「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」63回 姉様

文●ツルシカズヒコ

 青鞜社講演会の後、おそらく一九一三(大正二)年二月半ばのころであろうか。

 野枝は当時の青鞜社内部の人間関係について、こう記している。

 もっとも紅吉はすでに青鞜社の社員ではないのだが。

 紅吉と平塚さんの間は旧冬の忘年会以後、ます/\妙なことになつて来てゐた。

 平塚さんは西村さんと、哥津ちやんの交渉が後もどりをすると、だん/\に西村さんの方に心をよせて行つた。

 神経過敏の紅吉は私たちがびつくりする位よく二人の行動を注意してゐた。

 そしてよく知つてゐた。

 そして何時の間にか私たちの前で遠慮なく平塚さんのことを彼是云ふやうになつた。

 けれどもそれを決して平塚さんの前で云ふことは出来なかつた。

 或日、私が平塚さんの書斎を尋ねると直ぐ哥津ちやんを尋ねた。

 二人して話をしてゐる処に紅吉が来た。

 三人は、その日は大変寒かつたので火鉢にかぢりついて話をした。

(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月14日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p92~93/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p173)

 哥津の家は麹町区富士見町五・十六、靖国神社のすぐそばにあった。

「平塚さんはだんだん激しくなるわね」

 突然、紅吉が言い出した。

 野枝がびっくりして聞き返した。

「何が?」

「何がって、あなたもわからないわね。ずいぶんお盛んじゃありませんか。今日も出かけるって言ってやしなかった?」

「そう言ってらしたわ」

「きっと西村さんと一緒よ。どこへ行ったんでしょうね。どこだろう?」

「何を言ってるの紅吉は?」

「あなたたちはお話にならない! 西村さんは平塚さんのことを姉さん、姉さんと言ってるんだって、知ってる?」

「なあに、知らないわ」

「あなたたちは実に呑気だ。平塚さんが太陽閣に行ったことを知らないでしょう?」

「それなら知ってるわ」

「誰に聞いたの?」

「平塚さんからだわ」

「平塚さんが? 自分で話したの?」

「ええ、なあにそんな顔をして」

「変です、そんなこと言うはずないんだけどね、わからないな」

「言ったんですもの仕方ないわ」

「じゃ西村さんと一緒だってことも言って?」

「それは知らない」

「そらごらんなさい。それまで言うはずはないわ、やはり言いやしない」

「紅吉はずいぶん変ね」

 野枝と哥津は顔を見合わせて笑った。

「平塚さんとは絶交だのなんだの、しょっちゅ言っているじゃないの。そんなことはもう気にしなくたっていいじゃないの」

「そうですとも、だけど知ってたっていいでしょう。今日はどこだろう?」

「どこだかわかるもんですか」

「だってね、平塚さんはそんなに会う人なんか持ちませんよ。お友達がそんなにないんですもの」

「あるかないか、そんなこと気にしなくてもいいわ」

「哥津ちゃん!」

「あ、びっくりしたわ、なあに?」

「あれは哥津ちゃんがこさえたの?」

「ええ、そうよ」

「うまいわね、ひとつくれない?」

「紅吉は、だって田村さんがこしらえた、あんなきれいなのを持っているじゃないの」

 田村俊子は姉様作りの名人だった。

「でも、くれてもいいでしょう」

「あんなのでよければあげるわ」

「ありがとう」

「私にもちょうだいよ」

「ええ、これはいつか芝居を見てすぐこしらえたのだけれど、思うようにどうしても感が出ないのよ」

 哥津は大小ふたつの姉様を膝の上でいじりながら、方々を直した。

 大きい方には「浦里さん」、小さい方には「かむろのみどりさん」と書いた小さな紙切れがつけてあった。

 紅吉はきれいな千代紙の着物や帯をつけた姉様に夢中になった。

 野枝がもらおうとしたものまで横取りした。

「ひどいわ、それだけは私にちょうだいよ」

 と野枝が口を尖らせて言うと、

「いや、これは私がもらうわ。あなたはあとで、もっとよくこしらえておもらいなさい」

「いやよ、私はそれがほしいんですもの。私が約束したんじゃないの。ひどいわ、ひどいわ」

「野枝さん、あたし今度、日本橋(※筆者注:「はいばら」と思われる)からもっといい千代紙を買って来てこしらえてあげるわよ。あれは紅吉にやっておきなさいよ」

「だって私ほしいわ、本当に紅吉はひどい!」

「あたしより、妙(たえ)さんはずっとうまいわ。姉さんにもこしらえてもらってあげるわ、およしなさいよ、あんなもの」

「ええ、じゃあそうするわ、本当にひどい紅吉、ずいぶんだわ」

 野枝が本気で怒るのを哥津も紅吉もおもしろそうにして笑った。

「だけど、今ごろ平塚さんはどこにいるのだろう?」

「よけいなお世話だわ、そんなこと」

 紅吉がまたもとの話に戻そうとするのを、野枝が一口で押しのけた。

「あなたは平塚さんのことというと真剣になるのね。そんなに平塚さんがいいの」

「いい方だわ、私好きよ」

「そう、今のうちが一等いいんだわ。ぜひぜひ信ずるといいわ」

「紅吉は私たちの前でばかしそんなこと言わないで、少し平塚さんの前で言うといいわ」

 なにかというと野枝がらいてうに可愛がられていると言っては、妙な嫌味を言ったり、野枝たちの前ではらいてうの悪口を言うくせに、らいてうの前では何も言えない紅吉を、野枝は腹立たしく思い怒った声で言った。

「野枝さんはすぐと本気になって怒るのね、およしなさいよ、そんなこと。紅吉も平塚さんの話なんかよすといいわ、もうさっきからずいぶん聞いたわ」

 哥津はふたりの喧嘩を、さもおかしそうに仲裁した。

「そいだって、いつも紅吉は私の顔さえ見れば、私が平塚さんに可愛がられているの、家来だのって言うんですもの、ひどいわ」

「帰りましょうよ」

 紅吉は薮から棒にいきなり立ち上がった。

「どうしたの、まあいいじゃありませんか」

「ええ、どうもしやしないけど」

「いやよ、紅吉は、本当に気違いじみているのね。おや、何か降ってきたわね」

 その晩、野枝と紅吉が哥津の家を出たときには、もうかなり雪が降り積んでいた。

 牛込見附で電車に乗り、水道橋の乗り換えでしばらく寒い風に吹かれながら立っていた。

「フイに今度の電車で平塚さんに会わないかな」

 ひとり言のように紅吉が言った。

 野枝は黙っていた。

「ねえ、私きっと平塚さんは伊香保にでも行っているような気がするけどーー」

「そう、今ごろは曙町のお宅でやすんでいっらっしゃるでしょうよ」

「そんなことないわ、きっと」

 電車が来た。

 ふたりはそれきり話をやめた。

 白山下で紅吉は降りた。

 ふたりはそのとき「さようなら」と言ったきりで、電車の中でも話はしなかった。

 其次に紅吉にあつたときに、紅吉は野枝の顔を見るといきなり、

「私の直感は実にえらいものだ。あたりましたよ、本当に感心しちやつた。」

「何の事、それは」

「そら、何時か、平塚さんが伊香保に行つてゐるつて気がするつて云つたでせう、あの晩矢張りさうなんですとさ、えらいでせう」

「さう、どうして分つたの」

「それやちやんと分るわよ、彼是の女中をよく知つてゐるんですもの」

「さうまあ、何だつてあんな処に平塚さん行つたんでせうね」

 私はひどく不吉な事を聞いたやうに顔をしかめた。
 
 何んだかその瞬間非常に平塚さんが不道徳なことでもしたやうな気がして思はずさう云つた。

 紅吉は勝ちほこつたやうな顔をした。

 けれど直ぐ次の瞬間には恐ろしく昂奮した表情になつた。

「それでね、口惜しいから平塚さんに会つて行つたでせうといつたらね、ひどいでせう私おどろくかと思つたらばね、平気で、えゝゆきましたよ、二度も三度もつて、それがどうしたんですつて調子なんです。私が一等くやしいのはそれなんです。そんな云ひ方つてないでせう? 何時でも彼の方は云ひのがれが出来なくなると高飛車に出てこちらを圧(お)しつけて仕舞ふんです。茅ケ崎のことだつてさうなんです。」

 紅吉はさう云ひながら、暗い/\影を顔にこしらへた。

 私は云ひやうもなくて黙つて紅吉の顔をながめてゐると忽ち私の顔をみつめた紅吉の目には涙が湧き出した。

(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年2月14日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p100~101/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p177~178)

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★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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