「詳伝・伊藤野枝」第204回 ミネルヴア

文●ツルシカズヒコ

 野枝のところに「お八重さん」こと野上弥生子から、長い長い手紙が届いた。

 野枝は弥生子の手紙の文面を引用しながら、大杉に手紙を書き、弥生子への反論をしている。
 
 ……私の今度の事に就いて可なりはつきりと意見を述べてくれました。

 しかし私は、もう到底理解を望む事は出来ないと断念しかかつてゐます。

 ……彼(あ)の人には、恋愛と云ふ事が何んであるか解つてゐないのです。

 あの人の恋愛観は、皆書物の上のそれです。

 外のいろ/\の理窟は分るとしても、その心持が本当に解らない人には説明のしようはないと思ひます。

 しかし、私は出来るだけ説明してみるつもりではありますけれど。

 私の一番親しい友達が、私をどのやうに見てゐたかを、少しお知らせしませうか。

「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙–––伊藤から」)

『あなたの心霊がこの二三年、無意識にも有意識にもあこがれを感じ、渇きを覚えてゐる強い力–––殊に異性の雄々しい圧力–––これを提(さ)げてあなたに迫るものがあつたとしたら、それは必ず大杉氏であつた事を要しない。

 誰でもよかつたのではありませんか。

 寧(むし)ろ、それほど必然的な危機があなたの周囲に生じてゐたと云ふ事を示すのです。

 それほど重大なワナがあなたに投げかけられてゐたのです。

 ですから、その強い魅力のある圧力の具体化として大杉氏が現はれたとき、どこまでも慎重にならなければならなかつたのです。

 それが本統に自分の要する力か、自分に適した力か、純粋のものかをぢつと/\凝視する時間を、多く持つ程がいいのだつたと思ひます。』

「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙–––伊藤から」)

 本当に、私はあなたでなくてもよかつたでせうか。

 私はさうは思ひません。

 私が、どんなに長くあなたを拒まうとして苦しんだかを、お八重さんは知らないのです。

 私は慎重でなかつたのでせうか。

 慎重でなかつたかも知れませんね。

 けれども、私達は始めからそのやうな処を超えてゐたのではないでせうか。

 慎重と云ふやうな言葉の必要を感ずるよりも、もつとずつと近い所にゐたのだと云ふ気がします。

 ですから、お八重さんが『かう苦しまねばならない』と想像してゐるのと、私が苦しんだ事との間には、可なりの距離があるやうに思ひます。

 そして又お八重さんは、私が第二の恋愛にはいつたのは、第一の牢から第二の牢にはいるのと同じだと云ひます。

 私が今日まで謂(い)はゆる第一の牢で何に苦しんだのでせう。

 同じ苦しみをした同じ処にはいつて行くほどの、私は馬鹿ではないと信じます。

 第二の牢と第一の牢とが同じものならば、第二とか第一とか呼ぶ必要はない。

 同じ処に帰つてゆくのだと云へばよろしい。

 私は同じ処に二度はいつて、違つた処にはいつてゐると云ふ程の盲ではないつもりです。

 同じ処に何時までもちぢこまつて、出たりはいつたりするものを嘲笑(あざわら)つてゐる不精者や利口者よりは、もう少し実際にはいろんなものを持つ事ができるのではないでせうか。

 私は、出来るだけ躊躇なく出たり入つたりしたい。

 いろ/\な処でいろ/\な事を知りたい。

 どうせ現在の私達の生活は牢獄の生活ではないでせうか。

 何処に本当の自由な天地があるのでせう。

 お八重さんは、自分を本当に自由な処にゐるのだと思つてゐるのでせうか。

 又、私が辻と別居してあなたとの恋愛に走つた事はミネルヴアの殿堂に行くつもりで又もとのヴイナスの像の前にひざまづくものだと云ひます。

 かうなると、私はもう何にを云ふのも厭やになります。

 ミネルヴアとヴイナスと一緒に信仰する事は出来ないと云ふ事があるのでせうか。

 私達の恋愛がどのやうなものであるかと云ふ事が、少しも分らないのでせうね。

 矢張り、私はだまつて私達の道を歩いて行きさへすればいいのですね。

 他人が分らうと分るまいとそんな事にはもうこだはつてゐる気になりません。

 そして最後にお八重さんは云ひます。

「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370~371/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙–––伊藤から」)

『あなたはまだお若いから困りますね。

 もつと聡明に恋をして下さい。

 でないと、あなたのしようとしてゐる事が、何にも出来ないで駄目になりますよ。

 今までの苦心も水の泡になりますよ。

 しつかりなさい。

 モルモン宗に改宗したり、恋の勝利者なんて浮れてる時ぢやありませんよ。』

「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p371/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙–––伊藤から」)

 お分りになりました?

 ねえ、私のお友達は本当に聡明ですね。

 私の本当の事を知つてゐて下さるのは、あなただけね。

 どうせ、私はもうあのサアクル(青鞜社)におさまつてはゐられないのですもの。

 私は血のめぐりの悪い、殿堂におさまつた冷いミネルヴアはいやです。

 私が、これからどのやうな道を歩かうとしてゐるのか、それもあの人には分つてゐないのです。

 私は本当に勉強します。

 五年先きか十年先きになれば、屹度(きつと)半分位は分るかも知れませんね。

 私が恋に眩惑されてゐるのかさうでないかが。

 眩惑されてゐるとしても、その恋がどんなものであるかが。

 何んだか、私はまるであなたに怒りつけてゐるやうね。

 御免なさい。

 でも、なんだかあなたに話をして見たかつたんですもの。

「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p372/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙–––伊藤から」)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

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