「詳伝・伊藤野枝」第224回 第一福四万館

文●ツルシカズヒコ

 『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に、こういう下りがある。

 ある日、大杉氏が私にいった。

 「伊藤野枝君が下宿にはいりこんできて困っている」

 「どうしたんです? あの人乳飲み児の子どもさんがあるんでしょう?」

 「子どもを千葉県の御宿にあずけるというんだが、金がないんだ」

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p150~151)

 野枝が御宿に行く前に大杉の下宿、第一福四万館に出入りしていたころのことであろう。

 神近は少しの金を出してあげた。

 が、その金は、大杉氏と野枝女史が二人で御宿へ行くために使われた。

 流二を御宿の漁師・若松家に里子に出して帰京した野枝は、大杉の下宿・第一福四万館に転がり込んだ。

 そのあたりから、『神近市子自伝 わが愛わが闘争』の記述に沿ってみたい。

 大杉と野枝はフリーラブのルールを破って同棲しているわけだが、神近がそのことに触れると、大杉は叫んだ。

 「うるさいな。僕はあの人が好きなんだ。それに金がないんだ。ぶつくさいわんでくれ!」

 神近は引き下がるしかなかった。

 野枝がこの世間を騒がせている男女関係を小説に書き、新聞に連載して多くの稿料を得ようとしたが、アテが外れたので、同棲を余儀なくされていると、大杉は言った。

 神近は彼らの現実を見る目の甘さに唖然とした。

 神近は野枝だけでなく、大杉にまで軽蔑を感じるようになり、それまで散々聞かされてきた大杉の革命理論にも疑いを持ち始めた。

 大杉が神近から金銭的な援助を受けていたこと、あるいはアナ・ボル対立の図式の中でボルが優位になりはじめていたことなどを鑑みて、神近はこう書いている。

 背に腹は代えられず、大杉氏は私の援助を受けたが、心の中ではさだめし不本意だったことだろう。

 誇り高い大杉氏としては、少なからぬ自己嫌悪を感じながら、それを受け取っていたに違いない。

 いまならば、他人が私と同じ立場を迎えたら、黙って身を退くように忠告するだろう。

 が、当時の私は、大杉氏になんらかの謝罪をさせないかぎりは、身を退くにも退けないと思いつめていた。

 外では、無政府主義者の革命論に労働階級が不信を示しはじめている。

 彼の持論にはない無産者独裁やソビエト組織への関心が高まってくるので……焦燥の日々を送っていたことだろう。

 それに加えて、多角恋愛の始末をつけるために、自己の不明を詫びることを要求されたのだ。

 それは同時に自分の革命論の基盤を否定することにも通じている。

 みずから革命家を気取り、高い指導者的地位にあることを自負していた大杉氏にとってこれは過酷な要求であった。

 私はいまにして、自分が残酷だったことを理解している。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p153)

 この発言は戦後、社会党の代議士になった神近の党派的発言の臭いが濃い。

 『神近市子自伝 わが愛わが闘争』は、日蔭茶屋事件の五十六年後に出版されている。

 当時の関係者はほとんど他界しているから、日蔭茶屋事件に関しては、この本は長生きした神近の後出しジャンケン的記述が多いと考えなければならない。

 大杉との関係が終末に来ていることを自覚していた神近だったが、いつまでも彼女がこだわったのは、大杉が嘲笑的に言う、こんな言葉だった。

「あんたには理解がない。伊藤はよく理解している」

 この嘲笑は、私には痛かった。

 いまなら、あるいはそのときでも、他人のことであったなら、野枝女史の理解というものは、理論ではなく、愛情の上で自分が勝利者であるという自信によるものだといえただろう。

 しかし、私にはそのゆとりはなかった。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p153~154)

 仲間たちから笑いものにされ、一部の人たちからは同情と憐憫を受けていることを、神近は知っていた。

 しかし、神近は同情もほしくなかったし、とくに憐憫にいたっては死んだほうがましだと考えていた。

 自殺ができるということで、神近はわずかに自分を慰めていた。

 神近が短刀を買ったのは、神田に用事があり神保町から駿河台に出ようとしたときに通りかかった刀剣店だった。

 神近は大杉と野枝が下宿している第一福四万館の部屋代を何度か立て替えた。

 大杉はダーウィンの『種の起原』の翻訳ができあがったら、その立て替え金を返すと言った。

 『種の起原』の原稿料が来ると知らされた翌日、私は午前中に福四万館に電話をかけた。

 が、二人は留守だった。

 そこに、大杉氏が大金を手に入れて葉山に行ったという話をしにきた人があった。

 ……私との約束を破り、秘密にして行ってしまったことから、野枝女史がいっしょだということを私はすぐ感じとった。

 二、三の人をあたってみると、宿の名もすぐわかった。

 私はカーッとして、思わず短刀をとり出していた。

 私は混濁した気持ちで、午前中は、机の前で考えつづけた。

 午後になって、私はやはり葉山に行くことにした。

 そして三人で話をつけようと思った。

 私は短刀を鞘におさめて、手提げの中に入れた。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p156~157)

 神近は「(第一)福四万館」に電話をかけたと書いているが、この時点では大杉と野枝は菊富士ホテルに移っているので、これは神近の誤記である。

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

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