「詳伝・伊藤野枝」第138回 谷中村(三)

文●ツルシカズヒコ

 今まで十年もの間、苦しみながらしがみついて残っていた土地から、今になってどうして離れられよう。

 村民の突きつめた気持ちに同情すれば溺れ死のうという決心にも同意しなければならぬ。

 といって、手を束(つか)ねてどうして見ていられよう?

 けれど、事実の上ではやはり黙って見ているより他はないのだ。

 しかし、どうしても自分は考えてみるだけでも忍びない。

 この自分の気持ちを少しでも慰めたい。

 せめて、その人たちとしばらくの間でもその惨めな生活をともにして、その人たちの苦しみを自分の苦しみとして、もし幾分でも慰められるものなら慰めたいというようなことを、渡辺はセンティメンタルな調子で語った。

 野枝もいつしか引き込まれて暗い気持ちに襲われ出した。

 しかし、野枝にはどうしても「手の出しようがない」ということが腑に落ちなかった。

 とにかく、幾十人かの生死にかかわる悲惨事ではないか。

 なぜに犬一匹の生命にも無関心ではいられない世間の人たちの良心は、平気でそれを見逃せるのであろうか。

 手を出した結果がどうあろうと、伸ばせるだけは伸ばすべきものではあるまいか。

 その人たちの心持ちは「手の出しようがない」のではなく「手を出したってつまらない」というのであろう。

「ではもう、どうにも手の出しようはないというのですね。本当に採ってみるなんの手段もないのでしょうか?」

「まあそうですね、もうこの場合になっては、ちょっとどうすることもできませんね」

 しかし、結果はどうとしても、なんとかみんなの注意を引くことくらいできそうなものだ、と野枝は思った。

 こういうことを、いくら古い問題だからといって、知らぬ顔をしているのはひどい。

 野枝は渡辺の話に感ずるあきたらなさを考え詰めるほど、だんだんにある憤激と焦慮が身内に湧き上がってくるのを感じた。

「嶋田という人は、木下さんや逸見さんのところに、そのことで何か相談に来たんですか?」

 今まで黙っていた辻が突然に口を出した。

「ええ、まあそうなんです。しかし、村民もいまさら他からの救いをあてにしてるわけではないので、相談というのも、ほんの知らせかたがたの話に来たくらいのものなんですけれど、どうも話を聞いてみると実に惨めなもんです。実際どうにかなるもんなら――」

 渡辺政太郎 (まさたろう)はそう言って、どうにも手出しのできないことをもう一度述べてから、木下のろくに相手にもならない心持ちは、たぶん今、当局に他からいくら村民たちの決心を呑み込ませようとしても無駄だから、やはりどこまでも本人たちによって示されなければ、手応えはあるまいということ、そうした場合になれば、ひとりでに世間の問題にもなるだろうという考えだろうと説明した。

「僕もそう思いますね。実際もうなんとも仕方のない場合になってきているのですからねえ」
 
 辻は冷淡な調子で、もうそんな話は片づけようとするように言った。

 辻は渡辺の谷中村の話から話題を変えたいようだったが、その話に興奮させられた野枝は可哀想な村民たちの生活を知ろうとして、渡辺に根掘り葉掘り聞き始めた。

 彼らの生活は、野枝の想像も及ばない惨めさであった。

 わずかに小高くなった堤防のまわりの空地、自分たちの小屋のまわりなどを畑にして耕したり、川魚を獲って近くの町に売りに出たりしてようやくに暮らしていた。

 そればかりか、とてもそのくらいのことではどうすることもできないので、貯水池の工事の日傭いになって働いて、ようやく暮らしている人さえいた。

 その上にマッチひとつ買うにも、二里近くの道を行かなければならないような、人里離れたとこで、彼らの小屋の中は、真っ直ぐに立って歩くこともできないような窮屈な不完全なものであった。

「よくまあ、そんな暮らしを十年も続けてきたものですねえ。で、その他の、買収に応じて他へ立ち退いた人たちはどうなっているんです?」

 野枝の頭の中では渡辺が語る事実と、彼女の感情が、いくつもいくつもこんぐらがっていっぱいになった。

 しかし、そのもつれから起こってくる焦慮に追っかけられながらも、なお聞くだけのことは聞いてしまおうとして尋ねた。

「ええ、その人たちがまたやはり、お話にならないような難儀をしているのです。みんなが苦しみながら、でもまだ、谷中に残っているのは、ひとつはそのためでもあるんです。今いる人たちの間にもいったんは他へ行って、また戻って来た人などもあるんだそうです」

 買収に応じた人たちも、残った人たちに劣らぬ貧困と迫害の中に暮らさなければならなかった。

 最初はいいかげんな甘言に乗せられて、それぞれ移住して、ある者は広い未開の地をあてがわれて、そこを開墾し始めた。

 長い間、朝も晩も耕し、高い肥料をやっても、思うような耕地にはならなかった。

 収穫はなくわずかばかりの金はなくなる。

 人里遠い荒涼とした知らない土地に、彼らは寒さと飢えにひしひし迫られた。

 ある者は、たまたま住みよさそうなところに行っても、そこでは土着の人々から厳しい迫害を受けなければならなかった。

 彼らの頼りは、わずかな金であった。

 その金がなくなれば、どうすることもできなかった。

 土を耕すことより他には、なんの仕事も彼らは知らないのだ。

 耕そうにも土地はないし、金がなくなれば、彼らはその日からでも路頭に迷わねばならなかった。

 そうしたハメになって、ある者は再び惨めな村へ帰った。

 ある者はなんの当てもない漂浪者になって離散した。

 渡辺によって話される悲惨な事実は、いつまでも尽きなかった。

 ことに、貯水池についての利害の撞着や、買収を行うにあたっての多くの醜い事実、家屋の強制破壊の際の凄惨な幾多の悲劇、それらが渡辺の興奮した口調で話されるのを聞いているうちに、野枝もいつかその興奮の渦の中に巻き込まれていった。

 そして、それらの事実の中になんの罪もない、ただ善良な無知な百姓たちを惨苦に導く不条理がひとつひとつ、はっきりと見出されるのであった。

  あゝ!  此処にもこの不条理が無知と善良を虐げてゐるのか。

 事実は他所事(よそごと)でもその不条理の横暴は他所事ではない。

 これをどう見逃せるのであらう?

 且(か)つてその問題の為めに、一身を捧げてもと人々を熱中せしめたのも、たゞその不条理の暴虐に対する憤激があればこそではあるまいか。

 それ等の人はどう云ふ気持ちで、その成行きを見てゐるのであろう?

  M(※渡辺政太郎)氏は日が暮れてからも、長い事話してゐた。

(「転機」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号〜2月号・第1巻第2号/『乞食の名誉』・聚英閣・1920年5月/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p393/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p224~225)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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