「詳伝・伊藤野枝」第166回 野依秀市(一)

第166回 野依秀市(一)
文●ツルシカズヒコ

 一九一五(大正四)年七月七日。

 野枝は実業之世界社社長、野依秀市( のより・ひでいち)に会いに行った。

 このときの野依と野枝の対話記事「野依社長と伊藤野枝女史との会見傍聴記」が、実業之世界社発行の『女の世界』に掲載された。

 朝から曇っていた空がようやく晴れかけた正午近い頃、野枝は実業之世界社に電話をかけた。

 「これから野依さんにお目にかかりたいと思いますが、お差し支えはないでしょうか?」

 結婚したての野依は筒袖の黒紋付に袴をつけて出社していた。

 黒紋付を着ていたのは、この日、親戚に結婚式があるからである。

 野枝からの電話に対応した社員が野依に用件を伝えると、野依はその社員に「よろしいすぐお出で下さい」と返事をさせた。

 そして社員の記者にこう言った。

 「今、青鞜の野枝さんが来るそうですが、大いに怪気炎を吐いてやろうと思いますから、そこで筆記をして下さい」

 雑誌のネタにされるとは知らずに、野枝は洒落た模様のある麻の袋を下げて三階の戸口から入って来た。

 「私、野依です」

 椅子の上に胡座(あぐら)をかいていた野依は、着物の着崩れを直して前の机の上に頭を下げた。

 野枝も軽く挨拶をしてそばの椅子に深くを腰を下ろした。

 席にいた四、五人の記者の目が一様に見てみぬふりの輝きをもって動きだした。

野依『アナタが有名な伊藤さんですか。

   度々、お出で下すつたさうですが、何時も留守で失敬しました。

   ……アナタは写真で見たよりも実物の方がグツト美(よ)い、

   僕などもさうですがネ……』

伊藤『アナタは平塚さんにお会いになった事がありましたね。』

野依『会ひましたよ

   ……併(しか)し却々(なかなか)アナタも御健筆ですネ、

   青鞜を一人でやつて居るのは実に偉いですよ。

   僕などは口で喋つて書く方なんで……』

伊藤『イヽエ、妾(わたし)なんか駄目ですよ。』

野依『イヽヤ偉いです、

   時にアナタは夫婦和合の結果をあらはして居るんぢやないですか。』

伊藤『エ、何んです。』

野依『子供ができてるんぢやないですか。』

伊藤『違ひますよ。』

野依『こりア失敬しました。

   大変アナタのお腹が大きいもんですから。』

伊藤『女の世界は大変売れるさうですね。』

野依『売れますよ。

   アナタは原稿を書くと言つて違約しましたネ。』

伊藤『別に違約……』

野依『ぢや何故書かないんです。』

伊藤『だつて妾のものは女の世界へ向かないんですもの。』

野依『イヽエ向きますよ。

   変わった人間が屹度(きつと)好きますよ、

   智識階級にはアナタ方の書いたものが分りますが、

   一般の人にはチト分りにくいと思はれますから只分り易くさへ書いて戴ければいゝんです……

   オヤ、アナタは帯へ英語を書いて居ますネ、

   そりアどう言ふ訳ですか。』

伊藤『どう言う訳ツテこともありませんが、

 実は絵を描いて貰ひ度いと思つて居たんですが妾なんぞに書いて呉れる人がありませんもんですから、英語を書いたんです。』

野依『ハアハア見たところ体裁が宜(い)いからですか、

   シャレて居ますね、

   何も英語を書かんでも日本語を書いたらいゝぢやありませんか……』

伊藤『エ日本字が下手なもんですから……』

野依『宜しい。

   僕は君のやうな人と結婚したかつたネ。』

伊藤『爾(そ)うですか。』

野依『僕も二、三日前に結婚しましたよ。

   今日僕は親類の結婚に行かなくてはならないのでこんな服装(なり)をして来たんですがネ……

   僕もアナタの作物は監獄の中で読みましたよ。

   女の雑誌を出さうと言ふ気があつたもんですから婦人雑誌は残らず見ました。

   何んでも海浜に行つて居つた平塚さんから、

   アナタに宛た手紙を出してありましたね、

   その雑誌にアナタは大変愚痴ぽい事を書いてありましたね、

   だから僕は、年が年中クヨ/\してばかり居て顔などももつと変かと……』

伊藤『時には爾う言ふ時もありますよ。』

野依『ヂヤ、今日は僕のところへ来たのでニコ/\して居ると言ふ訳なんですか。』

伊藤『エヽ……、マア……』

野依『亭主持ちの妻君連がよく言ひますよ。

   野依さんアナタは誰にも屹度好かれる人ださう言ふ好かれる人が監獄みたいなところに行くなんテ……

   ダが、伊藤サン、アナタもまだ子供ですネ、

   帯へ英語を書いて喜んで居るなんテ、

   僕等も二十歳時代にはよくそんなことがありましたよ、

   全くアナタは可愛いですよ、
 
   何歳です、二十一か二か……』

伊藤『二十一です。』

野依『二十一……僕とは十歳(とう)も違う。

   僕は可愛がつてあげますよ。

   三越へ連れて行つて珈琲でも飲ませてあげませうか……

   ネ伊藤サン僕はしまつた事をしましたよ、

   結婚などして……アナタはよく亭主に不満だと言ふが僕はマホメツトのやうに博愛主義だ。

   これでもクリスチヤンですからネ……

   ハヽハヽハヽ、と言つて仏教も宜いです、

   儒教もいゝです、

   其他に僕には僕の宗教哲学がありますから可笑しいですね。』

伊藤『御自分の宗教が一番宜いでせう。』

野依『アナタは全くまったく可愛いよ……

   ダが、どんな女でも僕の前に来ると直ちに僕に酔はされてしまう……

   ハアハア僕よりは十歳も若いですか。』

安成『ソリア若いですネ。』

   と『実業之世界』安成編輯長も電話をかけに来たついでに相槌を打つた。

野依『ハアハア、アナタの羽織は一寸洒落てますネ。

   アナタもまだ大に色気がありますナ。
 
   ハヽハヽハヽ草履をお穿きなさい草履を。

   足袋が汚れますよ。

   ……デハ伊藤サン、一つアナタの恋物語を聞かうぢやありませんか。』

伊藤『一寸話せませんわ、何(いず)れ書きますよ。

   妾、喋るのが下手なんですから……』

野依『僕は平塚さんよりもアナタが好きだ、

   アナタは平塚さんよりは偉い、

   二十一やそこらで、亭主に対する不満がどうの、

   女の領分が、どうしたなんテ、

   僕等の二十一位の時にはそんなことを考へもしなかつた、

   実にアナタは偉いですよ……

   時に今日はどう言う御用件でお出でになつたんです。』

伊藤『御迷惑なことをお願ひに参上(あが)つたんです。』

野依『私は少しも迷惑なぞしませんよ、

   イヤなら断る丈けですからね。

   併しアナタの事ならどんな事でも喜んで聞きませう、

   どんな事ですか。』

伊藤『原稿を買つてお貰ひ申し度いんです、

   青鞜の方で少し金が要りますもんですから。』

野依『オヤ、アナタは袋を持つてゐますネ。

   見せて御覧なさい。

   ハアハア、南京米の袋ぢやありませんか、

   アナタは南京米を喰つて居ますね、

   所謂廃物の利用ですなア、

   ……ヤア、之は失敬……失敬……

   どうしても酸いも甘いも噛み分けた人間でなくちやかういふものは持てませんよ。

   どうです、御亭主と別れて僕にラブしちや、

   僕は非常に面白いですよ、

   新しい女は僕のような快活な男を有(も)たなくちやとても満足は出来ませんよ。

   何も精神上に恋したからつて一向差し支がないぢやありませんか……

   時に、今、アナタは原稿を売りに来たと仰(おつし)やつたが、

   それを迷惑の御願ひとは、何が迷惑なんです、
   
   善いものなら買ふし、悪いものなら買はないまでゝ少しも迷惑でも何んでもないぢやありませんか、

   それも自由意志を抑へつけても是が非でもと言ふんなら兎に角だが……』

伊藤『それが悪くつても何んでも是非お願ひしたいと思ふんです。』

野依『ソンな事はアナタのやうな理性の発達した人の言い草ぢやありますまい。

   エ、どうです伊藤サン。

   やられたでせう……

   アナタは今日迄纏めたものを出版(だ)した事がありますか。』

伊藤『纏めたものはありません。』

野依『アヽ、爾うですか……

   ダが、新しい女だとか何んだとか言つても一向駄目ですよ、

   皆ンな僕に吹き飛ばされてしまふんですからネ……

   ハヽハヽハヽ、

   アナタは『第三帝国』によく書いて居られるやうですが、

  『第三帝国』の人がお好きですか。』

伊藤『別に好きと言ふ訳けもありませんが原稿料がとれますもんですから。』

野依『ハヽ、爾うですか。

   するとアナタは、

   なんでも彼んでも僕にこの原稿を買つてくれと言ふんですか。』

伊藤『エ、野依さんを見込んで買つて戴き度いと思ひます。』

野依『ヤヽ、アナタも却々巧い事を言ひますネ。

   併しアナタは本当に可愛い女だ。

   ダガまだ苦労が足りないから、

   人生が本当に分つて居ないやうですネ、

   社会の事が解らずに人生が解らう筈がありませんんからね、

   アナタはずいぶんいろ/\な事を言ふやうだが、

   何んだか階段の二段目から一足飛びに十段目へ飛び上るやうな事ばかり言つてるんであれぢや駄目だ……、

   こりア、失敬々々。

   何れ後からあの野依と言ふ奴は莫迦な事を言ふ奴だと言ふでせう、

   そりア僕も覚悟の前ですよ……

   今、アナタのお主人は何もして居らつしやらないんですか。』

伊藤『して居りますよ、

   翻訳をして居ります、

   ソコにも一つ出て居りますの。』

   と社長の横の机の上にあつた書物を指さした。

野依天才論、

   あヽ、これですか。

   アナタが辻さんのところへ嫁(い)つたんですか、

   それとも辻さんがあなたの許へ入聟(き)たんですか。』

伊藤『私が嫁つたんです。』

野依『さうでさう。

   ソンなら御亭主の辻と言ふ苗字を名乗るのが本当ぢやありませんか。

   夫婦は一心同体ですからネ、

   従つて姓名も一緒にするか、さもなければ、辻さんの辻と、

   伊藤の伊の字とをとって辻伊とでも命(つ)けるんなら分かつて居ますが、

   嫁に行き乍(なが)ら苗字も改めず自分ばつかり勝手な熱を吐いてるナンテ、

   随分、猾いよ。

   ……何んですかこの原稿は他(どつ)かへ持つて行きましたか。』

伊藤『エ、新潮社へ頼んだのですが、

   九月頃でなくては出せないと言ふんです。』

野依『九月だつて宣いぢやありませんか。』

伊藤『デモ、今日お金が要るんですもの……』

野依『君は図々(ずうずう)敷(し)いナ、

   勝手な事ばかり言ふんですネ。』

伊藤『だつて売るんですもの、

   買つて呉れる所へ持つて行かなきアなりませんもの。』

野依『ハイ、ハイ、光栄に存じますよ、

   アハハヽヽ。野依さんなら屹度買つて呉れると思つて、

   わざ/\お出で下すつた丈けでも光栄に思ひます

   ……だがネ、どうしてアナタ方の議論は社会を度外視して自分一個の考へばかり言つてるんです、

   四畳半で、ヤキモチ半分考へた議論を堂々と吹つかけて、

   女を導くなぞは確かに罪悪ですよ。』

伊藤『別に導きは致しません。

   又、妾等は人を導く程たいした人間でもありませんもの。』

野依『イヽエ、確かに導かれますよ、

   天下の女は皆んな莫迦ですからネ……

   アナタは本当に亭主に不満があるんですか、

   あるなら堂々と離縁したらどうです……』

伊藤『今は不満なぞありません。』

野依『今はないのですか、今迄なかったんですか、どっちです。

   一体、どう言ふ所が不満なんです。』

伊藤『解りませんねえ。

   時々喧嘩をする位の事はありますが……』

野依『ヂヤ、不満はないと言ふんですか。

   実際僕などもアナタから原稿を売りに来られてハイ/\と言つて直ぐにもお金を払ひ得る程の
   
   身分になり度いと思つて居ますが、

   貧乏で困りますよ。

   一体、その金はいつ要るんです。』

伊藤『今日、要るんです。』

野依『今日は駄目です。

   僕も今、金をこしらえつゝあるんですからネ。』

伊藤『何しろ青鞜が発売禁止になつたでせう、

   それに前からの残本もありますので、
   
   今月、雑誌をこしらえましても、本屋から一文も取れませんので、

   この原稿を売つたお金を印刷屋の払ひの方へ廻したいと思つて居ます。』

((『女の世界』1915年8月号・第1巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p409~413)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

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