 ついでながら、野枝の幼児期の今宿のことが垣間見える創作がもうひとつある。

「火つけ彦七」という作品である。

「今から廿年ばかり前に、北九州の或村はづれに、一人の年老(としと)つた乞食が、行き倒れてゐました。」

 という書き出しなのだが、この原稿執筆時の野枝は二十六歳、その二十年ばかり前というのは野枝が六歳のころということになる。

 子供たちは白髪の下から気味の悪い眼を光らせて睨み据える乞食の彦七が怖いのだが、怖いもの見たさで覗きに行く。

 ……若(も)しも恐い事があつて、逃げるときに、逃げ後れるものがないやうに、めい/\の帯をしつかりつかみあつて、お宮の森をのぞきに出かけました。

 ……子供たちの眼にまつさきに見えたのは、お宮の森で一番大きな楠の古木の根本に盛んに燃えてゐる火でした。

 そしてその次ぎに見えたのは、その真赤な火の色がうつつて何とも云へない物凄い顔をしたあの乞食でした。

『ワツ!』

 子供達は……悲鳴をあげてめい/\につかまえられてゐる帯際の友達の手を振りもぎつて、駆け出して来ました。

(「火つけ彦七」/『改造』1921年7月夏期臨時号・第3巻第8号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p479~480/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p364)

 このあたりの細かい描写は、この作品がフィクションだとしても、野枝が小さいころに同様の体験をしたことを下敷きにしているかのようだ。

 度胸のいい野枝のことだから、逃げ腰の仲間に発破をかけて、先頭に立って覗きに行ったかもしれない。

 この乞食は村の家につけ火をし、放火犯として逮捕される。

 彼は三十年前に村から逐電したのだが、村への復讐の念に燃えて村に舞い戻って来たのだった。

 被差別部落問題をテーマにした重い作品である。

 乞食は若いころ、町外れの瓦焼き場の火を燃す仕事にありついたが、これは野枝の父・亀吉が職人として雇われていた今宿瓦の工場をモデルにしているのであろう。

★井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(文藝春秋・1966年3月1日)

★瀬戸内晴美『美は乱調にあり』(角川文庫・1969年8月20日)

★『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』(新潮社・2002年1月10日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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