「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」111回 染井の森

文●ツルシカズヒコ

「散歩いたしませんか」

 こう言って誘いに来た野枝と連れ立って、野上弥生子が家から近い染井の森へ行ったのは、ある春の日だった。

 野枝は一(まこと)をおんぶしていた。

 弥生子は下婢の背中に下の子(野上茂吉郎)を預け、そのかわり四つになる小さい兄(野上素一)の手を引いていた。

「なんといういい日でしょうね」

「この四、五日はまた特別ね」

「鶯がよく啼くじゃありませんか」

「こんな季節になると、ここいらに住んでいるのが本当に、幸せだというような気持ちがいたしますよ」

 ふたりはこんな感嘆詞を連ねながら、墓地の方へ歩いて行った。

 野枝が案内するという森は、その墓地の後ろに当たり、付近に広大な別邸を持つ岩崎男爵の所有地だったが、弥生子はその存在すら知らなかった。

「まあ、そんなところがあるのですか」

「あの森をまだ知らなかったのですか」

 墓地を通り抜けながら、ふたりはそこに眠っているいく人かの知人のことなどを静かに話した。

 森は樹木の多いわりに、明るく朗らかだった。

 午前十一時ごろの日光が樹木に添って一直線に降っていた。

 初めは松ばかりだったが、奥に入るにしたがって、杉、檜(ヒノキ)、楓(カエデ)、栗、欅(ケヤキ)のごとき樹木が光の中に現れた。

 他にも雑多な樹や草が生い茂っていたが、弥生子はいつものごとく植物学の知識の欠乏を痛感した。

「私はときどき自分は何ひとつ正確に知っていることはないのだと考えて、悲しくなることがありますよ」

 弥生子はゲーテ『伊太利紀行』を読んだばかりだったが、この書物が農業誌と地質誌と建築学の考証であるのに驚いた。

 万有を吸収したといっていい偉大なゲーテにとっては、なんでもないことなのだろうが、それほどの天才と虫のような自分たちを比較するのは僭越であるのは承知の上だったが、弥生子の感激は純粋だった。

「うんと勉強してお互いに偉くなりましょうね。ええ、きっとなりましょう」

 ふたりは宣誓のようにいつも取り交わすこの言葉を、この日も熱心に繰り返した。

 一(まこと)を出産した野枝は、独身者が多い青鞜社の仲間とは毛色の異なる弥生子に接近していった。

 長くさし出した栗の枝の下に、ふたりは並んで足を投げ出しながら、その日もいろいろなことを話した。

 最後に話題が人間の衣食問題になったとき、弥生子は野枝とその家庭に横たわる苦しい事情を知った。

 野枝の青いやつれの目立つ顔を見ていると、弥生子は悲しくなった。

 しかし、森の美しい光景はそれ以上、貧乏話を続けていはいられないほど、輝やかしく愉快な魅力に充ちていた。

 弥生子の四つの男の子と下婢が向こうの茂みの方へ走り出した。

 彼の白い前掛けと女中の赤い帯が、樹幹の間にちらちらした。

「あのくらいになるともう世話なしですわね。坊やも早く大きくなってちょうだい」

 野枝は背中から下ろして抱いている子供に向かってこう言い聞かせ、もうお乳のころだといって胸を開けた。

「ぢゃ、あなたにもひとつ御馳走しませうね。」

 伸子は下婢から先刻受取つて、側の草原におねんねこにくるんで寝かしておいた子供を自分も抱きあげて乳をやりました。

 子供は二人とも可なり智慧づいてゐました。

 而して空いた胃袋を充たさうとして乳房に搦む舌の力にも、男性らしい強さがありました。

 一種の性的感覚であるとまで見なされてゐるその触覚(タッチ)は、彼等の赤ん坊臭い、甘い皮膚の匂ひと共に母親の胸には、特殊な快さでなければなりませんでした。

 痛い位ゐ張りきつた乳腺が、汐の引くやうに軽く萎えて行くだけでもいゝ気持ちでありました。

 その時ほとんど天の真ん中に沖した太陽は、その栗の枝を通して樹下の若い母親達の授乳を照らしました。

 葉を辷(すべ)つた光りの斑点が、二人のひろげた胸や、其処に埋めてゐる赤ん坊の頭の上にちら/\しました。

「斯うしてゐると何んだか眠くなるわねぇ。」

 彼女は重い瞼をあげて眩しさうに笑ひました。

 伸子には今日の風変りな授乳が面白く顧られました。

 いつもこんないゝお天気で、そしてこんな野天でのんきに暮らしてゐたら、それこそ一枚の毛皮と木の実を食べても生きて行かれそうな気がしました。

(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p307308)

 赤ん坊ばかりではなく、母親たちの胃の腑も昼食を欲するころ合いであったが、弥生子はまだここを離れたくはない気がした。

「ねぇ、いいことがあるわ、ここでお弁当を食べましょうよ」

 帰りに花でも買えばと思って、弥生子は二十銭銀貨を一枚帯の間に挟んでいた。

 下婢を呼んでそれを渡し、巣鴨町の通りに出てパンでも買って来るように命じた。

「僕も行きたいなァ」

 下婢と子供とふたりで行くことになった。

 三十分ほどで餡パンを買った使いが帰って来た。

 四人で五つずつの分け前になった。

「ああ、おいしい、おいしい」

 歩き回ったので実際おいしくもあったが、同時に少し誇張した悦びを見せて、みんな笑いながら、風変わりな場所での風変わりなランチをすませた。

「生活難なんて考えようじゃないでしょうか。これだけ食べられれば、とにかく胃袋は一杯なんですものね」

 どうにでもなっていくものだから、あまり余計な心配はしないようにという心で弥生子は野枝を慰めた。

 自分も決して富んでいる隣人ではないけれども、できるだけのことはしてあげたい気持ちになった。

 森を出るときには、その半日によって、ふたりの友情は一層の深まりを持った。

★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)

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