「詳伝・伊藤野枝」第235回 特別要視察人

文●ツルシカズヒコ

 大杉の四妹・秋は名古屋市在住の叔父、中根吉兵衛(焼津鰹節製造株式会社社長)宅に同居していたが、この叔父の媒酌で東京で回漕業を営む某氏と婚約、挙式を間近に控えていた。

 彼女が自殺したのは一九一六(大正五)年十二月十三日の朝だった。

 ……大杉あき子(十九)は十三日午前六時頃己(おの)が寝室にて出刃庖丁を以つて咽喉を掻き切り自殺を遂げたり……兄栄の事件が累をなし突然破談となりたれば其を悲観しての自殺なる可しと……急報に依り栄は十三日夜行にて名古屋に来る由

(『東京朝日新聞』/1916年12月14日)

 十四日の葬儀に参列した大杉も、さすがに落ち込んだにちがいない。

 ……自分の行跡が招いた惨劇に強い衝撃を覚え、悲嘆に暮れたことであろう。

 自責の念は深い傷跡となって、以後の言動を律する作用をしたはずである。

(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p203)

 堀保子「大杉と別れるまで」(『中央公論』1917年3月号)によれば、山崎今朝弥弁護士や堺利彦が仲介役になり、大杉と保子との離婚が成立したのは十二月十九日だった。
 
 大杉には以後二年間、毎月二十円を保子に支払う義務が課せられた(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 日蔭茶屋事件後、大杉と野枝は世間からの非難の矢面に立たたされた。

 『新日本』(1917年1月号)に掲載された「ザックバランに告白し輿論に答ふ」(日本図書センター『大杉栄全集 第3巻』)で大杉は反論したが、この反論をするために大杉が見た六誌の十二月号だけで二十二人が批判の矢を放っていた。

 山田わか、生田花世、安部磯雄、与謝野晶子、杉村楚人冠、岩野清、平塚らいてう、岩野泡鳴、武者小路実篤……。

 大杉はともかく、野枝には反論の場も与えられなかった。

 野枝の原稿を載せた『女の世界』が発禁になったことにより、新聞や雑誌が及び腰になったためと思われる。

 野枝は日蔭茶屋事件からおおよそ一年後に発表した「転機」に、日蔭茶屋事件前後の心境を記している。

 野枝はまず、人妻でありながら大杉という男ができたから夫を捨て、子供を捨てたという世間的な曲解に立ち向かわねばならなかった。

 私はその曲解を云ひ解くすべも凡ての疑念を去らせる方法も知つてゐた。

 しかし、凡ては世間体を取り繕ふ、悧巧な人間の用ふるポリシイとして、知つてゐるまでだ。

 私はたとへどんなに罵られやうが嘲られやうが、真つ直ぐに、彼等の矢面に平気でたつて見せる。

 彼等がどんなに欺かれやすい馬鹿の集団かと云ふことを知つてゐても、私はそれに乗ずるような卑怯は断じてしない。

 第一に自分に対して恥しい。

 また此度の場合、そんな事をして山岡(※筆者註/大杉のこと)にその卑劣さを見せるのはなほいやだ。

 どうなつてもいい。

 私は矢張り正しく生きんが為めに、あてにならない多数の世間の人間の厚意よりは、山岡ひとりをとる。

 それが私としては本当だ。

 それが真実か真実でないか、どうして私以外の人に解らう?

 T(筆者註/辻のこと)と別れて、山岡に歩み寄つた私を見て、私の少い友達も多くの世間の人と一緒に、

 『邪道に堕ちた……』

 と嘲り罵つた。

 けれど、彼等の中の一人でも、私のさうした深い気持の推移を知つてゐた人があるであらうか?

 かうして、私は恐らく私の生涯を通じての種々な意味での危険を含む最大の転機に立つた。

 今まで私の全生活を庇護してくれた一切のものを捨てた私は、背負ひ切れぬ程の悪名と反感とを贈られて、その転機を正しく潜りぬけた。

 私は新たな世界へ一歩踏み出した。

「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)

 ようやく成った大杉と野枝の握手、それは世間の人に眉をひそめさすような恋の握手よりはもっと意味深く、野枝がこの二年間持ち続けた夢想の実現であった。

 そしてそれは、悲しみと苦しみと喜びのごちゃごちゃになった野枝の感情の混乱の中に実現された。

 私は彼の生涯の仕事の仲間として許された。

 一度は拒絶しても見たY(※筆者註/堀保子のこと)–––K(※筆者註/神近市子のこと)–––等いふ彼と関係のある女二人に対しても、別に、何の邪魔も感じなかつた。

 真つ直ぐに自分丈けの道を歩きさえすればいゝのだ、他の何事を省みる必要があらう? とも思つた。

 あんな二人にどう間違つても敗ける気づかひがあるものかとも思つた。

 またあんな事は山岡にまかしておきさえすればいゝ。

 自分達の間に間違ひがありさへしなければ、自分達の間は真実なんだ。

 あとはどうともなれとも思つた。

 要するに、私は今迄の自分の生活に対する反動から、たゞ真実に力強く、すばらしく、専念に生きたいとばかり考へてゐた。

「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)

 とは言え、大杉をめぐる面倒な恋愛は、野枝にも少なからず苦痛を与えた。

 幾度私はお互ひの愚劣な嫉妬の為めに不快に曇る関係に反感を起して、その関係から離れようと思つたか知れない。

 けれど、そんな場合に何時でも私を捕へるのは、私達の前に一番大事な生きる為めの仕事に必要な、お互ひの協力が失はれてはならないと云ふことであった。

 山岡に対する私の愛と信頼とは、愛による信頼と云ふよりは、信頼によつて生まれた愛であつた。

 彼の愛を、彼に対する愛を拒否する事は、勿論私にとつて苦痛でない筈はない。

 しかしそれはまだ忍べる。

 彼に対する信頼をすてる事は同時に、折角見出した自分の真実の道を失はねばならぬかもしれない。

 それは忍べない。

 私は何うしても、何うなっても、あくまで自分の道に生きなければならない。

「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)

 そうして、野枝はすべてを忍んだ。

 本当に体中の血が沸(に)えくり返る程の腹立たしさや屈辱に出会つても、私は黙つて、をとなしく忍ばねばならなかつた。

 それは悉ゆる非難の的となつてゐる、私の歩みには、必然的につきまとう苦痛だつたのだ。

 そして、私が一つ一つそれを黙つて切り抜ける毎に、卑劣で臆病な俗衆はいよ/\増長して、調子を高める。

 しかし、たとへ千万人の口にそれが呪咀されてゐても、私は自身の道に正しく踏み入る事の出来たのに何の躊躇もなく充分な感謝を捧げ得る。

「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)

「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、大杉と握手が成った野枝はこの年、一九一六(大正五)年に特別要視察人(甲号)に編入され、尾行がつくようになった。

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第3巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)

「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」 目次