「詳伝・伊藤野枝」第218回 お源さん

文●ツルシカズヒコ

 前回に引き続き、神近市子『引かれものの唄』の記述に沿って、神近が警察に自首するまでを追ってみたい。

 一九一六(大正五)年十一月八日、日蔭茶屋のある神奈川県三浦郡葉山村字堀の内の光景について、神近はこう記している。

 秋の末頃の太陽は、どこか底冷たくキラ/\と、今にも色を変へ様としてゐる海の水に戯れてゐました。

 冬前の悲しい小鳥達は、騒ぎつれ乍(なが)ら慌しさうに紅葉(もみぢ)しかけた葉陰の蟲(むし)を探したり、落ちこぼれた穀物を拾ひ集めたりして、目の前に押しよせて来る冬の飢饉を意識しかけて居りました。

(神近市子『引かれものゝ唄』・法木書店)

 日蔭茶屋の前には小さな丘があった。

 宿と道を隔てて海の方を向いたかなり急な丘だった。

 二十坪足らずの平地になっている頂上には、木製の木目が出てしまったベンチがいくつかあった。

 その丘を気に入った神近は、ベンチに腰かけてボンヤリと海を見つめていた。

 朝から風はほとんどないのに、海は荒れていた。

 大杉が「天気がよかったら、向こうに江ノ島が見えるよ」と言っていたが、海には靄(もや)がかかり、空と島の区別がつかなかった。

 ド、ド、ド、ド、ドド、ドドーーーッ。

 鎌倉の方向の沖の波が荒れていた。

 海が眺めながら日向ぼっこをしていた彼女は、いつしか郷里・長崎県北松浦郡佐々(さざ)村小浦の海と郷里で暮らした幼いころのことを思い出していた。

 そして、ちょっと郷里に帰って、母と子供に逢ってこようかとも思った。

 そのときであった。

  『カーツ!』

 どこかで痰を吐く音がしました。

 フト宿の方を見返へると、あの男が縁側に出て庭に痰を吐いたのでした。

 ゆきのない短かい宿の丹前を前下りに着て、縁側の手すりに手を張つて吐いて了ふと、誰に見られてゐるとも知らずに明け放した室内に入つて了ひました。

(同上)

 そのとき、神近は眼下にある宿の全景を初めて見た。

 あのへんでは相当な宿であり、中にいれば相当に大きく感じるあの宿が、小さく小さく掌の指の間から見えた。

 広いと思っていた中庭も後方に続く山の立ち木の一端にすぎなかった。

 右に行けば葉山、左に行けば逗子に通じる宿の前の道は、細い一本の糸を置いたように見えた。

 私は又慌しく後方(うしろ)を振り返りました。

 そこには海が、海が、海が………。

 前の様に広く、そして荒れて、鮮かな陽(ひ)の下にキラ/\と輝いてゐるのでした。

『広い/\世界のタツタ一部の、針の先でついたやうな地面の一軒の家がある、そしてその一軒の家の屋根の下の一部の一部の一部の一部にあの男が座つてゐるのだ』

(同上)

 神近が日蔭茶屋の二階の部屋に戻ると、大杉は左の手で頤(あご)の髭を引っぱりながら、二枚か三枚の原稿紙を前にしていた。

  『どう、少しは出来た?』
 『駄目だ、旨く行かない』

 さう云ふので、手に取つて見ると、一生懸命で或る論文のプロツトを立ててゐるのでした。
 
 『○○内閣は善政主義を標榜して立つた』『我等はこれに何物を期待すべきか』『社会主義』『国家社会主義』、そんな字が並べてあつて、線でつないだり印をつけられたりしてゐました。

 私は何事か急に笑はねば居られないやうに感じました。

 それを具体化して云つて見れば、

 『何と云ふ海の大きさだらう、何と云ふ人間の小さゝだらう、だまつて働く力の何と云ふ強さであらう、多くを云つて何も出来ないものゝ何と云ふ臆病さだらう』

 とでもなりますか。

 机に寄って、考へ/\点をとつたり字を消したりしてゐるのが『ひねくつてゐる』と云ふ形容詞をそのまゝ表現してゐるやうに思へたのです。

(同上)

 神近はもう一度、海を見に行きたくなった。

『海は好(い)い気持よ、少し出て見ない?』

 と云ひますと、

 『止(よ)さう、どうも風に当たると大変に気持が悪い』

 と云ふので、私は又一人海に行きました。

(同上)

 外はもう夕方が暗く押し寄せていた。

 ちょうど満ち潮で、力強い波がドーンと石垣を洗って高い飛沫を神近の目の前に上げていた。

 彼女の頬にはなぜか涙が伝った。

 ふと気がついて振り返ると、そこに宿のお源さんが立っていた。

 「御飯だから迎へに来たの?」

 と尋ねても、ニッと笑うだけだった。

 お源さんは神近の悲しみを知っているというように、彼女の顔をジーッと見ると、また海の方を見て立っていて、神近が動かなければ動こうとしなかった。

★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版/『神近市子著作集 第一巻』・日本図書センター・2008年)

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