「詳伝・伊藤野枝」第215回 だけど

文●ツルシカズヒコ

 一九一六(大正五)年十一月八日、夕食をすませると大杉はすぐに寝床を敷かせて横になった。

 神近はしばらく無言で座っていたが、やがてそばの寝床に寝た。

 大杉は長年の病気の経験から、熱のあるときは興奮を避けてできるだけ何も考えないようにして、ただ静かに眠ることにしていたが、なかなか眠れなかった。

 大杉は前夜の神近の恐ろしい顔を思い出した。

 「ゆうべは無事だったが、いよいよ今晩は僕の番だ」

 大杉はそう思いながら、神近がどんな兇器を持っているか想像してみた。

 彼女はよくひと思いに心臓を刺すと言っていた。

 とすれば、短刀だろうか。

 それをどこに持っているのだろう。

 彼女は小さな手提げを持っていたが、あんな小さな手提げでは七、八寸のものでも隠せまい。

 懐ろの中にでも持っているのだろうか。

 とにかく、刃物なら恐れることもない。

 振り上げたときに、すぐにもぎ取ってしまえばいいのだ。

 ピストルだったら、ちょっと困る。

 どうせろくに撃ち方も知らないのだろうが、それにしてもあんあまり間が近すぎる。

 最初の一発さえ外せば、もうなんのこともないのだが、その一発がどうかすれば急所に当たるかもしれない。

 一発どこかに撃たしておいて、すぐ飛びかかっていけばいいのだ。

 女のひとりやふたり、何を持って来たって、恐れることがあるものか。

 「ね、何か話しない?」

 一、二時間してから、神近が大杉の方に向き直って泣きそうに話しかけた。

 「してもいいが、愚痴はごめんだ」

 「愚痴なんか言いやしないわ、だけど……」

 「そのだけどが、僕はいやなんだ」

 「そう、それじゃ、それも止すわ」

 「それよりも、この一、二日のお互いの気持ちでも話そうじゃないか。僕はもう、こんな醜い、こんないやなことは飽き飽きした。ね、お互いにもう、いい加減打ち切りどきだぜ」

 「ええ、私ももう幾度もそう思っているの、だけど……」

 「まただけど、だね。そのだけどで、いつも駄目になるんだ。今度こそもうそれを止しにしようじゃないか」

 「だけど、もっと話したいわ」

 「話はいくらでもするがいいさ。しかし、もう、お互いにこんないやな思いばかり続けていたって、仕方がないからね。本当にもう止しにしようよ」

 「ええ……」

 神近はまだ何か話したそうだったが、その話の先をいちいち大杉に折られてしまうので、今度は黙って何かを考えているようだった。

 大杉はどうせなら、神近の持っている殺意にまで話を進めたかったが、彼女が折れて来ているので、そのタイミングがつかめないでいた。

 大杉はとりあえず、これ以上、彼女が折れて来るのを防ぐことだけを考えていた。

 神近はそれっきり黙ってしまった。

 大杉も黙ってしまった。

 大杉はこれだけのことでも言ってしまったので、多少胸がすっきりして、静かに眠ったようにしていた。

「ね、ね」

 それからまた一、二時間ぐらいして、神近が大杉に話しかけるように言った。

 「ね、本当にもう駄目?」

 「駄目と言ったら駄目だ」

 「そう、私、今何を考えているのか、あなたは分かる?」

 「そんなことは分からんね」

 「そう、私、今ね、あなたがお金のないときのことと、あるときのことを考えているの」

 「というと、どういう意味だい?」

 「野枝さんが綺麗な着物を着ていたわね」

 「そうか、そういう意味か。金のことなら、君に借りた分は明日、全部お返しします」

 大杉は金のことを言い出されて、すっかり憤慨してしまった。

 「いいえ、私、そんな意味で……」

 「いや、金の話まで出れば、僕はもう君とひと言も交わす必要はない」

 大杉は神近がまだ二言、三言何か言っているのも受けつけずに黙ってしまった。

 いつでも気持ちよく、しかも多くは彼女から進んで出していた金のことを、今になって彼女が言い出したことは、大杉にとってはまったく心外だった。

 金ができたから彼女を棄てるのだというような意味のことを言われるのも、そうだった。

 大杉は金の出道を彼女には話していなかった。

 それも彼女には不平のひとつらしかったが、そのころ、大杉はそれを打ち明ける同志としての信用を神近に持ってはいなかった。

 「雑誌などはどうでもいい、明日、後藤からせしめた金を野枝に持って来てもらって、こいつに投げつけてやるんだ」

 大杉はひとりそう決心をした。

 普段、人の着物なぞにちっとも注意しない彼女が、そういえば野枝の風体をじろじろ見ていた。

 大杉が少しうとうとしていると、誰かが蒲団に触るような気がした。

 「何をするんだ?」

 大杉は体を半分蒲団の中に入れようとしている神近を見て怒鳴った。

 「○○○○○○○○○○○○」(※筆者註/大杉栄「お化を見た話」では十二字削除されている)

 神近はその晩初めて口をききだしたときのように、泣きそうにして言った。

 「いけません、僕はもうあなたとは他人です」

 「でも、私、悪かったのだから、謝るわ。ね、話して下さいね。ね、いいでしょう」

 「いけません。僕はそういうのが大嫌いなんです。さっきはあんなに言い合っておいて、その話がつきもしないのに、そのざまはなんていうことです」

 大杉は彼女の訴えるような、しかしまた情熱に燃えるような目を手で退けるようにして遮った。

 彼女の体からは、その情熱から出る一種の臭いが発散していた。

 ああ、彼女の肉の力よ。

 大杉は神近との最初の夜から、それをもっとも恐れかつ同時にそれにもっとも惹かれていた。

 彼女はヒステリカルな憤怒の後に、その肉の力をもっとも発揮するのだった。

 この夜の彼女は、初めから執拗さや強情が少しもない、むしろ実にしおらしくおとなしかった。

 しかし、このしおらしさが彼女の手と言ってもいいので、大杉は最初からそれを峻拒していた。

 神近は決然として自分の寝床に帰り、じっとしたまま寝ているようだった。

 大杉は仰向けになり、両腕を胸の上に並べて置き、彼女が動いたらすぐに起き上がれる準備をして目をつぶったまま息をこらしていた。

 一時間ばかりの間に、彼女は二、三度ちょっと体を動かした。

 その度に大杉は拳を固めた。

 やがて、彼女は起き出して、大杉の枕元の火鉢のそばに座り込んだ。

 大杉は具合が悪いなと思った。

 横からなら、どうにでも防げるが、頭の方からでは防ぎようがないと思った。

 しかし、大杉は今さら起きるのも業腹だった。

 ピストルで頭をやられたらちょっと困るが、ピストルはそう急に彼女の手に入るまい、兇器は刃物だろう、刃物なら防ぎようがあると大杉は思った。

 「しかし、今度は決して眠ってはならない。眠ればおしまいなのだ」

 大杉は自分にそう言い聞かせて、目をつぶったまま両腕を胸の上に並べて息をこらし、頭の向こうの静動を計っていた。

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