「詳伝・伊藤野枝」第184回 拳々服膺(けんけんふくよう)

文●ツルシカズヒコ

 野枝は『中央公論』三月号と四月号に「妾の会つた男」五人の人物評を書いたわけだが、『中央公論』五月号は「伊藤野枝の批評に対して」と題された欄を設け、中村狐月と西村陽吉の反論を掲載した。

 おそらく、狐月と西村が『中央公論』編集部に反論の掲載を要求したのだろう。

 ふたりの反論文は小さな六号活字で組まれているので、そのあたりに編集部が仕方なくスペースを割いたふうな状況も感じ取れる。

 狐月の文章には「伊藤野枝女史を罵る」という喧嘩ごしのタイトルがついているが、その内容は、野枝オタクである狐月らしく、野枝の勇み足を諌めるといった論調で書かれている。

 中央公論の三月号に書かれた時に、私は貴女(あなた)に直接に、あゝいふものを書くことはつまらないことだと言ひました。

 浅いものならば貴女を待つ必要はないのだから、あゝいふものの代りにもつと価値の有るものを書くやうに為(し)た方がいゝと言つたのでした。

 中央公論の四月号は、創作の批評を為(や)るために読まなくてはならないので、貴女から借りる約束をして、まだ貴女がろくに眼を通さない中(うち)に借りて来て、創作を読む前に貴女の文を読んで見ると、草平氏や泡鳴氏まで書かれてありました。

 ……徒らに口汚い言葉を使つて、言先きで強く書いてあるが、其根底の薄いことです。

 平塚氏と草平氏の彼(か)の事件についても、公平に言つて、半分は平塚氏の方が怜悧であつたと考へて居るであらうし、後の半分の人々は、草平氏の方が却つて怜悧であると考へて居るかもしれません。

 貴女が、単に見たゞけで、直ぐに草平氏を間抜けた己惚れ家としたのは、聡明であると考へて居られる貴女にも似合はないことだと思はれます。

 貴女は草平氏が想像と違つて居たと書かれましたが、如何(どう)して其(そ)う考へられたのですか。

 人傳に聞いて其う思つたのならば、人の言葉を聞く時に善く注意して、其人の如何(どう)いふ人であるかを判断し得なくてはなりません。

 要するに余りに根底がなさ過ぎます。

 貴女としてはもう少し慎重に書かなくてはなりません、考へなくてはなりません。

 人間は決して一と眼見たゞけでは、或は単に少(ちよつ)と考へたゞけで其真の底まで解るものでは有りません。

 泡鳴氏は小胆な正直者でありますと言ふあたりは、僅かのことから直ちにコンクリュウジョンに飛んで居て、十五六の少女(こむすめ)ならば、愛嬌にもなりますが、貴女も若くても既(も)う二人の児のお母さんです。

 餘り悪戯をして嬉しがる如(ごとく)なことを為(し)ないで、充分真面目に深く考へて貴女の価値の有るところを知らしめるように為(し)なくてはなりません。

(中村狐月「伊藤野枝女史を罵る」/『中央公論』1916年5月号_p40~43)

 西村はこう反論している。

 女の浅墓とか女の猿智恵とかいふ言葉がありますが、(日本女性の最も堅実なタイプを代表するあなたに対つてこんなことを言ふのは失礼千万ですが)あれをよんだ時にやつぱり女だな、殊に田舎の女だな、と思ひました。

 あなたに頻繁に会ったのはやはりあの青鞜を私の店でやつてゐた時分ですね。

 その時分あなたは親のきめた結婚とかを嫌つて、田舎から飛出してきたばかりの時で、ほんとに粗野な、厳丈な、田舎田舎した娘さんでした。

 あの平塚さんの円窓の室で会つたときの印象を、私は今でもはつきり覚えて居ります。

 あの時はたぶん紅吉も歌津ちやんもゐたと覚えて居ます。

 みんなが手の話をはじめたので、私はみんなの様々に異つた手を見ながら、非常にそれを面白く思つたのです。

 あなたは肉付のいいガツシリした手を出して、これで畠も耕したとか、二里の所を競泳したとかいふ話をしました。

 あなたの顔の色も手も一番黒かった。

 そして平塚さんの手が一番白くつて小さかつた。

 あなたは私が「石橋を叩いて渡る人」といふ称号を青鞜社の同人から貰つてゐると仰せられましたが、さういふ異数な事業を私が始めたと同時にその事業に蹉跌しまいとする私の注意が、私を特別に臆病にしたと思ひます。

 しかし私は出来るだけ周密にやらうといつも注意してゐました。

 「石橋を叩いて渡る人」の称号は謹んで頂戴いたします。

 『一しきりは大分、江戸ツ子を気取つてゐましたが、私はまだ氏の江戸ツ子らしい所を見たことがない。』

 野枝さん。

 借問しますが、江戸ツ子らしいといふのはどういふことが江戸ツ子らしいのですか。

 『物事に淡白でない、執念深くて、あきらめが悪い』とあなたはその次に言つてゐますが……。

 『宵越しの銭は持たねえ』と威張つたのは昔の江戸ツ子の事です。

 ……私は窃かに私の血の中に流れてゐる、あきらめ易い淡白な、執着の薄い、江戸ツ子の、都会人の性情を怖れました、そしてもつと執念ぶかく、もつと野暮にならなければいけないと私は一生懸命に決心しました。

 私はいまでもまだ私の身の中に流れて居る執念の薄い血を怖れてをります。

 『云ふ事は洗練された江戸ツ子の皮肉でなくて』とあなたは仰いますが私は軽口を言つて喜んでゐる、類型的な江戸ツ子なんかには忘れてもなりたくないと思つて居ります。

 野枝さん。

 『この頃ではまあご苦労様な社会主義者顔! 生活々々と「生活と芸術」で悧巧ぶつて大変な労働でもしてゐるやうな顔がをかしい。』

 とあなたはお書きになりましたが、なるべく口は注意しておききなさい。

 『大変な労働』をしなければ社会主義者にはなれないのですか。

 また生活を口にすることができないのですか。

 私が自分自身遊んで労働者階級に属さないといふならばそれは別に申條があります。

 『他人の労作をもとでに商売をしてもうけながら、その上に恩を着せたがるこの若い商人が社会主義者面!』とあなたは仰せられますが、野枝さん、私は商人ですから商売で儲ける外に路はありません。

 そしてあなたの御労作になる『婦人解放の悲劇』は千部印刷した本が三年後の今日まだ半数売れ残つて居ります。

 これでは恩に着せる位で澄ましこんではゐられないではありませんか。

 御飯が食べられませんもの、恩を着せなくても、社会主義者面をしなくつてもいいから、もう少しお金を儲けたいものだと常に思つてゐます。

 昔、私は平塚さんのところへ、『本屋は私の仮面だ、私の素志はもつと外の所にある』……とかいふやうなことを書いてあげたことがあります。

 さうしたら本屋が仮面でなく、本当の本屋になることを望みますといふ意味の返事が平塚さんから来ました。

 そして私は商人ですと言ひ切れなかつた私の子供らしさを恥しく思ひました。

 私はなんと言つても平塚さんは豪いと思つてをります。

 社会主義者面をしてお上からニラマレたり、世間から変に警戒されたりするのは商人として損なことです。

 ……まアあなたの言ふ通りこれは『どう考へても』『茶にしてゐる』のでせうかね。

 野枝さん。

 ちよつと訂正して頂くところがあります、私は『金持』ではありません、『金持』だなんてウツカリ言ふと、貧乏人どもが借りに来てうるさいから。

『心に巧をもつてゐる人程落ちつきはらつてゐます。』–––野枝さん、拳々服膺(けんけんふくよう)してあなたの御評言に沿ふやうにしたいと思ひます。

 それから末筆ながら大阪毎日の『雑音』ですね、誰よりもの熱心をもつて愛読してをります。

 私はあなたに塵ほどの悪意も持つてゐないことを言明いたしますから、何卒御手柔かにお願ひいたします。

 草々。 

 四月七日夜。

(西村陽吉「伊藤野枝に与ふ」/『中央公論』1916年5月号_p43~46)

長嶋亜希子

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